電気の安定供給という東京電力の重責

森本紀行
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原子力損害補償は、政府と東京電力が共同して負担する重い責任ですが、同時に、電気の安定供給も、東京電力が負わなければならない重大な責務です。補償のほうは、政府の賠償支援の仕組みに関する法律の成立に目処が立ちましたので、前回に続いて今回も、電気の安定供給と東京電力の責任をとり上げようということですね。

 ちょうど国会では、「原子力損害賠償支援機構法」の改正法案と、自由民主党などが提出していた政府による賠償仮払い法案とが一体となって、今月中にも成立する目処が立ったところです。これで、ようやく、本格的な補償履行が始まることになります。東京電力が賠償責任を負い、政府がそれを支援するという枠組みは、これまでの一連の論考(本論の末尾に掲載してありますので、ご参照ください)で解説してきたものと、基本的には変わっていません。ただし、政府責任が、より明確になったということはいえるようです。次回は、この成立予定の法律について、論じようと思います。
 余談ですが、手の平に「忍」の字を書いて国会答弁をする海江田経済産業大臣は、異様でしたね。辞任を決意された身で、この法案の成立を、万難辛苦を忍んで達成すべき課題として、取り組まれたのでしょうか。ご苦労様でした。
 それから、もう一つ余談ですが、東京電力株価は、法案成立が確からしくなるにつれて緩やかに上昇し、200円台の水準から、一時は、600円を超えることもありました。ところが、成立が確実になると、下落に転じました。今の東京電力の株式は、投資でなくて投機の対象でしょうから、法案成立で、一つの達成感がでたのでしょうね。法案成立は、東京電力の株式価値の評価に、新しい情報を付け加えるものではないのですが、投機としては、一つの節目を形成するのですかね。投機も科学できるのかな。なにしろ面白いです。
 さて、電気の安定供給ですが、前回も論じましたように、この電気安定供給こそが、規制を正当化する根拠だったことを忘れてはならないのです。ここのところの検証抜きには、競争原理の導入や、発電、送電、配電の分離論など、軽々には議論できません。また、仮に、東京電力をはじめ、九州電力の事件にみられるように、電力会社全体の経営体質に問題があるとして(仮に、ですよ)、それが規制に守られてきたことに起因する経営の驕りの結果だとしても、規制を正当化する根拠が電気の安定供給にあり、事実としては、その規制と現在の電気事業連合会体制が電気の安定供給を実現してきたこと、そのことは、認めないわけにはいきません。
 原子力発電も同じです。東京電力の事故を契機に、原子力発電を取り巻く環境は、激変しました。将来に向けての激変は当然ですが、だからといって、過去の事実としての原子力発電の役割、電気安定供給(念のためですが、安定というのは量と価格の両方の安定です)という高度な政策課題の実現のために原子力発電が果たしてきた役割は、変えようがないわけです。
 脱原子力も結構ですが、電気安定供給という原子力発電の原点にある目的に本質的な変更がないなかで、というよりも逆に、電気安定供給が極めて重要な課題として急浮上しているなかで、なぜ、今、脱原子力なのかは、よくよく考えないといけません。


原子力発電については、安全が最重要課題だ、という世論が強いのも事実のようですが。

 それは、そのとおりでしょう。安全は、大事というよりも、必須の要件です。この難問、難問ですが、解き方は、二つしかないですよね。ひとつは、安全な原子力発電という技術開発の問題としてとらえること。もうひとつは、技術が進歩しても完全な安全があり得ない以上、つまり、技術的に事故の可能性を無限に小さくしていくことはできても、完全なゼロにはなり得ない以上、原子力発電は放棄すべきだ、という純粋論理の問題としてとらえること。
 従来は、技術の問題としてとらえてきたのです。今は、技術では解けない論理、あるいは信条の問題として、とらえられはじめているようですね。菅総理大臣などは、どうやら、個人的信条のようです。それが可能になったのは、原子力技術の問題としてではなく、発電技術あるいは節電技術という、より大きな技術の枠のなかで、電気安定供給体制の議論ができる地盤ができてきたからです。


原子力発電をやめても電気の安定供給に支障はない、という技術的条件が実現しているのであれば、あえて原子力発電をする必要はない、ということですね。

 そうなのですが、ここですぐ、よくある論者のように、再生可能エネルギーの現在の技術水準や、将来の発展の可能性をもちだすのは、控えたほうがいいです。その前に、電気の安定供給ということの意味を、深く考えておく必要があります。
 電気の安定供給には、電気需要に対して確実な電気供給ができるという供給能力の安定性と、電気価格が経済合理的な水準に安定的にとどまるという価格の安定性、この二つの要素を含みます。両方が充足しない限り、安定供給とはいえません。これは、実は、簡単な問題ではありません。電気の供給側における多様な発電技術の組合せ(そのなかに原子力発電が位置付けられているのですが)の問題だけでなく、需要側における節電や蓄電に関する技術など、需給全体に及ぶ総合的な工夫の結果としてのみ、実現するものです。
 例えば、水力の揚水式発電などは、面白い工夫ですね。今、蓄電の方法が問題になっているのですが、揚水式は、要は、昼と夜の電気需要差を利用して、夜の発電を昼の需要用に蓄電するのと同等の効果を生んでいるのです。
 今の東京電力を頂点とする電気事業連合会体制が、このような様々な工夫を通じて、こうした高度な意味における電気安定供給体制の構築に、重要な役割を演じてきたことは、間違いありません。単に規制に安住していたのではなく、規制によって守られていることの反対効果として、重い社会的責任を果たさねばならないという自覚をもっていたこと、そのことは公平に認めるべきなのです。


しかし、現在の安定を保持するという名目のもとに、電気安定供給体制の維持という錦の御旗のもとに、革新に対して後ろ向きになってきたこと、それも同時に否定できないのではないでしょうか。

 それはそうでしょう。しかし、電気安定供給体制の維持という錦の御旗のもとに、改革を怠ったとまでは、いいきれないでしょう。慎重な姿勢、過度に慎重な姿勢が、怠慢の偽装と表面的に同じようにみえるのは、仕方のないことです。
 今の電気事業のあり方には、たくさんの改善の余地があります。だからといって、今の東京電力のもとでは、あるいは今の電気事業連合会のもとでは、そうした改革は不可能だ、改革を怠ってきたものに改革は任せられない、とまではいえない。東京電力は電気事業改革の邪魔だから解体しろ、などというのは暴論です。
 東京電力そして電気事業連合会が電気安定供給という社会的責任を果たしてきたという事実、それが過去のものだとしても、その過去の実績から、議論を始めるべきです。環境の変化、技術条件の変化によって、社会的責任の果たし方を変えていかなければならないのは当然としても、そして、それが電気事業連合会体制の抜本的変革を要求するものだとしても、変革は内在的に起きるのが望ましいのではないでしょうか。変革は破壊ではないでしょう。


内部的な変革の誘因のないことが問題ではないでしょうか。だから、外部的圧力が必要だと、論者は叫ぶのではないでしょうか。

 外部的圧力とは何でしょうか。東京電力を法的整理に追いこむことでしょうか。我々の資本主義という社会の仕組みでは、原則として、変革への誘因は経済的誘因です。
 少し前(地震から一か月後)の論考ですが、「原子力発電所の安全性と技術革新と市場原理」を参照いただけないでしょうか。また、そこでも引用していますが、「エネルギー投資と保守主義の原則」もみていただけるとうれしい。ここで、述べていることは、再生可能エネルギーの利用を可能にした経済的条件です。要は、原油価格が上がれば、他のエネルギー開発の採算点が低下するので、一気に代替エネルギー開発が促進されるという、経済原則を述べているのです。
 原子力発電をやめるかどうかは、先ほども論じましたが、どうかすると、信条の問題になりかねません。しかし、安全基準を劇的に高め、事故補償の可能性に対する保険制度を強化し、巨額な廃炉経費を事前償却すれば、原子力発電費用は大幅に上昇するでしょう。そのことは、経済合理性を通じて、原子力発電から再生可能エネルギーへの転換を誘発するでしょう。このような経路における変革が、社会の仕組みとして予定されていることなのではないでしょうか。
 加えて、現在の日本では、電気の安定供給義務を果たすことの費用が、急激に上昇しているのです。特に東京電力においては、現下の深刻な問題となっています。他の電力会社も、原子力発電所の稼働に関する不確定要素を取り除くためには、発電能力の確保のための費用が上昇していくことになります。ここにも、当然に、強い経済誘因が働くことになるのだと思います。
 本当は、顧客に節電をお願いするというのは、電気安定供給義務に全く反しているのです。これでは、規制業としての意味が全くないのです。このことをこそ、東京電力は、真摯に受け止めなくてはならない。理屈上、供給能力を回復するためには、何でもやらなくてはいけない。外から買える電気は、何でも買わなければならない。事実、東京電力は、そういう努力を始めています。ただし、安定供給には、需要を量において充足することだけではなく、価格の安定も含むので、供給能力を急激に拡大させることの費用を電気料金に転嫁することも、やはり、本来の義務には違反することになります。


原子力発電は、稼働の不確実性が大きくなることで、安定供給の障害となり、しかも、その潜在費用は著しく高くなる。供給量を確保するために、再生可能エネルギーや、火力発電などを急速に拡大させれば、費用増を招く可能性がある。そのなかで、供給量と価格の両方の意味における電気安定供給義務を厳格に課せば、自動的に、東京電力はもちろん、他の全ての電力会社も、自己変革へ追いこまれていくだろう、それが、資本主義社会の規律のもとでの変革の道筋だ、そういうことですね。

 東京電力の改革の道筋についていえば、結局のところ、供給量と価格の両方の意味における電気安定供給義務を厳格に課すということ、このことに尽きるのだと思います。
 こうすれば、東京電力は、電気事業に固有に必要な資産以外は、全て売却することになるでしょう。人事等の経営合理化も当然です。積極的な外部からの電気購入も当然です。積極的な再生可能エネルギーへの取り組みも行われるでしょう。東京電力に求められているような経営改革は、電気安定供給義務を厳格に適用するなかで、経済合理性を徹底的に追求していけば、東京電力自身の手で、実現していくはずなのです。それが、本来の改革の道筋なのです。


電気供給については、採算に合わないからやめる、ということが許されない。電気安定供給義務を厳格に守る前提のもとで、最大限の経営努力の結果として得られる発電費用が、電気料金に転嫁できる基準になるのだ、ということですね。この条件を経済合理性のなかで実現していくこと、これが、我々の社会の仕組みなのですね。

 そうです。そこのところの議論を抜きで、やれ、送電分離だ、再生可能エネルギーだ、脱原子力だ、というのは、単なる信条の吐露か、非常に素朴な市場原理の適用であって、危険な議論なのです。素朴な市場主義というのは、規制を緩和もしくは撤廃することで競争環境を整備していけば、自動的に市場原理に従い、電気需要を満たす電気供給が最低の費用で実現する、という素朴な仮定です。再三申しますが、規制の正当性は、素朴な市場原理にもとでは電気安定供給(くどいようですが、量と価格の両方の安定)の実現は達成できないということ、そこに根拠があることを忘れないでください。
 発電技術には様々なものがあり得て、将来は、更に、多様性が増すのでしょう。しかし、それらの技術は、当然ですが、それ固有の経済性をもっています。あるものは、発電量に不確定要素があるが、費用面の安定性が高く、またあるものは、発電量の安定性が高いが、費用面の変動性が大きい、というように。あるものは、開発期間が長く開発費用も嵩むが、稼働後は一定費用での長期安定供給に有利であり、またあるものは、設置が容易で早く供給できるが、費用が不安定であるなど。
 一つの大きな電力会社が、それら多様な技術を組合せ、全体的経済合理性のなかで最適性を実現する(いわゆるポートフォリオ理論ですね)、これは可能でしょう。現在の、電気事業のあり方は、そういう考え方を前提にしたものです。
 しかし、技術毎に独立した発電事業にすると、顧客に電気を届ける配電事業との関係で、売(買)電契約の仕組みの中で、価格決定の方法などを精緻に設計しない限り、電気の安定供給は、実現し得ないはずです。そして、そのような仕組みは、決して簡単なものではないはずで、過去の事例と経験、他の国の事例と経験、多くの知見をとり入れ、試行錯誤的に、しかも、国全体としての高度な協調の中で、更には、経済合理性にも配慮した形で、実現していくしかない。難しい仕事です。
 送電の問題も同じです。送電の分離は簡単です。しかし、送電事業者は、発電事業者と配電事業者の中間に介在するものとして、双方を顧客にするものとして、そこに、経済合理性と利益の協調がない限り、つまり、よりよい送電施設の開発管理への経済誘因と、費用と価格の合理性を担保するための経済誘因とが、上手に設計されない限り、電気安定供給は実現し得ないのです。これも、難しい仕事です。


それらの難しい仕事を推進する主体は政府でしょうか。

 それでは、実質的な電気事業国営化でしょう。それは、おかしい。政府は規制主体として、全体設計に責任を負うとは思いますが、事業主体ではない。


電気事業業界の自律的な仕組みが必要なのですね。

 そうですが、それは、おそらくは、今の電気事業連合会体制の抜本的改組になると思います。しかし、そのことは、電気事業連合会の解体ではないでしょうし、東京電力の解体でもない。電気事業に革命はいらない。経験を有する事業者(現在の加盟電力10社に限らないでしょうが)を中心に、経験知を集積し、内部的革新の原理を内包した仕組みを作るしかないでしょう。その仕組みの設計こそが、電気事業法の役割であり、その抜本改正こそが、政府の責任です。
 再生可能エネルギーや原子力は、要は、全体設計になかで解決されるべき個別論なのです。なぜ個別論が先にくるのか、よくわかりません。おそらくは、簡単だからです。これでは、政治の手抜きです。というよりも、政治不在ですね。民間にできないことは、全体設計です。政府が、全体設計を行い、民間事業者が経済合理性のなかで電気事業を営める環境を、作る。あとは、民間の力で、自律的に、電気事業改革が進行していく、それが、我々の社会の仕組みです。


東京電力の役割は何でしょうか。

 業界盟主として、業界改革を主導していただきたい。東京電力ではだめだという批判は、何度も論じたように、電気安定供給の制度論としては、脆弱なものが多い。東京電力は、自己の存在を正当化するためにも、新しい発電事業者を受け入れ、専門家としての知見を改革の方向へ向けて積極的に開示し、積極的に提言していくべきでしょう。電気安定供給の視点で、送電分離や、電気買い取り制度について、その問題点を技術的知見に基づいて科学的にとらえ直したうえで、積極的な提言をしていくべきです。そうすることで、未来の電気事業についての議論が、より科学的に、より現実的になってくるのだと思います。

以上


 以上の議論は、過去の論考を前提にしたものですから、できましたら、下にある関連論考を合わせてお読みいただけると、幸いです。次回更新は、8月4日(木)になります。


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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。