トラスト、あるいは信託の本旨

トラスト、あるいは信託の本旨

森本紀行
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トラストは、英米法のTrustであり、日本法では、信託と訳されているもののことです。日本の信託は、英米法のTrustを参考にして作られたのですが、歴史的背景の全く異なる日本に接受されたとき、当然のこととして、異なるものになったのです。異なるとはいっても、信託はTrustです。そこで、改めて、Trustから信託を考え直そうということですね。
 
 業としての資産運用にとって、信託は、極めて重要な制度です。資産運用の契約を成り立たせるためには、契約対象となる資産の確定を行なうことが不可欠の要件になるのですが、そのときに資産を入れる器のようなものとして、実務上は、信託が使われることが多いからです。
 日本の場合、投資運用業の構造というのは、事実上、信託の存在を前提に構成されているといってもいいでしょう。このことは、日本だけの事情ではなくて、諸外国においても日本の信託と同様な制度が使われるのが普通で、例えば、英米法の国ならば、Trustが資産運用業にとっての器として、重要な役割を演じているのです。
 以下、ここでは、信託という言葉を、日本法のもとの信託というよりも、英米法のTrustなどの海外の事例も含むような財産管理の一般的な仕組みとして、使うことにしておきましょう。
 さて、今、信託を、資産を入れる器として表現しましたが、それは、投資運用業の立場からみたときのいい方であって、契約の対象となっている資産の立場、即ち運用資産を預ける顧客の立場からいえば、当の器こそが主役であって、投資運用業者は、器の管理に関して、投資判断にかかわる業務だけを切り出して委任する先として、呼び込まれたものにすぎないのです。
 そうなりますと、投資運用業の契約というのは、信託を通じて外縁を明確に画された資産の塊を間に挟んで、顧客と投資運用業者が向き合うような構図になるわけです。この基本構図は、日本をはじめ、諸外国でも、同様の一般的な仕組みだと考えられます。
 

業としての資産運用の基本構造というのは、一般化していえば、信託を通じて分離独立させられた資産の塊について、資産の所有者である顧客が、その運用管理を外部の専門家に委任する契約ということになりますね。
 
 基本構造は、そのように単純なのですが、現実の社会に存在する資産運用の契約は、もっと複雑な仕組みになっています。事態を難しくするのは、信託の構造です。信託とは、分離独立した資産の塊ですから、それ自体として、一定の主体性をもつと考えられますので、資産の所有者という一見自明のことさえも、信託の内部問題として、深く検討されねばならなくなるからです。
 実際、信託という独立した資産の塊については、三つの異なる側面をもつ関係者を観念し得るわけです。第一に、もともとの資産の所有者で、それを信託という形に外部化し独立化させた人ですが、これを委託者といいます。第二に、信託された資産の運用から生じる果実、および最終的には信託元本そのものについての権利を有する人で、これを受益者といいます。そして第三に、信託財産の管理者ですが、これを受託者といいます。
 最も単純な形態は、委託者と受益者が同一で、受託者が同時に資産運用の専門家として投資管理に当たる場合です。この場合は、事実上、委託者と受託者との二者間の資産運用管理契約ですから、見かけ上は、わかりやすい構造になります。
 ところが、委託者と受益者が異なる場合は、どちらが信託財産の実質的な所有者なのかは、必ずしも明瞭ではありません。加えて、名目的な所有者は受託者なのですから、当然に事態は複雑になります。資産運用の立場からいえば、実質的な顧客は資産そのものなのですが、資産は法律上の主体ではないので、利害関係者の実体的関係について考えると、そのことは、法律的に、どのような意味をもつのか、必ずしも簡単な問題ではなくなるのです。
 しかも、現実には、受益者が多数いたり、異なる権利を有する受益者がいたり、受託者とは別に資産運用の専門家である投資運用業者が選任されていたりと、さまざまに異なる構造をもった信託が存在し得るわけです。
 これは、実は、当然のことなのです。といいますのも、そもそもが、資産を信託化しようということ自体に、それ固有の特別な事情があるに違いないからです。信託する事情が異なれば、それに応じて、信託の構造は異なり、信託の構造が異なれば、資産運用のあり方も異なってくるということです。このような個別性こそ、信託の特色でもあるのです。
 

信託には、それぞれの個性がある、表題に掲げた信託の本旨とは、その信託の個性のことですね。
 
 信託の本旨という言葉は、日本の「信託法」にもある用語です。同法二十九条は、「受託者は、信託の本旨に従い、信託事務を処理しなければならない」というふうに受託者の義務を定めているわけです。同法には、「信託の目的」という用語もあるのですが、かつて信託法の権威であった四宮和夫は、信託の本旨について、「「信託ノ目的」を、信託のあるべき姿に照らして理想化したもの、換言すれば、委託者の意図すべきだった目的」と解説していました。
 もちろん、ここでは、日本の法律の用語として信託の本旨という言葉を使っているのではなくて、私なりに、「信託のあるべき姿に照らして理想化したもの」として、用いようということです。いうまでもなく、信託の本旨については、信託の法律的性格にも関連して、長い学説の積み重ねがあるのは、承知のうえですが、ここは、法律論を展開することが目的ではなく、投資運用業との関連において、信託の本旨を、自由に「理想化したもの」として、論じればそれでいいのです。
 

しかし、信託の本旨を委託者の意図と解すれば、事態は、それほど複雑にはなり得ないのではないでしょうか。
 
 信託は、委託者によって設定されて信託となるのですから、原点に、信託の目的、即ち、委託者の意図の存することは自明です。しかし、例えば、日本の「信託法」は、目的と本旨という二つの言葉を使いわけており、四宮和夫も、本旨を、目的とは異なるものとして、「信託のあるべき姿」とか、「委託者の意図すべきだった目的」と表現しているように、信託の本旨は、単なる信託の目的ではなくて、その上位の次元にあるもの、信託の目的を律する原理ととらえられていたと思われるのです。
 

信託もまた契約である以上、契約当事者である委託者の意図を超えるような原理は、存在し得ないのではないでしょうか。
 
 英米法のTrustは、英国の中世に起源をもつ独自の歴史的所産で、実は、契約ではないのです。それは、信託財産を媒介とした委託者と受益者との関係であり、その関係こそがTrustの本旨であり、その本旨が受託者を強く拘束し、受託者に厳しい諸義務を課するところに、Trustの本質があるのだろうと、私は考えています。
 もちろん、日本では、信託は契約です。しかし、契約といえども、いわゆる契約責任として、契約当事者を拘束する契約外(外というよりも、契約内在的な力かもしれませんが)の諸義務の発生し得ることは、よく知られていることです。日本の信託の契約もTrustの歴史的淵源とは無関係に理解されてきたはずはなく、そこには、単なる契約を超えて、Trustの理念の解釈を介した独自の信託理解の形成があったはずなのです。
 実際、四宮和夫は、信託財産に実質的に独立した法主体性を認める独自の学説で知られ、それが実務にも影響を与えてきたわけですが、この学説こそ、Trustの日本への接受の工夫だったと考えられるのです。
 

それでは、具体的にいって、信託の本旨の効力は何でしょうか。
 
 受託者が負うべき厳格な義務と、委託者をも拘束する独立性です。
 先ほど引用しましたように、日本の「信託法」には、はっきりと、「受託者は、信託の本旨に従い、信託事務を処理しなければならない」と書いてあります。この受託者の義務の根拠は、まさに、「信託の本旨」なのです。英米法では、Trustそのものが受託者の負う義務の根拠です。
 信託に独立した資産の塊としての一定の主体性を認めるならば、その主体性こそが、契約当事者を拘束する信託の本旨になるはずです。ならば、信託の本旨は、一方で、受託者を強く拘束するのは当然として、他方で、委託者をも一定の範囲内で拘束するのでなければなりません。
 なぜ、受託者が厳格な義務を負うのか、なぜ、委託者が拘束されるのか、それは、当然のことながら、信託の本旨の基礎が、原理的に、受益者の利益の保護にあるからです。そうでなければ、そもそも、信託を設定することの意味がないわけです。
 日本のように、信託が契約であり、それが委託者と受託者間の契約であっても、その契約には、受益者の保護のための強い拘束がかかるのでなければ、信託の本旨を没却することになります。受益者の利益が守られなければ、それは、もはや信託ではないはずです。
 

信託の主役は、受益者なのですね。
 
 信託が契約であるにしても、信託の主役は、契約の当事者である委託者と受託者ではなく、その裏に隠れた受益者であるべきです。しかし、受益者は、常に受動的立場に立つものであり、法律的な主体となることはできません。そこに、法制度としての工夫が働くわけです。その工夫が信託にほかなりません。
 受益者の将来にわたる利益は、その現在価値として、信託された資産に化体しています。資産というものの経済的意味は、その資産から生じる将来利益の現在価値である以上、これは、当然の論理構成です。従って、受益者の利益を守ることは、受益者に帰属すべき将来利益の化体としての資産の適正な管理に帰着します。
 ところが、資産は生き物です。というよりも、資産は、活かして収益されるべきものです。故に、資産の活かし方、即ち資産管理の方法が、資産からあがる収益の多寡と損失の可能性を規定します。ここに、信託の本旨が重要な意味をもつ理由があります。結果的に大きな損失を生む可能性を高めてまで収益性を追求すべきか、積極的な収益機会を放棄しても元本の保全を最優先させるべきか、それを決めるのは、受託者による信託の本旨の理解なのです。
 受託者の責任は、信託の本旨に忠実な資産運用です。そして、信託の本旨が偏に受益者の利益の保護のためだけに存するとすると、それは、委託者をも拘束する、即ち、状況によっては、受託者は、委託者の指示に反してすら、信託の本旨に忠実でなければならないでしょう。
 もしも、受託者が外部の資産運用業者に投資判断にかかわる権限を委任したとすれば、当然のこととして、受任した資産運用業者にも、同様な義務が課せられるのでなければなりません。
 

日本の信託業と投資運用業も、そのような厳格な規律のもとにあるものでしょうか。
 
 日本の投資運用業は、事実上、信託された資産の運用を行う業です。そして、その信託は、全て営業としての信託(商事信託)となっており、更に、その全てが少数の信託銀行によって独占されています。
 さて、このような日本の構造のなかで、信託の本旨は貫徹しているのか、これが私の長年に及ぶ問題意識です。これから、しばらく、この問題を集中的に論じていきたいと思います。
 
以上


 次回更新は1月16日(木)になります。
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2012/03/22掲載「AIJ問題は投資運用業の埒外における犯罪的行為である
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月当時のワイアットに入社し、日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。