国債と通貨と金

森本紀行
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 ギリシア国債の格下げ、ユーロ安、金価格の高騰、一連のつながった出来事ですね。経済を支える信用制度の基礎という、究極の論点が問題になっているのでしょう。

 ところで、いきなり、例によって話は飛びますが、日本の財務省は、巨額な残高を誇る国債を、償還できるのでしょうか。おそらくは、償還の目処など、全く立たないでしょう。しかし、だからといって、何か問題でしょうか。
 国債の償還というのは、実のところ、新しい国債の発行による借換えに過ぎません。もちろん、借換えのたびごとに、借換えの額を少しずつ減らしていくことになる(できれば、なって欲しいものですが)としても、完全な償還などということは、あり得ないし、必要でもないでしょう。
 それから、これは、当たり前のことなのですが、利息を払い続けるということは、最低限の要件ですね。ところが、いかに財政の厳しい日本国でも、利払いに困難をきたすような状況は、全くもって想定し得ません。利払いが滞りなく行われていて、借換えが円滑に進行している限り、巨額な発行残高があっても、日本国債の危機というものは考え得ない。
 だからこそ、債務残高の側面からみたときには、日本の財政の状況は、破綻に近いことが明らかでも、それなりの格付を維持し、市場の秩序が保たれ、国家財政も、一応は、回り続けているのです。そのことを背景にしてこそ、財政の健全化よりも当面の景気対策を重視すべき、という財政積極論もでてくるのでしょう。
 しかしながら、もしも、危うさがあるとしたら、それは、将来も借換えが円滑に進行するかどうか、でしょう。借換えが少しずつ難しくなるということは、借換えのたびに、調達金利が上昇していくということです。そうなると、国債価格は下落する。価格の下落自体は、大きな問題ではないかもしれませんが、価格が更に下落するという予測が市場一般のものになってしまうと、今度は、借換えが円滑には進まなくなるのではないか、という非常に厳しい市場評価ができてしまう。そうなると、国債の危機です。


 要は、鍵は、市場からの信任なのです。

信任があるから、借換えができる。借換えができるかぎり、国債は、安全な投資対象であり得る。おそらくは、ギリシアの事例なども、ギリシア政府の信任が崩れたから、国債価格が大きく下がったのでしょうね。その価格が下がったという事実が今後の財政運営を難しいものにするであろう、という見通しに基づいて、格付が下げられたのでしょう。格付が下がったから、更に売られるというのは、おまけなのではないでしょうか。
 格付の後追い性のことがいわれますが、価格が下がったから格付が下がる、というような後追いは、一見、おかしいように見えて、実は、おかしくない。なぜなら、政府の国債であろうが、企業の社債であろうが、本当の償還ということは、むしろ例外で、普通は、連続的な借換えが行われる仕組みなのです。借換えの安定性が損なわれることが、破綻確率を高くして、格付の低下を招くのであって、格付が低下するから、破綻確率が高くなるわけではないのでしょう。


 ところで、国家の信任に傷が付くことは、国債価格の下落を招くことよりも、より大きく、より深刻に、通貨不信を招きかねないところに、究極の問題が潜むのです。

ギリシアの場合は、ユーロという特殊な通貨の仕組みに属していることが、事態を複雑なものにしてしまったのでしょう。一つの加盟国固有の問題が、全ユーロの信任が問われる事態につながる。そして、ユーロ安。
 こうなると、ユーロ加盟国の経済の基礎的条件が問題というよりも、制度としてユーロは存立し得るか、という政治の問題、国家連合として加盟国全体の信任の問題となりかねない。万が一にもそうなると、それは、明らかな危機だから、信任回復のための、何らかの強力な政治行動が求められる。何かするだろうという政治への期待もまた、実は、国家への信任の重要な要素です。
 さて、日本は、大丈夫なのでしょうか。財政は事実上破綻していても、政府への信任が揺るがない限り、問題は起きないのです。そうなのですが、逆に、信任が揺らぐことがあると、一気に危機へ向かうことになるのですが、実は、首相が頻繁に変わっても、信任が揺るがない、不思議な強さがありますね。
 一気に飛んで、なぜ、金かというと、金は、通貨や国債と違って、政治的な裏づけで流通するのではなくて、それ自体として価値のある擬似通貨として、取引されるからです。擬似通貨というのは、本当は、金には失礼なのでしょうね。歴史的は、金こそが通貨の王様、通貨は金の裏づけで発行され、流通していたのですから。
 1971年8月15日のニクソン・ショック、ドルの金兌換停止から、もう約40年ですか。しかし、みようによっては、長い金融の歴史の中では、まだ40年、というべきなのかもしれません。人類の歴史とともに古い金への信任は、おそらくは、今後先々、変わることはないのでしょう。一方で、国家への信任は、時々、揺らぐということです。
 ところで、禅問答のようなことをいいますが、国家への信任が揺らいだから、金の価格が上昇している、といっているのではないのです。金価格の上昇に、国家への信任の揺らぎをみるべきだ、といっているのです。
 余計に、ややこしくなるだけでしょうが、敢えていうと、進化論のもとでは、キリンは、木の上のほうの葉を食べるために、首が長くなった、という通俗の説明は受け入れられないのと同様です。進化論では、首の長いキリンが、生存競争の結果、生き残ってきた、と説明します。

 そもそも、科学としての経済学(投資の理論も、その一部を構成する)は、価格変動を背後の経済動態から説明するものでしょうか。それとも、価格変動から背後の経済動態を説明するものでしょうか。私は、どちらかといえば、後者だろうと思います。
 
 価格理論においては、価格は情報なのだと思います。価格変動は需給の情報を伝達します。その上に基づいて、経済行動が誘発され、経済の動態が動く。原油価格上昇は、エネルギー需要の増大を意味する。その情報が、産業界における、エネルギー開発への投資と、省エネルギー化への投資を誘発する。そのような役割を原油価格は、担っているのです。
 私は、金融取引における価格も同様の役割を担っていると思っています。ところが、金価格に限らず、為替、債券、株価、いずれについても、注意深くみると、多くの評論は、過去の価格変動の説明と、将来の価格変動の占いに終始しているようです。

 投資の理論とは、過去の価格変動の説明でも、将来の価格変動の予測でもありません。投資とは、価格変動を情報として、価格変動の意味を考え、資産が本源的に持つ価値(価格ではなくて)を高めるように、適切な資産選択(配分ではなく)することです。

 金価格は更に上がるから、買い、ユーロは瓦解するだろうから、売り、いやいや、ユーロの崩壊などあり得ないから、ここまでくれば、買い、こういうのは、投資ではなくて、投機です。投資とは、価格変動の事象から、どれだけ多くの情報を読み解くか、そして、読み解いた情報を、資産全体(金や為替だけでなく)の総合管理に、どのように活かすか、そのことに尽きます。
 私は、日本国債は、割高だと思います。大きな投資価値はみいだしていません。しかし、そこから国債価格の下落などは、予測していません。日本の国家財政の実態的な破綻にもかかわらず、日本の信用秩序が維持され、国債が高値で取引されるという事実(まさに情報です)を考え抜くことで、日本の銀行等の金融機関の特殊な位置や、そのことに関連した株式市場の低迷の意味がみえてきます。そのことが、日本に限らず、世界全体の中での資産の選択の基礎になるのです。
 金についても、ユーロについても同様です。金に対する機関投資家の関心が高まってきています。それは、金価格の上昇を見込むからではなくて、金価格の上昇という情報のもつ意味を徹底的に考えるからです。徹底的に考えてしまうと、少し怖くなるから、保険として投資しておこう、ということなのでしょう。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。