投資詐欺事件における信託銀行の責任

投資詐欺事件における信託銀行の責任

森本紀行
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AIJという会社による投資詐欺事件がありました。普通ならば犯罪者だけが非難されるべきところ、年金基金は被害者になったことで非難され、投資運用業界は内部から詐欺師をだしたことで非難されるという異常な展開となるなかで、重要な関連当事者であった信託銀行の責任は論じられませんでした。
 
 事件の第一報が日本経済新聞の一面に載ったのは、2012年の2月24日ですから、ちょうど2年たちます。
 そもそも、詐欺というのは立件が難しく、当初は、刑事事件として報道されたわけではなく、「年金消失」事件などという妙な報道でした。当然のこととして、こういう報道姿勢は、不適切な資産運用行為、あるいは運用の失敗によって巨額な損失が発生したかのような誤った印象を社会に与えることになりました。
 加えて、社会的に責任の重い企業年金の資産運用を舞台にしていたことと、被害額が大きかったことから、世の注目を浴び、国会でも取り上げられるような異様な展開になったのです。そのなかで、社会の論調は、被害者である年金基金と投資運用業界全体に対する強い非難の色彩を帯びるに至ります。
 専門家の目から見れば、正当な資産運用行為からは生じ得ない事案であって、犯罪性は明らかであったので、投資運用業界自体に問題があるかのような社会の評価は理不尽なものであり、私も、激しい憤りを覚えたものです。今思い返しても、実に忌々しい。
 

被害者であるにもかかわらず非難を受けた年金基金の立場というのも、奇妙ですね。
 
 論調は、年金基金の資産の管理運用責任者として、詐欺紛いの運用に引っかかるようでは失格である、専門的な知見を欠き、十分に調査しないで投資するから、このような失敗をするのだ、素人判断が損失の原因だと、要は、そのような内容でした。
 確かに、そうした批判は、詐欺の手口が子供騙しの幼稚なものであるならば、成り立つかもしれません。しかし、本件は巧妙なものです。巧妙だからこそ、長期にわたって摘発されず、故に、被害も拡大したのです。
 こういう事件のときは、俺は最初からおかしいと思っていたなどと、得意気に後講釈を述べるものがでてきますが、所詮、後講釈は誰にでもできることです。詐欺を事前に見抜くのは、容易ではありません。
 おそらくは、最初から詐欺事件として報道されていたならば、被害者側に理不尽な批判が寄せられることもなかったでしょう。犯罪者だけが非難されたはずです。そうではなくて、投資の失敗であるかのように報じられたが故に、被害者を加害者扱いさせる原因となったのです。
 

それでも、運用成績が良すぎるとか、運用実態が不明だとか、そのような怪しさはあったのではないでしょうか。
 
 私は、当該詐欺に使われた運用戦略(と称する詐欺戦略)の概要を知っていました。あの国会のテレビ中継に映った詐欺師の顔も知っていました。なにしろ、直接に会って、説明を聞いたことがあるのですから。
 概要を知っていたからこそ、事件発覚後、詐欺に違いないと信じたのです。説明の通りの運用では、投資元本の全額が消滅することなど、あり得ないからです。つまり、発覚後に初めて、説明通りの運用がなされていなかった、説明は虚偽だったということがわかったのであって、その前に、詐欺が見抜けたわけではありません。
 詐欺の可能性を予見させるような怪しさなどというものを、具体的に想定することはできません。単に感性的に怪しいと思うことと、詐欺の可能性を科学的に認識することとは、全く異なります。
 

しかし、怪しいと思ったからこそ、投資しなかった人も多かったのではないでしょうか。怪しいものには投資しないという慎重さを欠いていたとして、年金基金は批判を受けたのではないでしょうか。
 
 もちろん、私は、本件の事案を投資対象として検討することはありませんでしたが、それは、怪しいと思ったからでも、詐欺の疑いを抱いたからでもなく、単に、自己の投資の基準には合わなかったからです。
 怪しいものに投資すべきではないというのは、多分に後講釈の要素を含んだ発想です。怪しいかどうかというような判断は、感性的なもので、科学としての資産運用、あるいは社会的責任のもとでなされる資産運用とは、何の関係もありません。判断できることは、合理的で客観的な基準に照らして、適格かどうかということだけです。
 当然ですが、そのような投資基準は、投資家固有の哲学に規定されているわけですから、投資家ごとに異なるものです。ただし、同時に、社会的に共通な客観規範も働くわけですから、個性のなかにも一定の許容範囲が画されるわけです。
 私の立場からいえば、本件の事案は、投資内容を検討するのに必要な情報の開示を欠いていたという点において、私の基準に合わなかったのです。つまり、実際に投資していた年金基金の基準は、情報開示を求める程度において、私の基準と相違があっただけです。
 

最低限の情報の開示こそ、社会的客観規範としての基準ではないでしょうか。
 
 その通りですが、何をもって最低限とするかは、簡単には決し得ません。投資には、一定の秘匿性の確保も必要なのであり、しかも、必要とされる秘匿性の程度は、投資戦略ごとに異なるわけです。本件の事案は、微妙であって、判断が割れても仕方なかったと思われます。
 

しかし、詐欺は防止しなければなりませんから、そのための何らかの対策は必要ですね。
 
 理想的には、何らかの基準による選別を通すことで、詐欺事案が全て弾き出されればいいのです。しかし、それは、無理というものでしょう。金融詐欺は、多くの場合、高度な悪意と知識とをもってなされるわけで、どのような基準でも、それを完全に見抜くことはできません。
 それでも、詐欺防止の対策は必要です。ただし、そのことで、運用戦略の自由な選択が妨げられてもいけません。だとすると、対策は、運用内容よりも、事務管理面に重点を置くべきではないかと思われます。
 

やっと、表題の信託銀行の責任へたどり着きました。本件の詐欺においては、事務管理は、信託銀行が行っていたのですね。
 
 私は、本件の詐欺事件は、事務管理の責任者であった信託銀行が、信託受託者としの責任のもとで、適正な事務処理を行っていたならば、防げていた、あるいは少なくとも、早期に摘発されて被害の拡大を阻止するだけの機会を得ていたであろうと考えています。
 この確信は、2年前の事件発生当時から変わっていません。にもかかわらず、私としては珍しく、2年間も沈黙していたについては、理由があります。それは、根源的に信託の問題を考え直していたからです。その結果、日本の信託は信託として機能していないのではないかとの疑問に到達しています。
 本件の詐欺事案について、信託銀行の事務管理責任を問題視する見解は、当初から、一部にはあったのです。しかし、現実には、不問に付されています。それは、信託銀行の対応に問題がなかったからではなく、現行の制度のなかでは、責任を問い得ないと考えられたからです。
 事件後、事務管理を中心とした制度運営のあり方については、当然のことながら、様々な改善策が講じられたのです。ただし、信託そのものの抜本的改革には、まだ及んでいません。あまりにも、問題が大きいからです。
 

具体的に、信託事務のどこに問題があったのでしょうか。
 
 財産の名義です。信託においては、受託者に信託財産の名義が移転すること、即ち、完全な所有権が受託者に移転すること、これが本質を形成する必須の要件です。そして、いうまでもないですが、もう一つの本質的要件は、その所有権の処分が専らに受益者の利益のためになされることです。
 この詐欺の舞台となったのは、外国籍の投資信託です。通常、外国籍投資信託の受益権を取得するには、その投資信託の現地の事務管理会社に対して、直接に申込書を送付し、直接に送金することによって、直接に受益権者としての名義を取得します。
 企業年金の資産運用においては、外国籍投資信託は、欠くことのできない重要な投資対象であって、多種多様なものが利用されています。その合計額は、企業年金資産全体の半分近くに達するかもしれません。とにかく、膨大な量の外国籍投資信託に投資されているわけです。
 その事務管理は、全て信託銀行が行っていますが、当然のことながら、本来の事務手順に従って、信託銀行が受益権の名義人となっています。ところが、この詐欺に使われた投資信託の場合は、信託銀行ではなく、当の詐欺師自身が名義人となっていました。
 実は、外国籍投資信託の運用者は詐欺師の現地法人であり、その投資信託の受益権の名義人は詐欺師の支配下にある証券会社でした。ここにこそ、詐欺の巧妙な技法があったのです。
 要は、資金が詐欺師の手のなかで循環する仕組みになっていたことから、詐欺の露見が遅れたのです。信託銀行が名義人として財産管理していれば、名義人としての地位に基づいて、情報と資金の流れを監視することができ、詐欺の露見は早くなったと思われます。加えて、事件後、信託銀行は、名義人ではないが故に、資産保全等の対策を即時に講じることすらできないという失態を演じました。
 つまり、信託銀行が資産の適切な保全管理を行うことができなかったのは、信託の本旨に反して、名義人になっていなかったからなのです。
 

ということは、信託銀行が名義人になるという必須の事務処理をしなかったこと、そのことが詐欺の機会を作ったのですね。
 
 そうなのですが、現行制度のなかでは、このことを、信託銀行の注意義務違反としては、構成できそうもないのです。といいますのも、詐欺師は、正規な契約により、年金基金から運用の指図権を授権されているので、その指図に従うことは、むしろ、信託銀行としては、当然の義務ということになるからなのです。
 つまり、この外国籍投資信託(詐欺師が運用している)の銘柄、証券会社に資産管理を委任する(故に、信託銀行は名義人にならない)という変則的な取引方法、取引の相手となる証券会社(詐欺師の支配下にある)、これら全ては、詐欺師が指定したものなので、信託銀行の責任を問えないというわけです。
 さてさて、これでは、明らかに制度の仕組みがおかしいといわざるを得ないでしょう。
 

要は、信託銀行は、単なる事務代行者であって、信託受託者としては機能していないということですね。
 
 現行の信託法では、信託の受託者は信託事務を外部の専門業者に委任することができます。そうしても、受託者には、受託者としての固有の責任、つまり注意義務や忠実義務、は残ります。その責任こそが、信託受託者の真の責任です。
 ところが、現在の信託実務は、実態として、信託事務の執行以外には、何も内容がありません。では、信託の受託者固有の職責は、どこへ行ったのでしょうか。
 信託は、単なる事務代行の仕組みではありません。信託は、受益者の利益を守る仕組みであって、受託者の責任は、受益者の利益を守ることです。事務は、その責務の執行に付随するだけのことであって、事務執行自体が本来の目的ではないのです。
 肝心要の本質的要素を抜きにした信託など、本来は、あり得ないはずです。現実に、それがあり得ているならば、制度を改正するほかない。
 

同様の問題は、投資信託にもありますね。
 
 信託という制度は、一つです。英米法では、日本の信託に該当するTrustは、一つの確立した理念であり、規範です。信託の問題は、当然に、全ての信託に及びます。形骸化している信託に、真の信託の理念を吹き込んで再生させること、そのような制度改正は、どうしても必要です。急務です。

以上


 次回更新は3月6日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2014/02/20掲載「信託の合同運用における法創造
2014/02/13掲載「信託の受託者の忠実義務
2014/02/06掲載「金融危機さなかの信託銀行批判
2014/01/30掲載「企業年金の資産運用におけるフィデュシャリーの責任
2014/01/23掲載「九州石油業厚生年金基金訴訟に思う
2014/01/16掲載「フィデュシャリー、あるいは信じて託すること
2014/01/09掲載「トラスト、あるいは信託の本旨


≪ アーカイブから今週のお奨めは「ジャパンディスプレイ」  ≫
2013/03/28掲載「ジャパンディスプレイは産業革新機構なしでもあり得たか
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。