【緊急増補版】なぜ東京電力を免責にできないのか

森本紀行
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本コラムの掲載後(4月28日掲載)、東京電力免責問題が世間の注目を集めてきたこともあり、ユーザーの皆様から多数の反響を頂きました。その後の展開を踏まえた緊急増補版として本コラムの内容をアップデート致します。本文中一部の語句の修正、下部青字より、内容の追加を行なっております。

前回の論考「「異常に巨大な天災地変」と東京電力の責任」では、法律上、東京電力に責任はないのではないか、なのに、政府は強引に東京電力に責任を負わせようとしているのではないか、そのような示唆がなされていました。今回は、その政府の意図に正面から切り込もうというわけですか。

 特に過激な政治思想を開陳しようというのではありません。ただ単に、政府自らが法秩序の安定性を損なうことは、あり得ないであろうということ、もしも、東京電力に法律上の責任があるのならば、政府には、その根拠を明確にする責任があるであろうということ、それだけをいいたいのです。
 かくいうことは、しかし、東京電力に責任がないという趣旨ではありません。法的責任の有無は、司法の判断を待つしかないことですし、仮に法的に責任がなくても、社会的責任は別問題だろうからです。
 政府は、法律の適用に当たっては、法解釈の根拠を明確に説明する必要がある。それは、単に政府の解釈に過ぎないのだから、反対の意見をもつ利害関係者は訴訟で争えばよい。そのような動的な対立過程を通じて、最終的に裁判所の判断として、法律解釈が確定していくのが、社会の仕組みです。
 現状、政府は、「原子力損害の賠償に関する法律」に基づいて、東京電力の無限責任を認定しています。ということは、免責事由である「異常に巨大な天災地変」の適用はない、という法解釈になります。一方で、政府は、東京電力の施設の管理維持に関して、特に、政府が定めた安全基準への違反等を認めていないようでもあります。
 枝野官房長官は、4月27日の記者会見において、この免責事由の適用について、「最終的には裁判所が法律に基づいて判断すると思うが、免責条項が適用されるとは、私も法律家の一人として考えられない」と述べています。しかし、残念ながら、法律家としての個人的見解としても、政府の公式見解としても、なぜ免責の適用がないのか、という理由は述べられていません。そこが不満なのです。
 ここで、私に理解できないのは、政府の定めた安全基準の想定をも超えるような天災地変でも、法律の定めた「異常に巨大な天災地変」という免責事由に該当しないという、その法解釈の根拠なのです。そして、納得できないのは、その解釈の根拠を明らかにしないことなのです。


政府の定めた安全基準そのものが、不十分ということになるのではないですか。

 そうでしょう。それ以外に解釈しようがないでしょう。だとすると、東京電力の立場は、どうなるのでしょうか。政府の安全基準の不十分さについてまでも、責任を負うということでしょうか。政府の基準よりも、より高い基準を自らに課す義務があったというのでしょうか。それでは、いかにも酷というか、理不尽ではないでしょうか。


そうかもしれませんが、どこにも東京電力に同情する人はいないようですね。東京電力自身も、自らの責任を認めているようですし。

 そのようですが、どうしてそうなるのでしょうね。仮に、法律上は免責になるのだとしたら、東京電力は、株主や債権者にも責任を負うのだから、自らの責任範囲について、正当な主張をすべきだと思います。
 もしも、東京電力自身が、「異常に巨大な天災地変」に起因する事故ではないと考えているとしたら、今回の事故は、合理的な予見可能性の中にあったことを認めるということでしょうか。安全対策が万全ではなかったことを認めるということでしょうか。もしもそうなら、東京電力は、同時に、政府の定めた安全基準が不備だったことを主張するのと同じになるのではないでしょうか。


政府も、東京電力も、一体のものとみなされているのではないですか。政府の責任も、東京電力の責任も、同等に考えられているのではないでしょうか。

 そうとしか思えないですね。だとすると、一体、法律で定めた「異常に巨大な天災地変」という免責事由は、何だったのでしょうかね。
 ちなみに、「原子力損害の賠償に関する法律」の第一条は、同法の目的を「被害者の保護を図り、及び原子力事業の健全な発達に資すること」としています。「被害者の保護」は、法の趣旨から明瞭ですが、「原子力事業の健全な発達」というのは、少し、違和感がありますね。
 おそらくは、免責事由をおいたことと、この法の目的とは深い関係があるのではないでしょうか。「原子力事業の健全な発達」といいますか、要は、原子力発電の推進を図るためには、原子力事業者の参入を容易にする必要があったのだと思います。それが、免責事由に現れたのではないでしょうか。
 ですから、最初から、原子力発電を推進するという一点において、政府も原子力事業者も、共同して責任を負うことが予定されたのだと思います。それがまた、国民の暗黙の了解だったのだと思います。


政府と東京電力が一体として責任を負うとしても、法律上、第一次的な責任はどちらが負うのかは、明確にする必要はありますね。

 そこなのです、私がこだわるのは。法律の適用は明確にしなくてはならない。なぜ私が法律論にこだわるかというと、法律の適用の予測可能性のないような国では、投資は、資産運用は、なりたたないからです。具体的にいいますと、法律の適用の違いによって、東京電力が無限責任を負う場合と、免責になる場合とでは、東京電力の株式と社債の投資価値判断が、大きく異なることになるのが問題なのです。
 また、東京電力の無限責任を認める場合でも、「原子力損害の賠償に関する法律」第十六条で、政府は、「原子力事業者に対し、原子力事業者が損害を賠償するために必要な援助を行なうものとする」とされている、その援助の範囲によっても、東京電力の株式と社債の投資価値判断は、大きく違ってくると思われるのです。
 この政府の援助の範囲は、同条第二項で、「国会の議決により政府に属させられた権限の範囲内」とされていますが、具体的な国会の議決は、まだ行われていません。なお、枝野長官は、先ほど引用した同じ記者会見で、「最終的に東電と国の負担割合については、一般的な不法行為に基づく、あるいは損害賠償法理に基づいて、不真正連帯債務になるかと思うので、その場合の国と東京電力の間の負担割合がどうあるべきなのかはいずれ議論があるんだろうと思うが、しかし、まず被害者との関係では、きちっと国と東京電力と、一義的には納税者との関係もあるので、一義的には東電において生じた、相当因果関係の範囲にある損害については補償するのが当然だ」と、何ともわかりにくい言語不明瞭なことを述べています。
 この枝野長官の発言でいうところの、「いずれ議論がある」は、国会の議決のことを指しているのでしょう。政府見解を支持するとしても、「国と東京電力の間の負担割合」を国会の議決によって決めない限り、東京電力の株式と社債の価値評価はできません。そのような状況の中で、社債は国が保証するとか、東京電力の国有化はあり得ないとか、そのような思惑で、東京電力の株式と社債を売買することは、投機以外の何ものでもありません。
 しかも、枝野長官のいうとおり、「最終的には裁判所が法律に基づいて判断する」のですから、仮に、政府解釈の方向の中で事態が進行していっても、最終的な司法判断によって、根本が覆る可能性もないわけではないのです。


東京電力に対する国民感情に戻るのですが、東京電力を免責にすることには、非常に強い抵抗があるようですが、なぜなのでしょうね。

 恐らくは、東京電力は、民間企業としてというよりも、政府と一体となった独占企業として、政府に向けられるべき批判を背負う宿命にあるのでしょう。そこを政府も上手に利用して、責任を回避しているのでしょうね。
 政府の定めた安全基準に準拠していたのだから免責、という道理には、国民の誰も納得しそうにないのは、政府の定めた安全基準というよりも、東京電力と政府が相談して決めた安全基準と思われているからでしょうね。
 しかし、原子力発電事業は、政府が東京電力を利用して強力に推進してきたのであって、まさか、東京電力が政府を利用して強力に推進してきたわけではないでしょう。東京電力は、政府を利用するほどの大物でしょうか。むしろ、政府に利用された小物ではないでしょうか。事実、都合の悪くなった今、政府から全責任を押し付けられている、惨めで哀れな小物ではないでしょうか。


このコラム、4月28日から掲載しているのですけれども、ちょうど掲載直後くらいから、東京電力免責問題が世の注目を集めてきました。ということで、今日(5月2日)は、その後の展開を踏まえた補足をお願いします。

 管総理大臣は、29日の衆議院予算委員会で、「規定をそのまま認めることは、東電を免責することを意味する。東電には賠償の面で第一義的な責任はある」、「原発推進の立場で取り組んできた国の責任も免れない」と発言しました。
 前段の発言は、実に奇怪なものです。これは、東京電力を免責にすることはできないから、法律の規定を適用することはできないという、恐るべき倒錯の論法です。法律の適用の前に断定を行う、管直人氏は、そのような無法な総理大臣なのでしょうか。
 また、後段の政府責任に関する発言は、「原子力損害の賠償に関する法律」が免責規定をおいた趣旨に関係しています。先に申しましたように、この免責規定は、原子力事業者の参入を可能にするために、政府が原子力発電事業を推進するために、おかれたものと思われるのです。したがって、この発言も、法律解釈としては倒錯したものです。原発推進の立場で取り組んできた国の責任も免れないからこそ、東京電力を免責にせざるを得ないと解すべきものです。
 また、枝野官房長官は、29日の記者会見で、「大きな津波で当該原発が事故に陥る可能性があるということは、国会などでも指摘をされていた。全く誰もそんな指摘がなかったということならば、想定できないような被害だった言えるが、国会などでも指摘をされていながら、それに対して備えていなかった以上は、それは免責条項にあたるということはとても考えにくい」と発言しました。
 そうでしょうとも、そうでしょうとも。「国会などでも指摘をされていながら、それに対して備えていなかった」過失を認めるのですね。その過失責任が東京電力を免責にしない理由なのですね。であれば、安全基準に関する政府の責任はどこにいくのですか。東京電力を管理監督する政府の責任はどこにいくのですか。東京電力に過失がある以前に、政府により重大な過失のあったことを認めるのですね。
 こうなれば、もはや、東京電力免責問題は小さな論点です。政府が危険を承知しながら対策を講じなかった、その政府の怠慢をいいことにして、東京電力も対策を講じなかった、その結果がこの事故だ、だから東京電力に責任がある、そのような厚顔無恥な論法をとる政府のあり方が、決定的に問題なのです。

東京電力の責任以前に、長年の原子力政策における政府責任、この事故の遠因を作ってきた長年の政府責任が問題なのですね。政府と東京電力が連帯して負うべき、国民への責任が問題なのですね。
 
 東京電力を法律的に免責にすることは、東京電力を社会的に免責にすることにはならない一方、政府責任を明確にすることになる。その政府責任の中には、東京電力との近すぎる距離感も含まれる。その中で、東京電力の社会的責任が明確になる。逆に、東京電力に無限責任を負わせることは、その裏で、政府責任を東京電力に対する経済的援助に限ることになり、政府責任を曖昧化する。
 私は、東京電力が免責になろうがなるまいが、被害者の方々が受けられる賠償額もしくは補償額は、同じでなければならないと思います。政府責任が一つしかない以上、東京電力の負担がどうであろうが、同じでなければならない。このことを条件にして、先ほど、東京電力免責問題は小さな論点だといったのです。
 惨めで哀れな小物にすぎない東京電力など、どうでもいいのです。国民は、惨めで哀れな小物に隠れようとする、もっともっと大きな不正義をみるべきなのです。

少し熱を冷ますために、技術的なことに戻りますが、東京電力の免責如何にかかわらず、被害者の方々が受けられる賠償額もしくは補償額が同じなるべき、という論拠を解説してください。

 東京電力が免責でない場合については、先ほど述べました。繰り返しますが、「原子力損害の賠償に関する法律」第十六条で、政府は、「原子力事業者に対し、原子力事業者が損害を賠償するために必要な援助を行なうものとする」とされ、その援助の範囲は、同条第二項で、「国会の議決により政府に属させられた権限の範囲内」とされているわけです。形式は、全額、東京電力の損害賠償の形態をとるのです。政府は、東京電力を経済的に援助することになります。
 東京電力を免責にすると、同法第十七条により、政府は、「被災者の救助及び被害の拡大の防止のため必要な措置を講ずるようにするものとする」とされています。つまり、賠償の定めがないのです。一方、東京電力は免責になっているので、被災者は、どこからも補償を受けられないのです。ここに、「原子力損害の賠償に関する法律」の限界があって、この場合には、別途、他の法律に基づく補償や、特別法による補償を検討することが、予定されているのだと思います。当然のことでしょうが、新たなる補償の範囲は、今回の場合は、東京電力が負担したであろう損害賠償額と同等の水準になるはずでしょう。
 「原子力損害の賠償に関する法律」が、原子力事業者免責の場合の補償規定をおいていないのは、甚大なる被害を想定している以上、その状況に応じた別途の措置を予定しているからです。今回の場合、一私企業の東京電力の無限責任でいこうとしているくらいですから、東京電力を免責にしても、政府の経済的負担力として、充分に救済可能な範囲の被害ということでしょう。だから、東京電力の免責如何に関わらず、東京電力有責の場合の賠償と、東京電力免責の場合の政府の補償とは、同じにし得るはずだし、同じにしなければ、不公正でしょう。

財界などからも、東京電力免責論がでているようですが。

 財界や銀行等が、自己の利益を守るために、東京電力免責論を展開することは、当然でしょうし、自由にすればいいでしょう。東京電力の株主、社債権者、債権者、納入業者、従業員など、利害関係者の全てが、自己の利害を守るように動くのは、当然のことです。
 私は、利害から発言をしているのではない。利害を超えた法の正義を問題にしている。利害社会を根底で支える人間社会の倫理的基底を問題にしている。利害に優越する価値の世界がある。全てを経済計算にのせることはできない。そのことをいいたいだけです。
以上



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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。