東京電力の無過失無限責任と社会的公正

森本紀行
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「原子力損害の賠償に関する法律」が定める無過失責任と無限責任というのは、過失責任の原則に対する例外規定で、原子力事業者に非常に重い責任を課すものですが、いざ実際に東京電力に適用されてみると、哲学的に深く考えさせられるところがでてきますね。

 東京電力が5月10日に政府にだした第十六条に基づく支援要請の書面の冒頭には、「原子力損害の原因者であることを真摯に受け止め」とあります。実は、私は、ひどく感心しました。そこには、事実の重みをそのままに受け止める姿勢があります。「原因者」という言葉は、もちろん、無過失責任を意識したものであり、端的に事実として施設の管理運営者であったことの重みを真剣に受け止める態度の表明です。


過失があろうがなかろうが、東京電力が事故の原因者であることは明白であるが故に、端的に原因者であるということのみによって、その損害についての賠償責任を東京電力は負わなければならない、これが無過失責任ですね。

 そうです。東京電力が原因者であるということは、事故の原因が地震と津波という天災であったにもかかわらず、動かし得ない。ただし、地震と津波の規模が「異常に巨大な天災地変」といえるほどのものである場合だけが例外で、そのときは、東京電力は免責になる。そうでない限り、この無過失責任は動かせないのです。
 また、無過失責任の裏には、責任集中ということがついてきます。責任集中というのは、原子力事業者が使っている外部業者等には責任がなく(もちろん、過失があれば別ですが)、原子力事業者だけが責任を負うというものです。例えば、原子炉の製造業者には、製品に瑕疵がなければ、責任はないのです。もっとも、ここでいう責任は、原子力損害賠償責任に限定した責任ですが。
 ということで、今回の天災は「異常に巨大な天災地変」ではないとの前提で、事故の原因について、少なくとも現時点では、東京電力の過失が認定されていないにもかかわらず、この無過失責任により東京電力は賠償責任を負う、ということになっているのです。逆に、東京電力が賠償責任を負うとなっている以上、東京電力に過失があったかどうかは、少なくとも賠償責任との関係では、論じる必要がないのです。


賠償額には上限がない、つまり、無限責任ということですね。

 過失責任ではないのですから、過失相当の賠償ということもあり得ないですね。事故の結果として生じた全ての損害について、上限を決めることなく、範囲を画すことなく、東京電力は賠償責任を負うということです。


過酷ですね。理不尽とすらいえなくはないですか。

 厳しい規定ではありますが、決して理不尽ではない。理不尽ではないどころか、原子力事故の被害者の保護という意味では、その厳しさが必要なのです。この無過失無限責任があるからこそ、被害者は、過失の立証という面倒な手続きを省略して、早急にして確実な損害賠償を受けられるのです。
 過失責任の構図をとって被害者に過失の立証責任を課せば、原子力発電のように技術専門性の著しく高い分野では、事故原因者と被害者との間の情報の対称性を保証できず、被害者の立場を著しく不利なものにしてしまいます。ですから、無過失責任は必要なのです。また、事故による損害の見積りが困難であることから、無限責任が必要なのです。この無過失無限責任があるからこそ近隣住民の理解が得られ、原子力発電所を建設できたという面のあることは否定できません。
 ただし、過酷なのも事実です。無過失無限責任などというものは、一定の附随条件が整っている限りでのみ適用可能な、極めて特殊なものだといわざるを得ません。そのような条件抜きでは、不当に過酷であり、理不尽なものになります。当然ですが、法律は、そのようなおかしなものであるべきはずもなく、被害者の保護と原子力事業者の正当な利益の間に均衡が成立するように、立法上の工夫がなされているのです。


無過失無限責任の成り立つ条件が「原子力損害の賠償に関する法律」のなかに整えられている、ということですね。

 もちろんです。そもそも、「原子力損害の賠償に関する法律」は、第一条の目的で、原子力損害賠償制度により被害者の保護を図ることと並べて、「原子力事業の健全な発達に資すること」をも定めているのです。過酷な賠償責任制度は、一方では、被害者の保護の充実になるかもしれませんが、他方では、民間事業者の原子力事業への参入を事実上不可能なものにし、原子力事業の健全な発展を阻害することになります。
 そこで、法律の二つの目的の均衡のために、いくつかの工夫がしてあるのです。その第一が、第三条ただし書きの「異常に巨大な天災地変」による免責、第二が、第八条の損害保険制度、第三が、第十六条の政府支援です。今回の事故の場合、第三条ただし書きの適用はないとされ、また、損害賠償見積額が、第八条の保険の限度額を大きく超えているため、第十六条の政府支援だけが、意味のあるものとなっています。


保険の限度額は、いくらでしょうか。

 いわゆる賠償措置額といわれるものですが、今回事故が起きた原子力発電所の場合は、1200億円です。保険制度の仕組みは、民間の保険会社との間で締結された「原子力損害賠償責任保険契約」により賠償額の填補をするのが原則ですが、民間の保険では対応できない損害(例えば「地震又は噴火によって生じた原子力損害」)については、政府との間で締結されている「原子力損害賠償補償契約」が賠償額を填補するようになっています。ところが、事前に定められた賠償措置額が保険金の上限として機能するので、今回の場合は僅か1200億円にとどまり、現実の損害見積額の大きさに対しては、意味のあるものになっていないのです。
 保険が想定している事故は、損害額1200億円以下という見積りであれば、今回の事故の規模から判断すると、決して大きなものではないのでしょう。一方、第三条ただし書きの「異常に巨大な天災地変」は、極端に大きな事故を予想させます。ということは、法律の想定がどうであったかわかりませんが、現実に起きた事故から判断して、多くの場合は、第十六条の政府支援だけが、無過失無限責任の過酷さに対して、適切な均衡を確保する仕組みになっているのではないでしょうか。


そこから、肝心の第十六条支援における政府の責任の果たしかたが極めて不十分である、という前回論考の政府糾弾へつながるのですね。

 そのとおりです。第十六条支援における政府の責任というのは、「原子力損害の賠償に関する法律」の二つの目的、即ち被害者の保護と原子力事業の発展、の均衡を実現するように、一方で東京電力に重い無過失無限責任を課したことの反対効果として、他方で応分に重い政府責任を認めるのでなければならないはずなのです。
 無過失無限責任が成り立つための条件は、第一に、保険制度です。しかし、保険には経済的な限界がある。おそらくは、賠償措置額を5兆円として保険を組んだら、その保険料は極端に高額となり、それを電気の原価に含めれば、原子力発電は経済的に成り立たないはずです。
 故に、第二の条件として、社会的な保障の仕組みの重要性がでてくる。原子力発電が政策であり国民の選択である以上、保険が賄いきれないところは、社会保障として、つまりは政府負担(要は国民負担)として、対応しようということです。それが、第十六条支援です。
 法律は、第一の保険を第八条においたのですが、如何せん、賠償措置額が小さすぎた。また、第二の社会保障を第十六条の政府支援においたのですが、如何せん、政府が責任を明確にしようとしない。政府は、無過失無限責任の趣旨の半面、即ち東京電力の賠償責任については、大きな声で強くいう一方、もう半面、即ち政府の支援責任については、小さな声でもごもごいうのみなのです。この態度は、甚だ均衡を欠いた片手落ちの身勝手なものです。明らかに、「原子力損害の賠償に関する法律」の趣旨に反し、違法であるといわねばならない。その違法性を糺すための国家賠償法による訴えは可能である、というのが前回の論考における私の主張です。


東京電力の無過失無限責任と、その過酷さを不当なものとしないための政府の支援責任との間には、法の趣旨に照らし、社会的公正の見地から判断したときに、必ずや合理的な均衡点を見出し得る、という主張ですね。

 実は、私は、厳しい政府批判をしていますけれども、その政府の判断にすら、ある種の公正の観念が働いているものと考えています。
 そもそも、政府が第三条ただし書きの免責を否定したのは、「異常に巨大な天災地変」であるかどうかという技術的な判断からではなく、損害補償責任に関する公正さの直観的な判断からであろう、と考えています。つまり、事故原因の技術論もさることながら、そこに深刻な重みをもった事実としての損害があり、その損害が公正さの見地から補償されるべきものであり、しかも、経済的には、東京電力の電気事業の収益力と政府財政の現状に鑑み、十分に国民負担の範囲内で補償可能である、という総合判断によって、免責が否定されたのだと思っています。
 そして、やはり同じ公正さに対する良識的判断から、政府と東京電力が一種の共同責任の形で補償責任を果たすこととされたのであって、当時の枝野官房長官の共同責任論は、そのような趣旨を述べたものだと思います。ここまでのことについては、私は、政府を支持しています。
 問題は、政府と東京電力との間の内部的負担割合についての公正性なのです。私にとっての原子力損害補償問題の核心は、もはや東京電力が免責かどうかにはなく、政府と東京電力の間の補償費用負担に関する公正な配分のあり方にあるのです。別な論考では、経済的な視点から、政府のやり方で本当に国民負担の極小化と負担割合の公正さが保証できているのか、ということを論じました。この論考では、視点を変えて、無過失無限責任との関連で、公正な負担割合を論じているのです。


公正な負担割合を決する基準は何でしょうか。

 問題の核心中の核心ですね。
 無過失責任は、原子力損害を受けた被害者に対する関係で事故原因者の無過失をいうのであって、事故原因者側である政府と東京電力との間の内部関係には適用がないはずです。そうであれば、理論的には、例えば、政府の安全基準の不備などを問題にすることもできるでしょう。東京電力が政府の安全基準に違反していたことを証明するものは、少なくとも現時点では、ないのですから、安全基準という一点をとらえて、基準遵守者として違反のなかった東京電力と、基準制定者として不備のあった可能性のある政府との間で、一種の過失の割合的なものを観念できなくはない。
 しかし、より本質的には、公正な負担割合を決するのは、原子力事業者に無過失無限責任を課すことができるための社会的制度設計の正当性だと考えられます。では、その正当性は、いかに判断されるか。それは、現在の法律が定める三つの制度、第三条免責、第八条保険、第十六条支援の制度設計の妥当性、あるいは経済合理性だと思われます。
 実際、今回の場合、著しく大規模な天災であったにもかかわらず第三条免責が発動せず、同時に著しく大規模な天災であったが故に第八条保険が十分に機能しなかった、という制度設計の穴が露呈しているわけです。その穴を埋めるのは、第十六条支援以外にはないのですから、本来の制度設計としてのあるべき姿に照らして考察すれば、政府支援の範囲を決することができ、結果的に政府と東京電力の公正な負担割合が決まる、と考えられます。
 例えば、東京電力は、株式を上場し、巨額な金融債務を有する民間企業なのです。日本の原子力事業者は、同様な民間企業です。原子力事業者といえども、民間企業である以上、事業活動において株主や債権者や納入業者をはじめとする取引の相手方を保護するように、一定の予見可能性が働かなくてはならない。当然に、無過失無限責任についても、一定の予見可能性のなかでしか適用できないはずです。
 この視点から東京電力の事案をみたときは、無限責任の単純な適用が著しく不公正な結果を招き得ることがわかるでしょう。第十六条支援は、例えば、東京電力の賠償責任に上限を設け、それを超えるものを政府負担にするなどの方法を通じて、一定の予見可能性を確保するように機能してこそ、社会的公正の実現になるのだと考えられるわけです。


本来の制度設計としてのあるべき姿に照らして考察したときには、実は、第三条ただし書きによる免責こそが、政府と東京電力の公正な負担割合を決する方法だったかもしれませんね。

 ああ、また免責論ですね。免責論は棚上げしよう、ということだったのですが、いつも免責論へ回帰してしまいます。私は、免責論には、方法論的に三つの接近の仕方があるのだと思っています。
 第一は、「異常に巨大な天災地変」の定義の科学技術的な論証、第二は、前回の論考で述べた、政府の安全基準を超える災害が「異常に巨大な天災地変」である、という政策責任からする方法、そして第三が、今問題にしている無過失無限責任に対応する制度設計の正当性からする方法、この三つです。
 しかし、私は、三つのいずれも採用しない。方法論を超えた社会的公正さに関する直観と良識の働きを信じます。事故の原因者である政府と東京電力は、被害を直視したときに、社会的公正を直観的に認識し、良識を働かせることで、事故の原因者としての責任を端的に認めたのだと思います。その限り、もはや免責論をもちだす余地はない。もちろん、免責論は可能ではあるが、社会的公正の見地からは論ずべきではない、と考えています。
 私の主張は、同じ良識の働きが、同じ社会的公正の観念が、政府と東京電力との間の賠償費用の公正な負担割合を決するべきである、ということ、ただそのことだけなのです。

以上


 以上の議論は、過去の論考を前提にしたものですから、できましたら、下にある関連論考を合わせてお読みいただけると、幸いです。次回更新は、3月1日(木)になります。


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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。