投資信託の販売会社のフィデューシャリー・デューティー

投資信託の販売会社のフィデューシャリー・デューティー

森本紀行
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投資信託の顧客の意識の問題として、誰にお金を預けたと感じているでしょうか。法律上は、お金は投資信託を受託している信託業者に預けられているのですが、実際には、販売会社に預けていると感じている投資家が多いのではないでしょうか。ならば、販売会社には、投資家の信認を得たものとしての重責があるのではないでしょうか。
 
 投資信託は、投資家から資金を募る販売、集められた資金を保全管理する信託、信託された資金の運用という三つの機能によって構成されています。このうち、販売と運用とは、分離される必要もないので、運用を行う投資運用業者のなかには、販売会社を使わずに、直接に投資家を募っているところもあります。いわゆる直販です。
 しかし、信託の機能は、販売や運用と統合することができないように制度設計されています。それは、資金を集めるものや運用するものが、同時に、資金管理をすれば、資金の流れが同一のもののなかで完結してしまうので、外部監視が働かなくなり、利益相反取引や不正を防止できなくなるからです。
 さて、問題は、販売と運用の関係です。論点は、販売と運用は、同じものがやっても、別のものがやっても、どちらでもいいのならば、理論的にいって、両方の場合において、投資家に対する責任は全く同一でなければならないということです。
 
投資家の立場からいえば、販売こそが自分と運用の接点ですから、観念的には、二つの機能を分離できたとしても、感覚的には、二つは一体ではないでしょうか。
 
 販売と運用の一体性は、日本の投資信託の特異なところです。ただし、一体性には、両極端の二類型があり得て、一方には、典型的に直販の投資信託にみられるように、投資運用業者が主体となって販売を統合している場合があって、他方には、商品企画も含めて販売会社が主体となっていて、投資運用業者は販売に従属しているといっても過言でない状況があります。
 いうまでもなく、日本の特異なところは、多少の程度の差こそあれ、後者が圧倒的に優勢になっていることです。つまり、日本の投資信託の現状は、販売会社が投資家から資金を集めるということが中核になっていて、集められた資金は、募集のときの説明に反しないように運用されてさえいれば、それで、投資運用業者の責任は果たされるような構造になってしまっているのです。
 
そうしますと、投資家の感覚の問題としても、販売会社の強力な機能の面からいっても、事実上、販売会社が資金を預かる重責を担っているということでしょうか。
 
 もちろん、投資信託の投資家には、様々に異なる類型があるのでしょう。例えば、独自の調査によって投資信託の銘柄を選択し、インターネットを通じて投資するような人の場合は、販売という機能は単なる形式のものであって、実質的には、投資家と投資運用業者との直接的な関係が成立しているのです。
 つまり、投資家は、自らの投資基準に適うものとして、投資運用業者の運用内容を評価して投資信託を選択しているわけで、そこには、投資家と投資運用業者との間に信認関係が成立しているのです。同様な信認関係は、いうまでもなく、直販においても、投資家と投資運用業者との間に成立しているはずです。
 ところが、多くの場合は、投資家と投資運用業者の間には、販売会社が介在しており、投資家の選択に大きな影響を与えています。つまり、ここでは、投資家と投資運用業者との間の信認関係というよりは、投資家と販売会社との間の信認関係を認めるほかない、あるいは、投資家と投資運用業者との間の販売会社を介した信認関係を認めるほかないと思われるのです。
 
しかし、法律上は、投資家と販売会社との間の信認関係を認めることは、困難ではないでしょうか。
 
 法律上、投資運用業者には忠実義務が課せられていますが、販売会社には課せられていません。忠実義務というのは、専らに顧客のために働くべし、という当然の義務で、要は、自己や第三者(親会社等の利害関係者)の利益と顧客の利益との間の相反を禁じるものですが、悲しいことに、日本では、利益相反の立証が困難であるとの現実もあって、全く実効性のないものになっています。
 実効性がないとはいえ、一応は、投資運用業者は忠実義務を負うのに対して、販売会社は忠実義務を負わないということは、法律上の決定的な差なのであって、忠実義務を抜きにした信認関係の成立ということは、少なくとも法律上は、認め難いのです。
 
そこで、金融庁は、フィデューシャリー・デューティーを導入したわけですね。
 
 フィデューシャリー・デューティーというのは、英米法の概念で、日本法では忠実義務に該当します。しかし、フィデューシャリー・デューティーは、精神規定に堕している日本法の忠実義務とは違って、長い時間をかけて形成された法規範で、履行強制力を伴います。金融庁が敢えてフィデューシャリー・デューティーという用語を導入したからには、その理由は、いうまでもなく、この履行強制力にあるのです。
 また、これまで、信認関係という言葉を使ってきましたが、フィデューシャリー・デューティーとは、他者の信認を得て職務を遂行するものが負う義務のことで、信認関係の成立によって、生じるものなのです。
 
そういう背景のもとに、金融庁は、販売会社にも、フィデューシャリー・デューティーの履行を求めるに至ったのですね。
 
 金融庁は、昨年の9月に公表した「金融モニタリング基本方針」において、投資信託を強く念頭に置きながら、「商品開発、販売、運用、資産管理それぞれに携わる金融機関がその役割・責任(フィデューシャリー・デューティー)を実際に果たすことが求められる」と述べ、フィデューシャリー・デューティーには、注を付けて、「他者の信認を得て、一定の任務を遂行すべき者が負っている幅広い様々な役割・責任の総称」としていました。
 ここでは、明瞭に、販売に対してフィデューシャリー・デューティーが適用されるとの金融庁の考え方が示されています。つまり、法律上の忠実義務は、販売には適用されないのに対して、フィデューシャリー・デューティーは、販売も含めて、投資信託を構成する全ての機能に適用があること、かつ、「実際に果たすことが求められる」として、フィデューシャリー・デューティーに履行強制力を想定していること、この二点を、金融庁は、明瞭にしているわけです。
 
では、法律上は、どのようにして、販売に対してフィデューシャリー・デューティーを課すことになるのでしょうか。
 
 恐らくは、昨年の9月に金融庁がフィデューシャリー・デューティーを導入したとき、投資信託の販売会社は、一様に驚いたであろうと想像されます。販売に、忠実義務よりも強力なフィデューシャリー・デューティーが課されようとは、思いもしなかったはずです。しかし、同時に、当惑というか疑念も生じたに違いありません。販売にフィデューシャリー・デューティーを課す法的根拠がわからなかったに違いないからです。
 金融庁としては、法的対応を検討しているわけではなく、モニタリングという手法を通じて、販売会社自身の自律的な改革を促すことで、フィデューシャリー・デューティーの徹底を図っていくのだと思われますが、モニタリングというのは、個々の金融機関と金融庁との間の非公開のものですから、一般論としては、よくわからないのです。
 
モニタリングというのは、金融庁と金融機関の建設的な対話ということですよね。
 
 建設的な対話ということは、金融庁からの一方的な指示等の規制ではなくて、金融機関自身の長期的な利益は顧客の長期的な利益のうえにしか形成され得ないという自明の前提を、金融庁と金融機関との間で、対話を通じて確認することです。
 これを投資信託の販売に当て嵌めれば、投資家の利益を守る姿勢のもとで販売を行うことでのみ、結果的に販売会社の長期的な利益が得られるという考え方に帰着します。自己の利益の方向へ動くのは、営利企業としては、当然のことですから、そこに、規制による誘導など、必要ないわけです。
 投資信託の販売において、手数料等の収入の増加が目的化され、顧客の利益よりも、販売会社自身の利益や同系列の投資運用業者の利益が優先されるならば、それは、短期的には、金融機関の利益になり得ても、顧客の利益に反する限り、長期的に持続可能なものではあり得ません。モニタリングで問題とされるのは、金融機関の長期的に持続可能な利益なのです。
 そこで、金融庁と金融機関との対話のなかで、金融機関の長期的な利益の方向で、投資信託のあるべき姿が議論されるとき、顧客の利益に応える経営の徹底、即ち、フィデューシャリー・デューティーの徹底が結論付けられてくるはずです。そうであるならば、ここには、法律改正等による規制の強化は必要ないわけです。
 
別のいい方では、プリンシプルに基づく改革、あるいは、ベストプラクティスの追求ということですね。
 
 金融庁の施策の理念的根幹は、多くの場合、片仮名で表現されています。恐らくは、施策の根本的転換を示すためだろうと思われます。
 金融は、高度な社会的必要性に基づくものです。故に、従来の考え方では、高度な規制につながるのです。しかし、現在の金融庁の方針では、高度な社会的必要性に基づくものは、その社会的必要に正面から応えることで、事業の収益性は確保されるわけですから、経営者が、顧客の要求に応えるという経営原則、即ち、プリンシプルに忠実である限り、規制は不要になるはずなのです。
 それに対して、規制を強化することによっては、金融機関の経営において、顧客の要求に応えることよりも、表層的なルールを遵守することが優先されることになりやすいことが経験的に知られています。それどころか、逆に、ルールに反していない限り、顧客の利益に反しても、正当化されるというような不合理、あるまじき経営の姿勢を生んでしまっているのが現実なのです。
 実際、投資信託の現実として、ほぼ完全な法令遵守のなかで、明らかに法令の主旨に反し、顧客の利益に反することが横行してきたのです。ここで、新しいルールの策定のような規制の強化をしても、何ら意味がないでしょう。新しいルールの遵守のもとで、結局は、顧客の利益に反してでも、自己の利益を図る工夫が続くだけなのです。
 故に、ルールからプリンシプルへ、という転換がなされたのです。これを、別のいい方をすれば、ミニマムスタンダードからベストプラクティスへ、となります。ルールは、所詮は、最低限の規律、即ち、ミニマムスタンダードです。それに対して、顧客の要求に真に応えることは、常に最高の水準を目指すこと、即ち、ベストプラクティスの追求になるのです。
 
投資信託については、プリンシプルはフィデューシャリー・デューティーの徹底であり、その徹底を通じて、ベストプラクティスを追求していくことが、金融機関の長期的な利益につながるということですね。
 
 投資信託の販売会社は、顧客との間に信認関係が成立していること、信認関係が成立しているからこそ投資信託の販売ができていることを、自己の利益として、企業の価値として、とらえるべきなのです。
 金融庁は、その信認関係を、顧客の利益の保護のために、フィデューシャリー・デューティーを導入して守ろうとしているわけですが、それを規制の強化を考えることは、根本的に間違っています。
 そうではなくて、信認関係があるからこそ投資信託が売れているという現実は、顧客の利益を守ることによってのみ、持続可能なものとなるのですから、販売会社自身のプリンシプルとして、フィデューシャリー・デューティーを徹底することは、規制の強化ではなくて、長期的な利益の追求、即ち、ベストプラクティスの追求なのだということです。
 
以上

 
 次回更新は8月13日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2015/07/23掲載「信託業と投資運用業の責任の境界線
2014/07/10掲載「資産運用の担い手として、何をなすべきか
2014/07/03掲載「受託者としての資産運用の担い手
2014/04/10掲載「信託受託者の忠実義務を徹底的に考える
2014/04/03掲載「信託に厳格な受託者責任を課すために
2014/03/27掲載「ファンドのディレクターとトラスティー
2014/03/06掲載「投資信託は本当の信託なのか
2014/02/27掲載「投資詐欺事件における信託銀行の責任
2014/02/20掲載「信託の合同運用における法創造
2014/02/13掲載「信託の受託者の忠実義務
2014/02/06掲載「金融危機さなかの信託銀行批判

≪ アーカイブから今週のお奨めは「射倖契約」≫
2013/04/18掲載「オプション取引は賭博か
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。