フィデュシャリー、あるいは信じて託すること

フィデュシャリー、あるいは信じて託すること

森本紀行
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信託とは、信じて託することです。よく考えてみると、何事であれ、他人を信じて他人に託するというのは、よほどの信頼関係に基づくのでない限り、なし得ないことです。また、もしも信じて託するならば、信じて託したことの信頼関係について、法律的な特別の保護が必要なはずです。その保護されるべき信頼関係が、フィデュシャリー Fiduciaryですね。
 
 日本国憲法の前文には、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」と書かれています。
 ここにいう信託とは、「信託法」という法律に定められた信託ではなく、信じて託するという意味の日常語です。主権者たる国民によって国政を託されていることに、政治権力の権力としての正当性の根拠が存することを述べたものにほかなりません。
 しかしながら、法律用語の信託もまた、日常語としての信じて託するという意味をもたないわけはありません。憲法前文の信託についても、委託者たる国民が政治権力に国政を信託し、受託者たる政治権力は、受益者たる国民に対して、福利を提供すると解することにより、法律概念としての信託との間に共通性を見出すことができます。
 いうまでもなく、憲法前文の信託は、政治権力の行使の目的を、受益者である国民に福利を享受せしめることに限定しているのであり、その信託の本旨によって、受託者たる政治権力の権力行使のあり方を強く拘束するところに意義があるのです。
 この構造は、法律概念としての信託についても全く同じであって、法律上の信託とは、受託者に対して、信託の本旨に従って受益者の利益を守るためにのみ行動することを厳しく義務付けることなのです。
 

信託が法律上保護しているのは、信じて託した人と、信じられて託された人との間の信頼関係ですね。
 
 その信頼関係を、英米法では、Fiduciary関係と呼んでいます。日本語では、信認関係と訳されることが多いようですので、以下、信認関係と呼んでおきましょう。英米法における信認関係の代表的なものがTrustです。というよりも、信認関係の概念自体が、Trustにおける当事者間の関係から抽出されてきたものなのでしょう。
 Trustの理念が日本法に輸入されたとき、信託という言葉が当てられ、「信託法」ができたのです。もちろん、日本の信託は、Trustの理念は継承しながらも、Trustとは異なるものとして接受されたのであり、故に、信認関係の法理も、そのままでは、輸入されることはありませんでした。
 

日本法には、信認関係という考え方はないのでしょうか。
 
 英米法では、Trustは契約ではないと解されているので、関係当事者を拘束するものとして、信認関係に基づく行動規範が求められているのだと思われます。日本法では、信託は「信託法」によって特別に規制される特殊な契約ですから、「信託法」の規定と契約規範の問題として、信認関係に相当するものを構成すればいいわけです。
 日本には、Trustはないですが、それに相当するものとして信託があり、信認関係もないですが、それに相当するものとして、「信託法」による契約に規定された責任と、信託契約に付随する責任があるわけです。そして、信託の理解においては、Trustの解釈が媒介されるように、信託上の諸義務の理解においては、信認関係の解釈が媒介される、それが外国法の日本法への接受の問題であり、学説は、そのようなものとして機能し、実務にも、それなりの影響を与えてきたのではないでしょうか。
 つまり、日本には、信認関係そのものはなくとも、信認に基づく関係の特殊性は、信託契約の理解のなかに活かされているでしょうし、今後さらに、信託の社会的意義の重要性が認知されてくるにつれて、より深く、より広く、活かされていく、というよりも、活かされていくべきだと思われるのです。
 

英米法でも、信認関係は、Trustから抽出されたにしても、Trustを超えて、類似の契約関係にも適用されているようですね。
 
 法律的に異なる二つの行為について、その目的における類似性が高い場合、法律上の効果が大きく異なるのは、適当とはいえません。この点の理解については、英米法でも、日本法でも、基本的に同じではないでしょうか。
 例えば、英米法では、ある不動産をTrustにして受託者に売却を依頼することと、不動産業者を代理人として売却を依頼することとは、法律的構成が大きく異なることなのですが、だからといって、受託者の責任と、代理人の責任が大きく異なることはあり得ないでしょう。事実、代理契約における受任者と委任者の関係について、Trustの受託者と受益者(兼委託者)との間の信認関係と同等なものを認めることで、委任者の保護を厚くするような例もあるわけです。
 日本でも同じで、類似の目的をもつ信託契約と委任契約は、同等の法律的効果を生むのが適当だと考えられているはずですので、両者に共通する信認関係的なものの理解を媒介しない限り、同等な法律効果を生むような解釈は成り立ち得ないでしょう。ですから、日本には、信認関係そのものはなくとも、信認関係的なものの認識はあるはずなのです。
 

日本では、Fiduciaryの責任、即ち、信認関係に基づく責任を、受託者責任と訳すようですから、信託の受託者の責任が信認関係に起因することは、少なくとも言葉の使用法からは、明らかなようですが。
 
 日本で受託者責任というときに、それは、主として、日本の「信託法」のもとでの信託の受託者の責任を意味しているのか、それとも、英米法のFiduciaryの責任の訳語として、主として、英米法における信認関係に伴う受託者の責任を意味しているのかは、必ずしも、明瞭ではないですね。
 一方で、ある人は、英米法の受託者責任を、日本の信託の受託者の責任に読み込もうとするでしょうし、他方では、別のある人は、日本法の内在的理解から、日本の信託の受託者責任を解釈しようとするでしょう。そこには、どうかしますと、不毛な議論のすれ違いが起きているのかもしれません。私は、そのような懸念をもっています。
 

契約当事者に関する構造の違いが大きく影響してはいないでしょうか。
 
 日本の信託は、明らかに、受益者のためにする委託者と受託者の間の契約です。つまり、第三者のための契約であって、契約当事者としては、受益者は出てきません。
 英米法では、第三者のためにする契約は、その全てではないものの、原則としては、契約ではないTrustであると理解されます。なぜなら、Trustにおける主役は、契約当事者として出てこない受益者だからです。つまり、契約と解すると、主役が契約当事者ではなくなるので、そこにTrustという特殊な理解を構成するわけです。
 ところで、受益者が契約当事者になり得ないのは、英米法の理論に待つまでもなく、受益者の地位については受動的に利益を受けるのみで対価の支払いがない以上、当然でもあります。英米法では、対価(約因と訳されているconsideration)のない契約は、原則として、契約ではないので、受益者を中心に法律関係を考える限り、Trust自体が契約ではないのです。それに対して、日本では、「信託法」を制定することで、契約当事者ではない受益者の地位を、契約として、保護することにしているのです。
 ここでも、法律構成の違いで、法律上の効果に本質的な差が出るのはおかしいのですから、日本法の信託と、英米法のTrustとの間に、本質的な解釈の差があるのは、おかしいはずです。ところが、本当はそうなのですが、実際のところは、差は厳然としてあるようです。
 つまり、日本においては、委託者と受託者が契約の当事者であり、受益者が第三者にすぎないことは、受益者の地位に、微妙な影響を与えているように思われ、そこに、受益者を中心に信認関係を構成している英米法との差があるように思われるのです。
 

信認関係というのは、信じて託した人と、信じられて託された人との間の信頼関係とはいっても、信じて託した人というのは、委託者ではなくて、受益者なのですね。
 
 Trustのもとでは、信認関係は受益者と受託者の関係であって、委託者は、Trustを変更できはしますが、確定したTrustのなかでは、Trustに拘束されるだけの存在であり、事実上、無権利です。ですから、受託者にTrust違反があっても、受益者の利益を守るべく行動できるのは、受益者自身であって、委託者ではありません。ここに、Trustの特性があり、信認関係の意味があるわけです。
 日本法でも、原理的には、あるいは理念的には、英米法と同じでなければなりません。ところが、日本の信託における受託者の責任を、信認関係的なものとして、即ち、委託者を抜きにした純粋に受益者と受託者との間の関係として、認識し得るのかは、そう簡単な問題ではないようです。実は、これが私の最大の問題意識なのですが、実務的にも、法理論的にも、難しいことです。
 

委託者と受益者が同一であれば、問題の所在自体が認識されにくいですね。
 
 Trustは、委託者と受益者が異なることを原則として、受益者と受託者との間の紛争をつうじて、その法理を発展させてきたのです。ですから、委託者と受益者が同一の場合でも、常に、受託者の立場だけが問題とされてきたのであって、そこで委託者の立場が問題となることはなかったのです。
 ところが、日本では、委託者と受益者が同一の場合、受託者との間で紛争が生じたとき、紛争当事者は、委託者であると観念されることが多いのではないでしょうか。
 Trustの場合、委託者と受益者が同一の場合でも、紛争において、委託者の立場が救済されることはあり得ませんが、日本の場合は、あり得ないことではなく、事実、受益者が救済されたとしても、それは、委託者としての立場で救済されたのか、受益者としての立場で救済されたのかは、形式面はともかく、その実質面においては、必ずしも明瞭ではないのではないでしょうか。
 もしも、私の予想が正しいなら、日本においては、信託の受託者の責任が問題となるとき、それは、偏に受益者に対する責任が問題となるわけではなく、委託者に対する責任も強く意識されてくるのではないでしょうか。そのことが、受益者と受託者との間の本来あるべき受託者責任の理解について、微妙な影響を与えていると思うのです。
 

委託者は、信託成立の主役ではあっても、ひとたび成立した信託については、形式的には契約上の当事者ではあっても、もはや主役ではなく、主役は受益者であるとの認識がどこまで徹底されるかですね。
 
 憲法前文の日常語としての信託の理解に戻れば、国民は、委託者として、政治権力の成立を信託しますが、ひとたび成立した政治権力のもとでは、一方で、国政の利益を受ける受益者であるものの、他方では、国民としての義務を負う存在でもあります。つまり、政治権力成立後は、国民の委託者としての権利は消滅し、国民の受益者としての権利と、国民の義務だけが残るのです。
 これは、憲法の性格上、理論的に当然のことです。ひとたび成立した政治権力のもとで、国民が委託者としての原初の権利を行使することは、信託を覆すことであり、政治権力の否定であって、それこそ革命です。憲法は、革命権までは規定し得ないはずです。信託の原初における一回性こそが、信託を厳粛なものにしているのです。信託が委託者により変更可能であるように、憲法も改正可能ですが、それは、原初における厳粛な信託の範囲内でのことです。
 つまり、日常語としての信託では、委託者の信託行為は起源の問題にすぎず、後に残るのは、受益者と受託者だけです。法律用語としての信託もまた、同様に厳粛に解すべきではないのか、私は、そう思っています。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2014/01/09掲載「トラスト、あるいは信託の本旨

≪ アーカイブから今週のお奨めは「射幸契約」  ≫
2013/04/18掲載「オプション取引は賭博か
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。