「損切り」を考察する

森本紀行
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損切り、あるいはロス・カットというのは、保有している株式などの投資対象の価格が下落して、事前に決めた損失額の上限に達したときに、それ以上の損失を避ける目的で売却することをいいます。

改めて説明する必要もないですね。どなたもご存知のことです。実際、個人の投資家から、金融機関の証券運用担当者、ヘッジファンドのファンドマネジャに至るまで、広く行われていることです。ところが、これを深く考えてみると、意外と難しい問題であることがわかります。
 まず、ロス・カット(別にカタカナが好きなわけでもありませんが、損切りではなくて、ロス・カットという用語を使うことにします)というのは、単なる投資行動ではなくて、多くの場合は、事前に定められたルールである点が重要です。特に、ヘッジファンドのマネジャや金融機関の証券運用部門などのプロの投資家は、ルールとしてのロス・カットを導入している場合が多いようです。一方で、同じプロの投資家でも、年金基金や財団などの長期投資家では、ロス・カットをルール化することは稀です。ロス・カットをルール化する投資のあり方と、そうしない投資のあり方とは、根本的に異質なものとして、ずっと並存してきています。

さて、話は一気に飛びますが、今回の金融危機において、ロス・カットを行った投資家と、行わなかった投資家とを比較すると、どちらのほうが少ない損失で済んだでしょうか。

恐らくは、ロス・カットを行ったほうでしょう。しかも、ロス・カットを発動する損失上限を低く設定していたところほど、被害は少なかったと考えられます。2007年の市場が崩れていく初期段階では、十分に流動性もあり、小さな損失を確定することで、リスク資産を減少させることもできました。ところが、2008年の半ば以降は、ロス・カットを定めていた投資家の場合、ほとんど全員が売却に向かったのでしょうが、市場の流動性が極端に細くなっている状況での売却強行は、損失額を大きくしたものと思われるのです。一方で、年金基金などの、いわゆる長期投資家は、ロス・カットを行わなかったと思われるので、大幅な価格下落の影響を、そっくりそのままに受けたはずです。
 結果をみれば、まさに結果論をいえば、ロス・カット・ルールは、危機対策として有効であったようです。しかも、損失額の上限を低く設定する保守的なルールほど有効であったと考えられるのです。こういえば、すぐに反論がでるはずです。いわく、所詮は結果論であると。長い目でみれば、資本市場における価格変動は一定の幅に収斂していくはずなので、下がったものは上がると想定するほうが理にかなうわけです。だとすると、現時点で評価すれば確かにロス・カットが有効だったかもしれないのですが、それは、あくまでも、現時点で評価すれば、ということなのであって、しばらくして市場が回復した時点で評価するならば、ロス・カットをしなかったほうが有利であったということになるのではないか、ということです。実際、ロス・カットというのは、安く売る、ということを意味しているのですから、市場の回復を前提にする限り、賢明な方法でないことも明らかなのです。
 実のところ、ロス・カットというのは、資産運用の理論派からは、評判の悪いものです。特に、保守的に小さな損失でもロス・カットしていくようなルールだと、結局は、小さく確定していく損失が累積していって、そのことが、収益性を大きく損なう可能性が高いからです。しかも、一般に、ロス・カット後に買戻すタイミングについても、売却価格よりも低く買うという理想的行動は難しくて、逆に高く買戻すという残念なことになりやすいのは、多くの方の体験に基づく実感でありましょう。安く売って高く買うようなことになりやすいのは、人間の心理的行動の弱さです。長期的視点に立った投資の理論は、確かに、こうした弱点を克服するのに有効です。

しかし、よく考えてみると、ロス・カットにも、それなりの理屈があるように思われます。

論点は二つあるようです。一つは、ロス・カット・ルール自体が、やはり人間の弱さの克服手法だということ。もう一つは、理論が想定している「長期的には」ということの現実的意味合いです。この二つ、要は、裏表の一つです。
 そもそも、「いずれ戻る」というのは、一体、どのような時間軸を想定したことなのでしょうか。短期的に、(短期といっても、例えば一会計年度中に)戻らない場合は、どうなるのでしょうか。ましてや、その期間中さらに下げ続けたら、どうなってしまうのでしょうか。いかに長期といっても、決算による強制的な損失処理は、社会的には無視し得ません。今回の危機の場合、まさに事実として、金融機関から年金基金にいたるまで、極めて深刻な決算内容をもたらしました。
 金融機関、特に預金取扱い金融機関の場合は、資本の充実は社会的義務です。その見地から、金融機関では、かなり保守的なロス・カット・ルールが導入され、かつ厳格に実施されてもいるのです。いずれ戻る、というような見込み判断も人間の弱さです。この弱さで損失を拡大させ、資本を毀損させることを絶対に回避しようというのが、ロス・カットの思想なのです。資産運用の効率性よりも優越する価値、資本の保全という価値を絶対的に守るための制度が、ロス・カットなのです。年金基金といえども、一定範囲を超えて積立不足になることを社会的に許容されていない以上、そして年度決算による損失処理が行われる以上、程度の差こそあれ、なんらかのロス・カット的な思想が必要にも思われます。
 論点は、長期ということを複数年度(恐らくは、3年から5年)にわたる期間として前提にしなければ成り立たないような理論が、単年度決算に基づく社会の仕組みと、どのように折り合えるのかということに帰着します。二つしか方法はないですね。一つは、複数年度にわたる損失処理を可能にする制度(年金基金の積立方式には導入されていますね)を工夫することです。ただし、これは、どう上手に表現するにしても、実態としては損失の先送りです。もう一つは、単年度中におけるロス・カット的なルールの高度化と、その実施方法の洗練化を工夫することです。後のほうは、まだまだ、相当に工夫の余地がありそうです。

6月11日更新の次回コラムでは、「損切り」の反対の「ナンピン」を考察してみようと思います。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。