東京電力の不徳のいたすところか

森本紀行
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最近の論考は、政府の不徳を訴訟によって糺す、というような激しい勢いですが、今回は、東京電力の不徳ですか。確かに、東京電力に対する世の風当たりは、苛烈ですよね。ここまで、いわれなき理不尽な攻撃を受けるのも、不徳のいたすところか。

 東京電力に対する国民からの攻撃的な批判というのは、そこに非合理的で感情的なものを多分に含むのでしょうが、一方で、全くの根拠なきものであるとも思えません。おそらくは、原子力事故をきっかけとして、積年の恨みというか、不満というか、疑念というか、とにかく蓄積されてきた大きな負の力が噴出してしまったのでしょうね。それにしても、どうして東京電力は、ここまで嫌われ憎まれなければならないのでしょうか。
 私は、社会的公正さの見地から、原子力事故の損害補償責任について、政府と東京電力との間の公正な費用配分を求める主張を展開しているのですが、どうかしますと、私の主張は東京電力擁護論のように受けとられる可能性があります。特に、前々回の論考は、東京電力の株主と従業員の利益の保護を主張している(事実、表面的には、そういう主張なのですが)とも誤解されかねない内容でした。
 論理的な正論は最終的には広く受け入れられるはずだとの信念をもっていますから、一時的な感情的な批判に対して、私は無頓着ですが、一方で、感情的な反発が無用の摩擦を生んだり誤解のもとになったりするのは、誰のためにもならないような気もします。また、感情的を通り越した攻撃的な反応を招くことを恐れて、正論の発言が抑止されるようでは困ります。
 私などの発言は、まだいいのですよ、所詮、私は東京電力の株主でもないし、何の利害関係もない人間ですから。しかし、東京電力の内部に、あるいは東京電力の関係者のなかに、私と似たような見方をしている人がいて(それは、大勢いるでしょうね)、その思いを広く公表したら、どうなるでしょうか。おそらくは、内容がいかに正当でも、感情的な反発や批判や攻撃は避けられないでしょう。ですから、誰もそのような発言はしていない、というか、できないのだと思われます。でも、本当にそれでいいのでしょうか。


やはり、自由に議論できる環境を作らないといけませんね。理不尽な批判や攻撃に対する恐れが発言を抑止しているならば、我々の社会の基本的仕組み自体にかかわる大きな問題ですからね。

 だからといって、東京電力の場合は、理不尽な批判や攻撃に対して反批判することができない面も、おそらくは、あるのですよ。理不尽な批判や攻撃を誘発しやすくしている東京電力自身の問題がある、批判に耐えなければならない理由がある、嫌われ憎まれる根本的な理由があるのですね。まずは、その背景の問題を検討することが必要なのでしょう。
 東京電力よ、ものがいえなくなったのも、不徳のいたすところか、そうであれば、不徳を正して、ものがいえるようにならねばなるまい、というのが表題の趣旨です。


東京電力にも、どうすることもできないことがありますよね。

 原子力発電ということ自体の問題性を、今ここでもちだされても、東京電力にはどうすることもできないですね。将来に向かってはともかくも、過去から現在につながる原子力政策のあり方については、もともと、国民の選択(政策に関することは最終的には国民の選択責任です)として原子力発電を推進してきたのですから、今回の事故をきっかけとして国民の判断に転機が生じたとしても、過去の原子力政策批判を今の政府にぶつけることは、いかにもおかしなことであり、ましてや東京電力にぶつけるのは、一層おかしい。


事故の原因についての責任については、どうでしょうか。


 実のところ、東京電力については、政府の安全基準に違反していた事実や事故の原因としての過失の存在は立証されていません。東京電力は、法律上の無過失責任のもとで、事故の原因者(原因者というのは事故の起きた原子力発電所の管理運営責任者であったという客観的事実をいうのみです)としての責任を自ら認めただけであり、そこには非難を受けるべき何らの要素も含まれていません。


事故原因にかかわる政府に向かうべき批判が東京電力に振り向けられている、という可能性があるのでは。

 政府は、意外に政治がうまいというか、ずるいというか、卑怯というか、巧みに批判が東京電力に向かうように仕向けているので、政府に向かってもよさそうな批判までが東京電力に向かっている、ということはありそうです。
 しかし、政府についても、事故の原因に関する過失があったということは、何ら具体的に立証されていません。事故原因は「異常に巨大な天災地変」ではなかった、という政府判断は、必ずしも政府の安全基準に過失があったことを意味しません。
 おそらくは、政府の主張は、今回の事故は、科学技術的かつ経済合理的に妥当な安全基準(それが政府の実際の安全基準を上回るものだった可能性は、政府も認めているようですが)のもとでも、防ぎ得なかったものである、というものだと思われます。そのような事故の原因を作ったものは、とりもなおさず「異常に巨大な天災地変」である、というのが免責論の論拠ですが、一方で、そのような不可抗力による事故に起因する損害といえども、免責を否定して、社会的公正の見地から政府と東京電力との責任において救済すべきである、との政治判断は正当なものだと思われます。
 したがって、政府へ向かうべき批判が東京電力に向かっているとしても、政府についてすら、事故原因についての批判を受けるべきいわれはないのです。


政府にしても東京電力にしても、過失があったのも同然のような批判が向けられるのは、政府や東京電力のいい分を信じない人が多い、ということですね。

 政府と東京電力は過失を隠している、というふうに受け取られているのでしょうね。要は、不信こそが、いわれなき批判の根源なのです。不信の目でみられるということは、日ごろの行いの問題であって、まさしく不徳のいたすところです。
 不信感のもとでは、何をいっても、どれだけたくさんの情報を開示しても、どれだけ丁寧に説明をしても、最初から信じて貰えないのだから、意味がないのですね。まずは、不信の根源、不徳のいたしたところを取り除かないといけない。


不信の形成は、事故をきっかけとしているだけで、おそらくは、まさに日ごろの行いの結果であって、歴史的な背景がありそうですね。

 二つあるのでしょう。一つは、東京電力の体質の問題、もう一つが、原子力発電固有の問題。
 東京電力の体質は、「東京電力に関する経営・財務調査委員会」報告書が、「その特有の電力料金システムなどの制度に由来する非効率が明確に存在するということだった。その一方では、高い報酬の支払や高収益から来る不透明な出費及び出資が目立った」などと指摘するほど、独占と規制の上に胡坐をかいた、親方日の丸的な、どのように厳しく批判されてもしかたないようなものだったのです。これが、東京電力の周辺に潜在的な恨みや不満を累積してきた大きな理由でしょう。
 原子力発電については、積極的な推進政策がとられるなかで、最高度に技術的なものであるが故に推進側の主張を信じるしかない状況におかれていた国民は、表面的な信頼の裏に、完全には納得できていない深層における不信をもち続けていたことは、否定できないでしょう。事故をきっかけとして不信の深層が表面化してしまえば、もはや信頼を回復することは、困難になってしまう。
 私が興味深いことと思っているのは、事実の重みです。おそらくは、今回の事故は、東京電力に対する信頼だけでなく、政府の原子力政策や、他の原子力事業者の信頼をも、同じように揺るがしたのだと思われるのですが、先鋭的に不信が集中するのは、事実としての事故を起こした東京電力なのです。
 東京電力は、「原子力損害の原因者であることを真摯に受け止め」といっているのですが、なるほど、事故と原子力損害の原因者として、日本の原子力政策全体に向けられている不信を一身に背負った自らの立場を、よく表している気がします。


それにしても、一度噴出した不信は、もはや信頼には転じ得ないような気もしますね。

 かといって、原子力発電をやめてしまうということも、そう簡単にはなし得ない国民の選択です。私自身は、関係各位の献身的な努力と技術力を結集することで、事故は必ずや克服できると考えています。いや、克服することによって原子力発電に対する不信を払拭できるかどうかが問われているのだと思います。


そのような理想論を展開できる状況には、どうみてもないようですが。

 現実は厳しいですね。やはり事実の重みなのですね。事実として、原子力損害は継続し、事実として、廃炉への取り組みは始まったばかりなのですから。


では、東京電力に何ができるというのでしょうか。東京電力には何が求められているのでしょうか。

 当然ですが、誰の目にも明らかな、まさに事実としての経営体質改革です。本当の改革は、従業員の給料削減というような、国民感情迎合的な、見せしめ的なものを意味しません。もっと本質的な企業経営風土にかかわる改革です。
 「非効率が明確に存在する」とまで指摘を受ける経営体質は異常です。「明確に」ということは、一見明らかに、ということでしょうから、逆にいえば、非効率が明確に一掃されたことを証明するのも、それほど難しくはないでしょう。


事故原因にかかわる不信は、どうしたらいいでしょうか。要は、過失の有無ですね。

 問題の核心は、事故という事実の重みが安全基準そのものを、過失の認定基準そのものを動かしてしまったこと、そこにあるのだと思われます。そして、事故後の高度化した基準を事故前の状況に当て嵌めることで、「過失」が作られているのだろうと思われるのです。要するに、事故前に可能性としての事故に備えていた基準に問題がなくとも(故に過失がなくとも)、事故後に事実としての事故から過去の基準を評価したときには様々な問題点を指摘できる(故に基準に過失があったようにみえる)のは、当然といえば当然のことではないのか、ということです。
 おそらくは、政府も東京電力も、今回の事故が、予見可能性を超えたという意味では、「異常に巨大な天災地変」に起因するという見解で、一致しているのだろうと思います。ところが、事実としての事故を直視し、事実としての被害を真摯に受けとめたときに、予見できなかったことすら予見すべきであった、という一種の罪責の念が働いたであろうことは、想像に難くないのです。そして、事故後のかなり高いところで観念された基準をもって、「異常に巨大な天災地変」を否定したのだと思います。私は、何度もいいますが、そのような政府と東京電力の判断を高く評価するものなのです。
 要するに、事故後に、事故を防ぐことができたであろう基準というものが逆算的に観念されて、それとの比較で、実際の政府の基準を評価すれば、それは当然のごとくに不十分なものになるに決まっているということです。それをもって政府や東京電力に過失があったと非難することはできないのですが、一方で、政府にしても東京電力にしても、事故を真摯に受け止めれば、結果論的な反省をせざるを得ず、そのような趣旨の発言もでるので、過失があったかのごとき外貌を呈してしまうのだと思います。


過失がなかったにもかかわらず、過失があったかのごとき印象を作りだしているのは、政府と東京電力だということですね。でも、それによって、逆に国民のなかに不信を生んでしまったのでは、もう、どうすることもできないですね。

 政府としては、安全基準の強化と原子力行政の体制改革によって、あるいは新しい原子力政策のあり方を示すことで、国民の信頼回復に努めるしかないということで、実際、そのように行動しています。
 東京電力にとっては、事故原因者としての重みの前に、黙って批判を受けることが一種の贖罪になっているのでしょう。罪責の念から責任を認めたのならば、批判を受けることをもって贖罪とするのは、当然かもしれない。しかし、東京電力にできることは黙って素直に批判を聞き将来に活かすことだけではないでしょう。いうべきことは、いったほうがいい。東京電力には、いうことが国民に対する義務であるような大切なことが、いわれずにあるはずだ、と思うのですが。
 なお、ひとつお願いがあります。私が一年半前に書いた 「『二銭銅貨』的な悔やみと社会的責任」を読んでみてください。何がどう東京電力問題につながっているということでもありませんが、私自身が、この論考を書きながら、この以前の論考(実は私のお気に入り)を思いだしたものですから。

以上


 以上の議論は、過去の論考を前提にしたものですから、できましたら、下にある関連論考を合わせてお読みいただけると、幸いです。次回更新は、3月8日(木)になります。


≪ 東京電力関連≫
2012/02/23掲載東京電力の無過失無限責任と社会的公正
2012/02/16掲載東京電力の責任よりも先に政府の責任を問うべきだ
2012/02/09掲載政府の第一義的責任のなかでの東京電力の責任
2012/02/02掲載東京電力の責任が政府の責任より大きいはずはないのだ
2012/01/26掲載東京電力の株式の価値
2012/01/19掲載東京電力を免責にすると国民負担は増えるのか
2012/01/12掲載東京電力免責論の誤解を解く
2012/01/05掲載東京電力の免責を否定した政治の力と法の正義
2011/12/22掲載東京電力の国有化と解体
2011/11/04掲載東京電力に対する債権が不良債権にならないわけ
2011/10/13掲載東京電力に関する経営・財務調査委員会」報告書の曲がった読み方
2011/09/01掲載東京電力が歩む苦難の道と終点にあるもの
2011/07/14掲載東京電力を免責にしても東京電力の責任を問えるか
2011/05/02掲載【緊急増補版】なぜ東京電力を免責にできないのか

≪オリンパス関連≫
2011/12/15掲載オリンパスが好きです
2011/12/08掲載オリンパスの第三者委員会調査報告書
2011/12/01掲載オリンパスの株価が下がった理由
2011/11/24掲載オリンパス問題の深層
2011/11/17掲載オリンパスのどこがいけないのか
2011/11/10掲載オリンパスの悲願と裏の闇

≪ JR三島会社関連≫
2011/10/06掲載JR三島会社の経営安定基金のからくり
2009/07/23掲載JR三島会社の経営安定基金と大学財団
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月当時のワイアットに入社し、日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。