東京電力免責論の誤解を解く

森本紀行
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東京電力の免責を主張することは、様々な誤解を受けやすいようです。なにしろ、著しく政治的な色彩の濃い問題になってしまって、本来の原子力損害賠償のあり方はどうであったのかについて、誰も冷静な議論ができなくなっているのですから。故に、少しくどいのかもしれませんが、念のために、免責を主張する真の理由を、背景も含めて詳しく解説してください。

 先ずは改めて、政府の立場を確認しておきましょう。政府は、原子力損害賠償の責任について、当初から一貫して、第一義的には東京電力が負うべきことを主張しています。問題は、第一義的には、ということの現実的な意味です。当然のことですが、副次的には政府にも責任がある、と自認する趣旨だと考えざるを得ません。
 では、政府は、どの程度まで、責任を認めているのでしょうか。ここが、大きな問題なのですが、実は、少しも明確ではないのです。おそらくは、敢えて明確にしない方針なのか、あるいは明確にし得ない事情があるのか、どちらかであろうと思います。私が東京電力の免責を主張する理由のひとつは、まさに、この論点に関係しています。要は、東京電力の免責を主張することで、その反射的効果として、政府の法律的責任の範囲を明確にしたいのです。


政府は、第一義的な東京電力の責任を主張していますが、実態としては、政府と東京電力が共同して責任を負うべき、という立場ではないでしょうか。

 そのとおりなのです。前回の論考でも詳しく論じましたように、東京電力の第一義的な責任が強調されている割には、現実的な東京電力の負担を最小化するような政策運営がなされています。故に、一部からは、東京電力保護という強い批判を受けているほどなのです。
 しかし、政府の公式見解としては、決して共同責任を認めません。その理由は明瞭で、「原子力損害の賠償に関する法律」の構造上、免責を否定して東京電力の責任を認定したうえではじめて、同法第十六条の政府の支援を発動できる、というのが政府の法律解釈であるらしいからです。つまり、東京電力の責任が主でないと、政府が従たる責任を負えない、という法律解釈であるらしいのです。ですから、共同責任という説明はできないのです。
 しかし、このような政府の法律解釈には、重大な二つの問題があります。
第一は、そもそも、政府は、いまだかつて一度も、政府の公式な法律解釈を、国民に説明していません。私は、政府の具体的行動なり発言なりを合理的に解釈する限り、政府の法律解釈はこうでなければならない、という論理的帰結を述べているだけです。政府自身による明確な説明はないのです。なぜ東京電力を免責にできないのか、政府は説明していないのです。私が東京電力の免責を主張する理由のもうひとつは、政府自身による説明を求めることなのです。
 政府の法律解釈の第二の問題点は、「原子力損害の賠償に関する法律」第三条ただし書きで東京電力を免責にした場合、同法第十七条が政府の補償責任を定めていないことについて、政府補償ができないかのような印象を国民に与えていることです。
 第十七条は、政府補償を排除するものではありません。政府が、新たなる立法によって、直接的な原子力損害補償を行うことは、「原子力損害の賠償に関する法律」の趣旨に反しません。反しないどころか、立法時の経緯等からすれば、そのほうが法律の趣旨に適っています。第十七条は、原子力事業者の免責と同時に政府の免責まで定めたものではあり得ないのです。東京電力に責任があってすら、政府には東京電力を経済的に支援する義務が課せられているのです。ましてや、東京電力が免責になったときは、政府が全面的な責任を負うのは、当然すぎるくらい当然でしょう。ただし、この場合には、政府と東京電力の事実上の共同責任へもち込むためには、政府が改めて東京電力の責任を問う方法について工夫が必要だ、という技術的な問題はあるのです。


東京電力を免責とし、政府による直接的損害補償という形をとるならば、東京電力の責任を問い得なくなる、だから、東京電力を免責にはできない、というのが政府の主張なのですから、その限りでは、政府の立場は明確だし、法律の適用を誤っているともいえないのではないでしょうか。

 東京電力免責論に対する誤解の多くは、まさに、その論点に帰着します。東京電力を免責にすれば、東京電力の責任は問えなくなる、だから、東京電力は免責にできない、という主張が、その主張のみが、一方的に通用しているために、東京電力免責論が否定されているのです。私は、実は、政府と東京電力の共同責任であるという政府の立場を支持するものであります。にもかかわらず、私が東京電力免責論を主張するのは、第一に、政府は、その共同責任の法律的構造なり負担割合なりを、国民に対して説明すべきだ、ということが理由なのです。
 政府は、事実上の東京電力との共同責任の形態を実現しようとするに際して、東京電力の免責を否定したうえで「原子力損害の賠償に関する法律」の中で政府と東京電力の責任を果たそうとするのか、東京電力を免責にしたうえで改めて「原子力損害の賠償に関する法律」の外で政府と東京電力の責任を果たそうとするのか、この二つの同様な政策効果をもちながら法律構成の全く違う選択肢の中で、前者を選択したのです。ただし、そのような論理的な説明を一切行っていないことが問題なのです。なぜ、後者の方法ではいけないのか。
 第二に私が問題としたいのは、手続き上の論点です。東京電力を免責にすれば、東京電力の責任は問えなくなる、だから、東京電力は免責にできない、という主張の内容について、その帰結の社会的経済的効果の公平性について、あるいは政策的な有効性について、私は必ずしも反対の意を唱えるものではないのですが、法律手続きの公正性という観点からみたときは、全くもって許容し得ない無法な方法だと考えざるを得ないこと、これが私の主張したいことです。
 特に第二の点が気になります。東京電力を免責にすれば、東京電力の責任は問えなくなる、だから、東京電力は免責にできない、という主張は、彼の行為が犯罪でないならば、社会の秩序や正義が保てないから、彼の行為は犯罪だ、という主張と論理構造が同じです。この場合、彼の行為が一見明らかに反社会的であればあるほど、社会は、ごく自然に、この主張を受け入れるでしょう。現に、東京電力については、社会の大層は、政府の主張を、そのままに、受け入れているようです。しかし、これは、非常に危険なことです。
 罪刑法定主義は、基本的人権を守るための、ひいては民主主義の原理を守るための、根本であって、絶対に守られなければならない大原則です。彼の行為が犯罪であるかどうかについては、その実質的な内容を問題にする以前に、現行法体系の中で犯罪を構成するかどうかという客観的な法律の適用が先にあって、次いで、現行法体系の中で、正規な法律的手続きに従って、その責任が追及されるのでなければなりません。
 同様に、東京電力が免責であるかどうかは、政策的に免責にすべきかどうかが問題になる以前に、「原子力損害の賠償に関する法律」第三条ただし書きの要件を充足しているかどうかの検討が先にあって、政府は、要件充足を否定するなら、その根拠を国民に説明したうえで、政策として東京電力の免責を否定しなければなりません。ところが、政府は、免責要件に該当しないことの根拠も示さず、政策的な背景も説明せずに、一方的に東京電力の責任を断定している。このような無法なことは、どうしても認めがたい。民主主義の危機である。故に、敢えて東京電力の免責を主張することで、正しい法律の適用を求めなければならない。これが、私の東京電力免責論の要点です。


政府は、政府と東京電力の共同責任という構図を採用した段階で、原子力発電所の事故が政府の定めた安全基準の不備に起因することを、認めたわけでしょう。つまり、事故は防ぎ得た可能性のある人災であった、と認めたわけですから、免責要件である「異常に巨大な天災地変」の適用のないことは自明ですね。それが、政府が東京電力を免責にしないことの明瞭な理由ですから、やはり、政府の法律の適用は間違っていないのではないでしょうか。

 まず形式的な問題ですが、仮にその主張が正しいとしても、政府は、いまだかつて、そのような法律適用のあり方を説明してはいません。ただ単に、そのように政府の主張を解釈しない限り筋が通らない、といえるだけです。特に、この主張を貫くためには、政府の安全基準の不備を正面から認めることと、その政府の基準に従っていた東京電力は政府基準に忠実であったにもかかわらず責任を免れない、という過酷な論理、事実上の不可能を強いるがごとき論理を説明することとが必要なのですが、どちらについても、政府の説明はありません。ですから、説明を求めているのです。
 それにしても、政府の定めた安全基準に不備があり、その不備が事故の原因なのだから、到底、「異常に巨大な天災地変」という基準は適用し得ない、という主張は、それ自体としては、おそらくは、反論し得ない正論のように思えます。私にも、反対できない。
 結局、政府に責任がある(と同時に東京電力にも応分に責任がある)のだから、「異常に巨大な天災地変」とは認定し得ない、故に東京電力を免責にできない、ただし、政府に責任がある以上、事実上の政府と東京電力の共同責任として、できる限り政府責任として吸収する方向で、現実的な運用を図る、というのが、政府が実際に採用している方針なのです。なるほど、これは、理に適い良識に従った現実路線です。国民の支持が得られるのも当然です。国民の支持があるからこそ、ここまで既成事実の積み上げが可能だったのです。これに異を唱えるのは、浮世離れした哲学論を好む奇人変人の私くらい、ということかもしれませんが、それでも、私には納得できない。
 納得できない理由は、もはや、ひとつしかない。なぜ主たる責任の主体が東京電力なのか、なぜ政府が主たる責任を負わないのか、これに尽きます。つまり、政府に責任があるから、「異常に巨大な天災地変」ではなく、「異常に巨大な天災地変」ではないから、東京電力に責任がある、というのは、非合理な論法ではないのか、「異常に巨大な天災地変」を媒介にして責任主体をすり替える詭弁ではないのか、私の主張は、もはや、これ一点に尽きる。


「原子力損害の賠償に関する法律」の字義解釈を超えた適用はできない。「異常に巨大な天災地変」でなければ、原子力事業者の無過失無限責任となり、政府責任は、第十六条の支援の中でしか吸収できない。それが法律の仕組みであり、政府の法律解釈です。それでいいというか、そうとしかならないでしょう。

 その通説に必ずしも強く反対するものではありません。ただし、その説は、司法的に確定したものではありません。また、「原子力損害の賠償に関する法律」の構造的問題点として、立法過程でも争点になったところです。また、第一条の法律の目的も問題にすべきです。「原子力事業の健全な発達に資する」という目的のことです。この目的は、政府による原子力発電の積極的な推進を前提にしたものです。このことを背景に、政府は、今回の被害者のことを、「国策による被害者」とまで呼んでいるのです。原子力発電の推進という政府の方針があり、その政府が定めた安全基準が不十分で今回の事故が起きたのならば、どう考えても、政府の責任が第一義的でなくてはならない。
 故に、ここで、異論を唱えて司法の場で議論することには、重要な意味があると考えています。仮に、法律の適用の構造自体を動かすことができなくても、政府と東京電力の実質的共同責任における両者の負担割合には、影響があり得ると考えています。それが、具体的には、前回の論考で述べた株主の利益の主張につながるのです。


法律論としては困難なものがありそうですが、挑戦する価値は高そうですね。ところで、当時の枝野官房長官が、さも法律的難しさを見越したかのように、最終的には裁判所の決めることだ、と繰り返し発言して異論反論を押し切ってきたこと、あれは、いけませんでしたね。あの態度に対しても批判を加えたい、ということですか。

 あの枝野官房長官の発言は、あまりに無責任というか、国民を愚弄するものだったように思います。法律解釈が最終的に裁判所で決まることは、自明です。政府を代表する立場の人は、そのような余計なことをいうべきではなく、ただ単に自信と責任をもって政府の法律解釈を国民に説明すればいい。自らの法律解釈の根拠を説明することなく、最終的には裁判所の決めることだといい、訴えられるものなら訴えてみろといわぬばかりの姿勢で政策を強行するのは、許し難い態度だったと思います。そこまでいわれるのなら訴えて差し上げましょう、そのような気持ちもないわけではない。


政府が自己の責任範囲を明確にしないことは、制度的不安定要因にもなっていますね。

 例えば、東京電力の債権者の地位。有名な、あるいは悪名高い、枝野官房長官の債権放棄論は、明確な政府見解ではなくて、債権放棄なくしては国民が納得しないだろう、というような世論をもち出しての責任回避論にすぎません。結局のところ、現在に至るも、債権の保全が図られるであろうことは全体政策の流れから推測できても、どこにも政府の確約などありません。
 「原子力損害の賠償に関する法律」の立法過程では、おそらくは、こうした事態に陥る可能性が懸念されたからだと思いますが、我妻栄の素案では、まずは政府による直接損害補償とし、次いで原子力事業者へ求償する仕組みでした。こうすれば、対外的には政府責任で一本化され、不確実性は政府と原子力事業者間の内部問題で吸収できたのです。
 東京電力の免責を主張することは、要は、この立法時の議論を蘇らせようということなのです。政策として推進されてきた原子力発電なのです。その事故に関しての政府責任の明確化がない限り、社会の秩序と正義と安定は保てないのです。そのことを主張したいのです。

以上


 以上の議論は、過去の論考を前提にしたものですから、できましたら、下にある関連論考を合わせてお読みいただけると、幸いです。次回更新は、1月19日(木)になります。


≪ 東京電力関連≫
2012/03/01掲載東京電力の不徳のいたすところか」(最新コラム)
2012/02/23掲載東京電力の無過失無限責任と社会的公正
2012/02/16掲載東京電力の責任よりも先に政府の責任を問うべきだ
2012/02/09掲載政府の第一義的責任のなかでの東京電力の責任
2012/02/02掲載東京電力の責任が政府の責任より大きいはずはないのだ
2012/01/26掲載東京電力の株式の価値
2012/01/19掲載東京電力を免責にすると国民負担は増えるのか
2012/01/05掲載東京電力の免責を否定した政治の力と法の正義
2011/12/22掲載東京電力の国有化と解体
2011/11/04掲載東京電力に対する債権が不良債権にならないわけ
2011/10/13掲載東京電力に関する経営・財務調査委員会」報告書の曲がった読み方
2011/09/01掲載東京電力が歩む苦難の道と終点にあるもの
2011/07/14掲載東京電力を免責にしても東京電力の責任を問えるか
2011/05/02掲載【緊急増補版】なぜ東京電力を免責にできないのか

≪オリンパス関連≫
2011/12/15掲載オリンパスが好きです
2011/12/08掲載オリンパスの第三者委員会調査報告書
2011/12/01掲載オリンパスの株価が下がった理由
2011/11/24掲載オリンパス問題の深層
2011/11/17掲載オリンパスのどこがいけないのか
2011/11/10掲載オリンパスの悲願と裏の闇

≪ JR三島会社関連≫
2011/10/06掲載JR三島会社の経営安定基金のからくり
2009/07/23掲載JR三島会社の経営安定基金と大学財団
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。