賭けの決断、賭けの責任、賭けの回収

森本紀行
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東日本大震災を契機に、直近三回の論考を通じて、投資における賭けの要素、賭ける決断、賭けた責任というふうに論を進めてきました。今回は、その続きで、賭けの回収といいますか、賭けを成果へつなげる方法について、検討しましょう。

 賭けっぱなしではいけない。賭けたことが偶然に成果になるということではない。それならば、ただの賭博でしょう。投資ではなく投機です。
 賭けの要素を明らかにするということは、損失の可能性を明確に示すことです。損失の可能性を敢えて受け入れるということは、その可能性が現実化し得ないという信念、損失の回避へ向けた最大限の努力がどこかでなされているはずだという信頼、この信念と信頼のもとでのみ、可能なのです。
 飛行機に乗ることができるのは、墜落の可能性を受け入れているからですが、同時に、少なくとも自分の乗っている飛行機は墜落しないという信念のもとでのみ、可能なのです。しかも、ここで問題にしているのは、一乗客として飛行機に乗ることではなくて、操縦士として飛行機に乗ることをいっているのです。飛行機が墜落しないという信念ではなくて、飛行機を墜落させないという責任です。
 操縦士ばかりでなく、整備士や飛行機の製造企業の技術に対する信頼、この信頼があってこそ、飛行機は落ちないという信念が形成され、飛行機に乗ることができるようになるのです。その信頼を支えるものは、信頼を託されたものが負う責任です。


投資における賭けというのは、単に危険を受け入れることではなくて、危険を回避する努力、危険の管理、努力義務と管理義務という責任が、前提になっているということですね。

 危険を認識しているから、危険を避けられるように管理する、これが本当のリスク管理である、そうではないですか。その管理責任こそが、投資の責任ではないですか。
 少し話が飛ぶようですが、銀行の融資判断のことを考えてみましょう。安心して融資できるような優良な貸付先を厳選することが、銀行のリスク管理でしょうか。多くの場合、債務者は、何らかの事情を抱えているからこそ、お金を借りたいのではないでしょうか。
 貸しにくい理由を徹底的に検討して、それでも、資金需要の正当性と回収可能性を確信できるときは、融資を実行する。この過程の中には、明らかに、賭けの要素がありますね。融資は信用を基礎においています。信用は、言葉の本来の意味において、科学的に証明できない心の問題です。決断です。それを賭けといっているのです。
 さて、このようにして賭けてしまえば、大きな責任が生まれる。ここで、貸しにくい理由を徹底的に検討したことが意味をもってくるのです。融資実行後は、この難点の解消という一点で、貸し手の銀行と債務者の利害が一致し、建設的な協同関係が生まれる。
 融資が回収できなくなる危険性、これが真のリスクなのですが、これを克服し解消しようとして、銀行と債務者が協同して努力すること、これこそが真のリスク管理なのではないでしょうか。


株式投資の世界のバリュー運用にも共通することですね。ある企業の株価がバリュー、即ち割安になるということは、その企業が何らかの経営上の難点を抱えているからですね。その難点を認識した上で、その打開策を経営者に託して、経営者を信じて投資するのがバリュー運用ですものね。

 そもそも、難点のない企業の株価が割安になることは稀です。難点は、例えば、多角化事業の低迷や、買収の失敗や、過剰債務や、景気循環に強く左右される業態の不景気な時期、その他いろいろでしょう。そのような難点を取り除いて分析したときに、その企業の長期的な収益性に確信をもてるからこそ、割安なのです。その確信は賭けです。
 では、割安だというだけで、投資はなりたつでしょうか。そうはいかない。割安が解消しなければならない。そのためには、難点が解消しなければならない。普通の株式運用では、その解消努力は経営者に委託するのです。しかし、大株主として、より積極的に改善策を経営者に提案し、協同して問題解決にあたっていく方法もあります。これが、本当のアクティビズム(activism 経営参画型の株式運用)であり、また、プライベートエクイティの運用です。


投資におけるリスク管理は、運用者と投資先経営者が危険を共有するところになりたつのですね。

 そこが、投資の賭けが賭博の賭けと違うところ、投資と投機が違うところでしょう。単なる偶然性に賭ける賭博や投機であれば、危険を受け入れるだけで、危険を主体的に管理することができない。危険は、管理することができず、危険の性格を変化させることはできない。
 ところが、投資における賭けでは、その賭けの性格を、運用者と投資先経営者との協同や信頼関係により変化させることができる。いわば、危険を手なずけることができる。人間の社会的営みから生まれる危険、事業の危険は、人間の営みによって動態的に変化していくのです。その動的過程の全体がリスク管理です。
 資金繰りで窮地に陥っている企業は、間違いなく、その事業に何らかの深刻な問題を抱えているのです。もしも、そこに、銀行が、問題解決に要する時間の余裕を作るために、必要資金を融資したとします。そうすることで問題が解消する可能性がでてきます。
 問題があるから融資をしないのではなく、問題があるからこそ、融資をして問題を解決していく、これが銀行の社会的機能、融資の本質ではないでしょうか。一時的な苦境に陥っている企業に、苦境にあるがゆえに融資をしないのは、リスク管理というよりも、本業の放棄でしょう。一時的苦境だからこそ、融資で救うべきなのです。
 そういう性格の融資だから、貸しっぱなしにはできない。貸した側も、苦境の脱却に積極的に協力することになります。資金の力、そして貸し手と借り手の協力関係、この二つで産業の成長を支援するのが、金融の働きです。これは、融資でも、投資でも、全く同じことです。


そのように考えると、原子力発電所の事故については、東京電力と近隣住民、あるいは国民全体との間で、危険が共有されていなかったことが最大の問題かもしれませんね。

 危険を明確に示しておけば、危険の低減は、国民全体で共有される絶えざる努力であり、関心事であったでしょう。新たなる技術、安全性を高める技術革新は、常に東京電力から提案され、国民の納得のもとに、施設管理の最善が保たれてきたでしょう。そのような状況を作り出すことが、原子力発電のリスク管理であったはずです。
 ところが、もしも、危険の存在を認めずに、安全神話のもとに、反対派を強力に説伏していく手法がとられたならば(念のためですが、私は、必ずしも、東京電力や政府が安全神話を振りまいたとは思わないし、思いたくもないのですけれども)、危険の存在を否定している以上、安全性を高めるための改善という概念は、論理的にもちだし得なくなります。より高い安全性があるということは、現状が完全ではないことを認めることになるからです。
 完璧な原子力発電所など、あり得ないのではないでしょうか。仮にあったとしても、それは現在の技術水準においてそうであるにすぎないでしょう。完全ではないと認めるから、改善余地があると認めるから、改善が行われ、現時点における最善が維持されるのではないでしょうか。
 この改善への絶え間ない努力の過程、その過程が広く開示されること、開示されることで、より広範囲からの技術情報と経験知が集積されていくこと、この総体がリスク管理ではないでしょうか。このことは、投資でも、原子力発電でも、同じことのように思います。

i以上


次回更新は、4月14日(木)になります。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。