原子力発電所の安全性と技術革新と市場原理

森本紀行
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原子力発電は、市場原理のもとでも安全性を確保できるのか、あるいは、市場原理のもとで、技術革新は、原子力発電所の安全性を高めることと経済採算の改善とを、矛盾なく両立させることができるのか、今回は、そういうお話ですね。

 私は、3月11日の地震を契機とした最初の論考「想定を超える事態への対応について」の中で、経済と倫理にかかわる難問に触れています。つまり、人の命の安全性にかかわる基準を科学的な想定の遥か上のところに設定すれば、費用が大きくなりすぎて事業として経済的になりたたなくなるであろう、という趣旨です。
 私は技術の無限の進歩を信じます。しかし進歩は技術内部の固有の条件だけでは生じ得ません。社会的、経済的要因が働きます。原子力発電所を、マグニチュード9を遥かに超える地震や、30メートルの高さの津波にも耐え得るように作るべきでしょうか。技術的には作り得るにして、そのことの費用を電力料金に反映させても、産業界や消費者は納得するのでしょうか。あるいは、火力発電や水力発電との価格競争力との関係で、原子力発電が経済的な意味を失うとしても、国民生活の基礎ともいえる電力の安定供給体制を維持できるのでしょうか。
 一方で、完全な市場原理のもとでの経済計算を優先させれば、国民生活の安全が保てない場合がでてきてしまう可能性を排除できない。だから、規制によって安全基準の下限を定めなくてはならないのです。しかし、その規制といえども、一定の経済合理性の中でなければ機能し得ないことを認めざるを得ないのではないでしょうか。そのような条件の中で、日本の、そして世界の原子力発電は行われてきたのだと思います。
 しかし、原子力発電所の事故のように、人の生活ばかりか命にすらかかわる問題について、経済計算を行うことは、倫理的には重大な問題であります。ですから、そのような計算の介入せざるを得ないこと自体を隠蔽したくなるのだと思います。おそらくは、問題の深層は、ここにあるのでしょう。私は、情報開示の真の論点は、この経済計算の前提の開示だと思います。


確かに、原子力発電は経済的事業ですから、市場原理に従わざるを得ない、ということですね。しかし、そのような経済計算のもとでは、安全性の改善よりも、採算の向上が優先されはしないでしょうか。

 難問への回答を回避するようですが、少し、遠回りをさせてください。私は、少し古い論考「エネルギー投資と保守主義の原則」の中で、原油価格の上昇によって、代替エネルギー開発が採算にのるようになり、一気に開発が促進されるようになった、という市場原理の働きを論じました。
 石油に代表される化石エネルギー資源の利用と、自然環境の破壊ひいては人類の生活と生命の危機との関係は、とうにしられている問題です。そもそも、原子力の積極的利用の正当化も、ここに源があります。太陽光発電その他の代替エネルギーに関する基礎技術も、とうに完成していたのでしょう。しかし、原油の価格が安い間は、量産効果がでるまでの初期投資負担に耐え得ないから、事業としては開発されない。
 科学技術の進歩が、人類の幸福の増進に使われるためには、経済合理性の問題が大きいのです。原子力発電にかかわる技術も、同じ制約のもとにあると思われます。より安全性の高い技術が使われるためには、その技術の利用が、経済合理的でなければならない。
 例えば素材や機器にかかわる技術であれば、一定規模以上の量産効果が生じない限り、製造業者にとって、その素材や機器を供給することに経済合理性はない。東京電力をはじめとする原子力発電事業者が、積極的に、より高度な素材や機器を買い続けない限り、技術の実用化は行われないし、更には、技術革新の誘因すらが、なくなりかねないのです。


技術革新が安全性を強化する方向へ働く仕組み、経済的誘因が安全性を高める仕組み、それが、市場原理のもとでも可能か、ということですね。しかし、原子力もまた、化石資源の代替エネルギーでしょう。原油価格の上昇は、原子力発電の採算性も動かしたのではないでしょうか。

 当然ですよね。問題は、どう採算を動かしたかでしょう。相対的に安くて有利という経済性の方向へ、でしょうか。それとも、安全性基準の大幅強化に要する費用を吸収できるという方向へ、でしょうか。残念ながら、原子力発電が改めて有力なエネルギー源として見直されるようになったのは、始めの相対的な費用優位性の契機が働いたからではないでしょうか。


つまり、市場原理のもとでは、安全性と経済性の矛盾は解けないということでしょうか。

 解けないのならば、経済的事業としての原子力発電は放棄しなければなりません。放棄しないならば、この難問を解かねばなりません。東京電力福島第一原子力発電所の事故、この全世界を震撼させ続けている事故の後では、日本だけではなくて、全世界で、この難問への挑戦が始まるのです。


難問を解く方向性として、どのようなものが考え得るでしょうか。

 第一は、安全神話の完全な否定です。安全性ではなくて、危険性をこそ、主題にすべきだということです。このことは、先週の論考「賭けの決断、賭けの責任、賭けの回収」でも取り上げました。
 ここで賭けというのは、危険性を受け入れているという自覚です。その自覚が危険性の克服への耐えざる努力を生むということですが、今回の文脈に直せば、努力とは、安全技術の開発だけではなくて、安全技術の実用化を促進する組織的、経済的努力をも含むということです。
 安全神話に関して何よりも深刻な問題なのは、自己の説明論理に拘束されて、新技術の導入に踏み切れなくなることでしょう。最高の安全性といい切ったものには、論理的に、本質的な改善の余地がない。改善の余地の存在は、最高を否定するからです。このような社会的責任回避に起因する組織欠陥は、どうすればいいのですか。組織の欠陥は、市場原理の欠陥ではない。むしろ、組織運営における市場原理的な考え方の希薄さのほうが問題であるようにみえます。
 第二は、いうまでもないですが、政治の介入です。総合的なエネルギー政策の抜本的な見直しの中で、原子力発電の放棄すら選択肢の一つに含めた上で、国民の選択、まさに政治の決定の問題として、原子力発電を位置付け直すことが必要です。
 各種の税金や補助金の導入は、各エネルギー源の経済採算を直接的に変えることで、原子力発電の相対的競争力を変動させます。原子力発電にかかわる安全基準を大幅に引き上げることは、その採算を決定的に変化させます。こうすれば、高い費用を吸収する方向での技術革新を誘発し、経済性を高める努力が、安全性を高めることと両立してきます。
 第三は、上の二つと密接に関係することですが、経済計算の前提の見直しでしょう。この経済計算の前提の開示が必要であることは、先に述べました。安全神話を否定し、危険を前提にしてしまえば、事故時の損失を語ることがタブーでなくなります。そして、危険が現実化したときの補償費用などの巨額損失を、正面から経済計算に織り込むことができるようになります。
 そのような危険を織り込んだ経済計算のもとでもなお、採算を合わせ得るとすれば、それは、高度な技術的努力が経済的に正当化されるとき、そのときだけでしょう。このとき、危険性(安全性ではなくて)と経済性が両立するのだと思います。


安全性の経済的正当化ではなくて、危険性の経済的正当化ということですね。

 投資の世界では、損失の危険の正当化が問題なのであって、確実な収益の正当化は決してできない。恐らくは、原子力発電も構造は同じなのです。危険性の経済が問題なのでしょう。

以上


次回更新は、4月21日(木)になります。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月当時のワイアットに入社し、日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。