東京電力を免責にしても東京電力の責任を問えるか

森本紀行
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矛盾した表題ですね。「原子力損害の賠償に関する法律」第三条ただし書きを適用して、東京電力に賠償責任はない、とした上でなお、東京電力に補償費用の負担を課すことができるか、という矛盾した問題を提起しようということですね。

 原子力損害補償における東京電力の責任については、これまでの一連の論考(末尾に表題を掲げていますので、ぜひ、ご参照ください)で、述べつくした感があります。事故から4か月が経過し、補償問題を取り巻く政治状況も、刻々と変化してきました。その過程を追いながら、問題の検討を進めてきたのですが、肝心の補償が本格的に始まらない中で、議論の方向は、脱原子力を含めたエネルギー政策の転換論や、地域独占に安住する電力会社の経営体質批判などに、逸れていくようでもあります。
 一方、事故の背景にある政治責任については、政府は、当初こそ、その責任を認めませんでしたが、現在では、「国策による被害者」という言葉を用いるほどに、明確に責任を認めています。政府の補償責任が大きくなれば、相対的に東京電力の免責論が強くなるのかと思えば、そうではなくて、補償問題とは別な角度から、「電力改革の邪魔」者としての東京電力(あるいは九州電力ほかの電力会社一般)批判が強まる傾向を強くしてきています。どうやら、いかに政府が責任を明確に認めようとも、現状、どこからも東京電力免責論はでてきそうもない、ということのようです。なぜなのでしょうか。
 私には、二つの論点があるのだと思われます。一つは、いうまでもなく、東京電力に賠償責任を課すことで、東京電力を法的整理(あるいは超法規的な強引な手法)によって解体し、電気事業の再編を目指そうとする思惑です。もう一つは、これが今回の主題なのですが、補償費用の調達です。


東京電力の社債権者、債権者、株主、役員、従業員、はては、企業年金の受給者まで、広く東京電力の利害関係者へ経済的負担をかけることで、補償費用を調達しようとする思惑ですね。

 そうです。これは、政府の一貫した方針であって、おそらくは、政府のみならず、野党も同じ考え方だと思います。菅総理大臣にも、東京電力を免責にしてしまうと東京電力の責任を問えなくなる、という論理的におかしい発言があります。つまり、責任を問うために免責にしないという答え先にありきの強引な決めつけです。しかし、気持ちはよくわかります。免責にしてしまうと、補償原資が少なくなることが懸念されたのです。枝野官房長官の有名な債権放棄論も、同じ思いからでたものでしょう。
 しかも、巨大な電力利権への思惑をもつ東京電力解体論者は、一石二鳥を狙うような議論を展開しているのです。即ち、東京電力の株主や債権者等の損失はもちろんのこと、電気自由化の前提としての送配電分離を名目に、東京電力に送配電関連資産を売却させることによっても、補償原資を得ようとしています。
 国民には非常に耳聞こえのよい論理展開です。しかし、法律の正義は、また別の問題でしょう。いかに国民大衆に歓迎されようとも、現行法を無視して、東京電力のような悪い会社には任せられない、非常事態なのだから何でもできるし、やるべきだ、というような強引な論法は、許されるものではありません。


しかし、庶民感情に迎合するような低劣な手法は論外としても、国民の理解が得られるか、という視点は、政治上、極めて重要でしょうね。

 枝野長官は、実は、銀行に債権放棄を求めたことはないのです。単に、もしも、銀行の債権放棄が行われないならば、国民の理解は得られないだろう、と述べたにすぎません。おそらくは、政治家として、有能な方なのでしょう。
 では、国民の理解が得られるような補償原資の負担方法は、どのようなものでしょうか。政府は、それを「国民負担の極小化」と表現しています。もともと「財政負担の極小化」だったものを、「国民負担」へと変更した趣旨は、おそらくは、政府が補償責任の一部を認め、実際、「原子力損害賠償支援機構法案」の中でも、東京電力に対する賠償支援を超えて、直接に政府補償ができる道を開いたことと、深い関係があるのでしょう。
 つまり、政府は、補償原資の確保について、東京電力の利害関係者の負担、電気料金引き上げを経由する国民負担、政府負担(結局、税金を経由して国民負担となる)の合理的配分を検討することで、全体負担の最小化を実現するための政治決定を目指しているのです。法案は、そのような広がりをもつがゆえに、曖昧とも、玉虫色とも、批判を受けているのです。例えば、東京電力の存続を前提にするがゆえに、電力会社保護といわれ、社債や債権の保全が図られるがゆえに、金融機関保護と批判され、電力料金への転嫁の可能性が残るがゆえに、けしからんといわれるように、です。
 しかし、この手の処理で、全員が満足することは、あり得ないわけで、いかに合理的に負担の配賦を考えても、どこかからの批判は免れない。国民の理解ということは、国民の全員の理解ということではない。そのようなことは、あり得ない。そこを決めるのが、政治でしょう。政府は、確かに、政治をしているのです。


東京電力が賠償責任を負うという前提で、その賠償を政府が支援する仕組みの中で、国民負担の配分を検討する、というのが、政府案ですね。政府案の反対案も同じようなものでしょうか。

 原理的には、同じですよね。ただ、政府に反対する案の多くは、現行法を無視してまでも、最大限の負担を東京電力の利害関係者に寄せようとしています。そして、そのことをもって、国民負担の最小化と考えているようです。
 政府案は、法律に忠実だから、東京電力の利害関係者を保護するようにみえる。そこが、電力業界保護や金融機関保護という大衆迎合的批判を受ける原因になる。一方、反政府案は、そこを全く自由に、超法規的に、東京電力解体、債権放棄、100%減資と、大衆受けする滅茶苦茶な案を展開しているだけです。


では、東京電力が賠償責任を負わないという方向で議論すると、どうなるのでしょうか。

 これまでの論考の膨大な積み上げの繰り返しは避けたいので、ぜひ、末尾に列挙した関連論考を参照いただきたいのですが、私は、「原子力損害の賠償に関する法律」第三条ただし書きにより、東京電力は賠償責任を負わないという立場です。問題は、法律の仕組み上、もしも、原子力事業者が免責によって賠償責任を負わない場合は、政府の損害補償責任についての規定が存在しないことなのです。
 ここは、立法過程でも、論争の焦点になったところです。もともと、かの我妻栄の起草になる原案では、政府が第一義的な補償責任を負い、原子力事業者の責任が認められるときは、全額政府が求償する仕組みでした。こうすることで、原子力事業者の責任の有無の法的判断にかかわらず、速やかな補償履行と、経済的負担の事後的調整が図られるようになっていたのです。ところが、民間事業の責任を政府が直接負うことはあり得ないという原則論と、当時の財政事情から政府の負担能力に限界があるとの政策論とに、押し切られる形で、現行法になった経緯があります。我妻栄は、自分の原案が修正されて現行法になったことについて、非常に心残りだったようです。実は、今まさに、碩学の懸念が実現した、というのが実態なのです。
 今回の場合にあてはめると、法律原案では、政府責任の認定がなくても、補償は行われているはずで、時間の経過とともに、政府責任が明確になれば、東京電力に対する求償額を調整することで、政府と東京電力の負担割割合を合理的に調整できたはずなのです。
 ここで想起すべきは、4月27日の枝野官房長官の、「最終的に東電と国の負担割合については、一般的な不法行為に基づく、あるいは損害賠償法理に基づいて、不真正連帯債務になるかと思う」という記者会見での発言です。つまり、枝野長官は、この時すでに、立法過程に遡り、東京電力と政府との間の不法行為に基づく損害賠償の負担割合を、視野に入れていたのです。ところが、現行法は、法律原案のようにできてはおらず、東京電力に全責任があるか、全くないか、の択一の判断しかできない。ここに、最初から、大きな困難があったのです。
 ちなみに、枝野長官の発言は、「原子力損害の賠償に関する法律」の適用からはでてきません。同法の適用を排除したうえで、一般不法行為理論による賠償を検討したものと思われるのです。即ち、東京電力免責論なのです。
 しかし、結局、政府は、東京電力免責を否定しました。再三申し上げるように、財源確保が理由だと思われます。なぜなら、現行のもとでは、東京電力を免責にしてしまうと、改めて、東京電力の責任を問い補償費用の負担を求めることが困難になる(不可能になるとも限らないのですが)からなのです。だから、政府は、政府支援を弾力的に運用することで、事実上の政府と東京電力の負担割合を合理的に決めようとしているのです。ですから、私は、政府の方針を、それなりに評価しているのです。では、もとに戻って、東京電力を免責とした上で、同様な合理的負担割合の決定ができないのだろうか、というのが私の疑問点なのです。


つまり、東京電力を免責とした上でなお、補償原資の負担の一部を東京電力にもっていけるか、という今回の主題ですね。

 こういう方向での検討は、私の知る限り、なされていないようです。東京電力免責論者は、財界、金融界、学界など、多く存在します。しかし、そういう方々は、免責を主張されるだけで、巨額な補償原資の確保に関し東京電力が果たすべき役割については、特別の意見を表明されていないと思います。少なくとも、私の知る限りは、です。


具体的な問題は、東京電力を免責にする以上、損害補償は政府が行うことになるが、その補償費用の一部を、東京電力に求償できるか、ということですね。

 「原子力損害の賠償に関する法律」は、法律原案とは異なり、原子力事業者のみの賠償責任を定めたものです。ゆえに、原子力事業者を免責にすれば、この法律の適用自体がなくなり、また同時に、損害補償の定めもなくなることになります。
 今回の事故については、国の定めた原子力発電所の安全基準自体が不十分であり、政治責任は免れないことが明らかになっているわけです。実際、それだからこそ、政府は、「国策による被害者」とまで、いっているわけです。ならば、政府の基準に違反していなかった東京電力の責任は問い得ない、ということから免責論がでてくるのです。つまり、東京電力免責の裏には、政府責任がなければならず、政府による補償がなければならない。そうでなければ、被害者の救済が正当になされず、社会正義に反する事態が出現してしまう。それは、あり得ない。しかも、東京電力に責任がある場合の賠償額と、政府責任による補償額との間に、差のあることも、論理的にあり得ない、ということです。
 政府補償については、それを定める現行法の規定がないのだから、新たな立法によって、手当てする。その際、被害認定の方法などは、「原子力損害の賠償に関する法律」の規定が参考にされるのだろうと思います。
 ここまでは、大きな異論はないのでしょうが、さて、この場合、東京電力の責任は全くないのだから、政府の補償費用の東京電力への求償など、あり得ないことになるのか、それとも、東京電力を、政府と連帯して責任を負うような地位に、おくことができるのか、これが論点です。
 このことは、政府内部でも、当然に検討したのだと思います。それは、先ほど引用した枝野長官の発言に、はっきり表れています。その検討の上で、敢えて東京電力免責を否定したことについては、二つの理由しか考え得ない。一つは、東京電力への求償は法技術的に困難、二つは、東京電力免責は国民の理解を得にくい、この二つです。私の疑いは、圧倒的に第二の理由が大きく、第一の理由については、十分な検討が尽くされていないのではないか、ということです。
 結局、東京電力免責は国民の理解を得にくいということが、政治的に巧妙に利用されて、東京電力を悪者にすることで、政府批判を緩和し、加えて、新エネルギー政策への誘導へも利用しようとしていることが、問題なのだろうと思います。


では、東京電力免責でもなお、東京電力の責任は問える、ということですね。

 そうです。「原子力損害の賠償に関する法律」の適用において免責であることは、直ちに、一般不法行為上の責任についてまで免責になることを、意味しないのではないか、と私には思われます。実際、法律家であられる枝野長官は、先ほどの引用で、まさに、そのことをいっておられるではないですか。
 原子力発電施設の安全管理について、政府の責任を超えてまで東京電力が責任を負えるか、ということについては、当然に限界がある。それが、免責論の趣旨です。しかし、だからといって、東京電力が独自に負担する責任がなくなるわけではない。これも、当然でしょう。原子力事業者の責任と、それを管理監督する政府の責任とは、共同性を帯びるのではないでしょうか。なにしろ、国策による民間の原子力発電なのですから。
 簡単にいってしまって、政府と東京電力の責任割合が、片方が100で、もう片方が0というような、極端な配分はあり得ないのではないか、ということです。現行の「原子力損害の賠償に関する法律」は、一見、原子力事業者の単独無限責任を定めているようで、実は、その場合の政府支援義務も定めており、一種の連帯性を認めているのです。今、政府が行おうとしていることは、まさに、この方向での負担割合の調整です。ですから、私は、政府案の趣旨を否定するものではありません。
 私は、原子力損害補償の問題に関して、「国民の理解」というような耳触りのいい言葉の裏で、大衆迎合的に振る舞い、法律の適用を枉げ、さらには、他の政治目的に利用する、そのような政治のあり方、政府だけでなく野党にも共通にみられる姿勢、軽薄な世論の風潮などに、強く、非常に強く、反対しているだけです。
 やはり、東京電力を免責にし、政治責任を明確にした上で、両者間の補償費用の負担割合を合理的に決めるのが、法律と社会の正義にかなっていると思うのですが、いかがでしょうか。

以上


 以上の議論は、過去の論考を前提にしたものですから、できましたら、下にある関連論考を合わせてお読みいただけると、幸いです。次回更新は、7月21日(木)になります。


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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。