語り得ない不安と投資の保守主義

森本紀行
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投資は投機ではありません。しかし、気が緩むと、投資は、簡単に投機に堕してしまいます。

私は、投資対象の理論的な投資価値にこだわり続ける限り、合理的な価値判断の枠の中に厳格にとどまる限り、投資が損失に帰することは、原則として、ないと信じています。
 もちろん、投資対象が市場取引されるのであれば、一時的な評価損の発生することは避け得ないのですが、それは、本質的な損失ではない。価値の毀損としての本当の損失は、多くの場合、合理的な投資判断に起因するのではなくて、何らかの投機的要素の混入に起因するのではないか、と思っています。
 前々回のコラム「国債と通貨と金」の中で、「ユーロは瓦解するだろうから、売り、いやいや、ユーロの崩壊などあり得ないから、ここまでくれば、買い、こういうのは、投資ではなくて、投機です」と述べました。この意図するところは、一定の社会的な責任の枠組みの中で行う投資、つまり、機関投資家の投資としては、予想に基づく行動には、厳格な規律が必要だろうということです。


つまり、制度としてのユーロの将来像などということは、経済価値の合理的判断の及ぶ限りではないのです。合理的判断の土俵にのらないことは、投資にはならない。

投資にならないことは、投機になる場合が多いから、やらない。こういう規律を、実は、前回のコラム「投資判断における保守主義の原則」の中で問題にしたのです。ここでは、価格(注意してください。価値ではなくて、価格です)の上昇を見込まないことをもって、保守主義としています。
 不動産を例にして論じているのですが、もしも、不動産の収益物件の価値算定において、底地や賃料の上昇を見込んでしまえば、いくらでも価値を高くつけることができる、その危険性を問題にしているのです。不動産投資が、バブル的現象と、その崩壊によって、損失になることがあるのは、一つには、保守主義を貫徹できないことが、原因であろうと考えているのです。
 保守的な仮定に基づいて価値を算定する。これは、投資の基本です。一方で、価格の予想は、投機的な要素を伴う。もともと、投資の世界では、「予想はするな」というのが、一つの重要な規律であったように思います。投資とは、価値の判断であって、決して価格の予想ではない。価格の予想は投機です。この規律を保守主義といっているのです。これは、私には、非常に重要な規律、投資を律する根本的な規範であると思われるのです。


合理的な価値判断の枠に厳格にとどまるということは、哲学的に表現すれば、語り得ないことは語らないということです。

しかし、語り得ない不安は、どうしたらよいのでしょうか。これが、今回の表題に掲げた問題です。
 語り得ないということは、例えば、複数の人間で議論を尽くしたとしても、合理的な合意形成は難しかろう、ということです。議論百出して結論なし、です。しかし、議論をするのは、不安があるからです。例えば、ユーロ崩壊は、必ずしも、あり得ないことではない、その不安はあるわけです。しかし、投資の枠の中で、その不安に合理的に対処することはできない。
 それでも、一つの選択肢はあるのです。投資を止める、もしくは抑制することです。例えば、ユーロを全て(もしくは、一部)ヘッジするとか、ユーロ建ての資産を売却(もしくは、削減)するとか。このような判断は、実は、投資の中の技術的な判断ではない。投資を外から律する規律です。判断を超える規律です。


私は、かつて、このような問題意識から、いわゆる「損切り」ということを検討したことがあります。

2009年6月 4日のコラム「「損切り」を考察する」です。このときは、資本制約との関連における外的な規律として、損切りを考えたのです。今回は、資本制約との関連ではなくて、投資判断の合理性との関連で考えているのです。
 確かに、合理的な投資判断が成立しないときには、投資をしない、もしくは抑制する、というのは、重要な規律のように思えます。実際、もしも、新たなる投資として、ユーロという通貨圏への投資を考えるならば、今この時期、投資を実行するかどうかは、疑問ですね。であれば、既に投資してある金額について、撤退するなり、ヘッジするなりする方が、まともなことなのかもしれないのです。
 不安が増大しているとき、投資を止めることは、損失の確定になる場合もあるでしょう。しかし、それは、投資判断から生じた投資損失ではない。そうではなくて、おそらくは、投資を継続するための費用なのです。投資の規律を維持するための費用なのです。
 どうやら、昨今の市場価格変動の大きい状況を反映してか、平均株価の下落や、為替の円高などに対して、ヘッジすることの可否が論じられることもあるようです。
 金融機関などでは、資本制約との関連で、評価損といえども、一定の範囲に抑えなければならない。だから、ヘッジや売却(損切りになる場合が多いでしょう)を真剣に検討しなければならない。これは、当然であり、よく分かります。しかし、資本制約の問題ではなくて、一つの投資判断として、ヘッジを検討するというのは、どういうことなのでしょうか。


一番気になるのは、そもそも、価格の変動に過ぎないことが、投資判断の基礎になり得るのか、ということです。

価格の下落の裏に、価値の低下があるのかどうか、という価値判断は、重要な投資判断です。その結果、投資額を減らすようなことがあったとしたら、まともな投資行動として、よく分かるのですが、それをヘッジとはいわないでしょう。
 逆に、価格の下落の裏に、価値の低下がみないならば、まさに、投資の機会なのだから、投資額を増やすこともあるでしょう。常に、価値の判断のみを行い、価格を条件として行動する限り、価格変動のヘッジという発想はでてこない。あり得るとしたら、資本制約との関連においてのみです。
 一方、価値判断ではなくて価格変動に基づく投資行動には、ヘッジという言葉とは裏腹に、実は、投機的要素が混入しているのではないのか。ヘッジとは、価格変動に基づく判断(そのような判断が、合理的判断と呼べるかどうかさえ、私には疑問なのですが)ではなくて、価格変動に対する判断を行わないことなのではないのか。


価値の変動は語り得ても、価格の変動は語り得ない。価格の変動は、取引の条件であり、受け入れざるを得ないものです。

投資判断における管理の対象ではあり得ません。価値の保持、価値の毀損の回避、これは、投資判断であり、投資の管理の対象です。
 問題は、価格の変動は語り得ないのに、価格変動の不安は大きいということなのでしょう。不安に対処する方法は、一つしかないようです。価格変動は受容せざるを得ないものである以上、合理的投資判断によっては回避し得ないものである以上、許容できる上限を、投資判断の外的制約として、外的規律として、定めるしかない、ということです。


本当は、もう一つ上の方法がある。

でも、これは、到達の難しい高度な境地です。それは、価格変動に不安を抱かないことです。もしも、自分の投資対象の価値判断について自信があるならば、価格の下落は、多くの場合、投資機会です。そこに不安はない。真の投資家のみが到達できる境地ですね。おそらくは、ウォーレン・バフェット氏は、そのような投資家の一人なのでしょう。
 しかし、私は、ウォーレン・バフェット氏を天才だとは思わない。天才なのではなくて、厳格に合理的な価値判断の枠を守る保守主義者だと思います。ですから、誰でも、職人的な価値分析の技術を極める精進をし、厳格に保守的な規律を守ることができれば、高度な境地に到達できるはずなのです。
 世界の投資産業は巨大です。職人の技術を忘れ、規律を踏み外して、投機に堕す。そのような人も沢山います。一方、同じだけ沢山、厳格な保守的職人がいます。業界の良心を支えているのは、そのような職人肌の人々です。

以上

次回更新は、7/1(木)になります。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。