原子力損害の危険という損害

原子力損害の危険という損害

森本紀行
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原子力損害とは何か。自明のようでいて、少しも自明ではないようです。少なくとも、放射線の作用による直接的損害だけを指すのでないことだけは、明らかですが。では、どこまでが原子力損害なのか。これが今回の主題ですね。
 
 「原子力損害の賠償に関する法律」の第二条第二項は、原子力損害を定義して、「核燃料物質の原子核分裂の過程の作用又は核燃料物質等の放射線の作用若しくは毒性的作用(これらを摂取し、又は吸入することにより人体に中毒及びその続発症を及ぼすものをいう。)により生じた損害をいう」としています。字義通りに解釈すれば、放射線の作用による直接被害と、それに関連した狭い範囲の損害に限定されるかのようです。
 しかし、今回の事故については、政府による実際の法律解釈では、はるかに広く原子力損害をとらえています。要言すれば、現実の原子力損害とは、原子力損害の危険を回避する措置から生じる損害の全体のことだといっていいでしょう。例えば、避難、避難から生じる就労不能、農作物等の出荷不能、風評被害など、広範な損害が原子力損害とされているのです。
 

それは、そうでしょうね。放射線の作用による直接被害など、絶対にあるまじきものです。そのような悲惨な損害の発生する危険に対しては、徹底した事前の回避行動が予定されている。ですから、実際に問題とされるべき原子力損害とは、危険の回避行動がもたらす損害のことになる、ということですね。

 そのような法律解釈は、判例として確定しているわけでもなく、また、標準的な学説として確立しているのでもありません。そもそも、この法律が本格的に発動すること自体、今回が初めてです。しかし、今回の事故の場合、原子力損害の基本的な解釈については、政府の内外を問わず、当初から共通の認識ができていたと思われます。あれだけ大規模な避難措置がとられ、それが避難住民に対して不当な損害を与えていることは、あまりにも明らかであり、全く疑問を差し挟む余地がなかったからだと思われます。
 そうはいっても、法律解釈ですから、字義に沿った論理がなければなりません。おそらくは、その論理とは、次のようなことではないでしょうか。
 東京電力福島第一原子力発電所の事故により、その周辺地区に放射線による汚染が生じたこと、これが本源的な原子力損害なのでしょう。つまり、第一次的な原子力損害とは、汚染だと思われるのです。
 ところが、第二次的な原子力損害は、その汚染から直接的に起因する損害へと、直線的に因果の系列を辿っているのではありません。そうではなくて、汚染がもたらす人体に対する深刻な健康被害の危険が評価され、その危険評価に応じた種々の程度の危険を回避するために、広範囲に及ぶ避難等の危険回避措置がとられることで、第二次的な原子力損害が導かれているのだと思われるのです。
 

それが、本稿の表題にあるとおり、原子力損害の危険という損害、ということですね。
 
 危険という概念を介することが、原子力損害の特色でしょうね。しかも、難しいのは、通常の危険のようには、危険と結果との関係が経験的に知られていないことです。どの放射性物質による、どのような条件下での、どの程度の被曝量が、どのような健康被害をもたらすのか、ということについては、経験的知識の蓄積が十分ではないのです。つまり、幸いなことに原子力事故そのものが少なく、しかも、更に幸いなことに健康被害の発生が防止されてきているのですから、本当に幸いなことなのですが、経験値の蓄積はなされていません。
 この経験値の蓄積がないことは、危険評価において、保守主義的傾向を強くさせる、というよりも、保守的すぎるくらい保守的であるべきだ、ということを帰結させます。当然といえば当然のことですが、健康被害の発生を完全に阻止するためには、危険評価を著しく厳格にして、「万が一、万万が一」という水準の危険すら回避されるべきと考えられるからです。
 ここに、極めて困難な現実の問題が生じます。第一は、いかに厳格に危険が評価されるべきとはいえ、原子力損害の範囲を客観的に画す必要があるということです。原子力損害は、原子力損害として認定されれば、法律上、無条件で賠償されるという無限責任になっているのですから、この範囲を画すというのは、極めて重要なことです。
 第二は、危険評価を科学的かつ客観的に行うことは不可能であろう、ということです。感情的あるいは心理的な要素を無視し得ないからです。実際、事故後、食品に関する放射線量の基準が厳格化されました。科学的には、おかしなことですが、政治的には、国民感情を無視し得ないのですから、止むを得ない措置のようにも思えます。
 おそらくは、広く風評被害を原子力損害に含めているのは、同様の背景でしょう。事実として、消費者の購買や観光活動に影響がでているとすれば、そこには、いかに非科学的なものであっても、心理的に危険への過剰回避反応が働いているわけですから、一種の危険評価の延長として位置付けることが可能だからです。
 第三は、汚染という第一原因からの損害拡大の因果関係の連鎖が、経験的に知られた直接的な連鎖としては、明瞭に認識され得ないので、さて、どこまでが因果の連鎖の系列にある相当範囲の損害であるとするかは、非常に難しい判断であろうということです。
 例えば、避難から直接に生じる損害に加えて、もしも避難していなかったならば得られたであろう利益の逸失、避難していることから生じる派生的損害など、範囲の確定の難しい問題は多数生じますよね。また、避難地域の外ではあるが近所に観光施設があったとして、その来場者数の激減は、明らかに原子力事故に起因するとしても、その減少数の全てが原子力損害かどうかは、判断し難い。
 

結局は、政府が指針を決めるしかない、ということですね。つまり、原子力損害とは政府が政治的に定めた範囲内の損害、ということに帰着しますね。
 
 文部科学省におかれた原子力損害賠償紛争審査会が「原子力損害の範囲の判定等に関する指針について」を策定していますが、この指針が、現実的には、原子力損害の範囲を決めることになります。そのうえで、被害者と東京電力との間に原子力損害の範囲を巡る紛争が生じれば、やはり文部科学省の原子力損害賠償紛争解決センターで和解の仲介が行われるのですが、そこにも、一定の基準がすでに定められています。要は、損害の範囲は基本的に政府によって決められる、ということです。
 政府は東京電力に賠償の第一義的責任があるとし、東京電力が形式的には賠償を行っているわけですが、実際の仕組みでは、政府責任で定めた賠償額が、単に東京電力を窓口にして支払われているだけです。政府責任で定めた賠償額というのは、損害の多くが、政府の定めた避難指示や食品の安全基準など、政府による危険評価によって生じているのであり、その損害の判定の指針を定めているのも政府である、という意味です。
 

結局のところ、原子力損害というのは、東京電力福島第一原子力発電所の事故による周辺地域の汚染を原点としていますが、実際の損害は政府の汚染対策から生じている損害、ということですね。

 実は、原子力損害を、「原子力損害の賠償に関する法律」によって東京電力が賠償責任を負っている範囲、と定義するならば、政府の汚染対策から生じている損害の全てが原子力損害であるわけではありません。政府が、政治判断として、政府の費用負担によって行っている汚染対策が少なからずあるからです。ここでも、政治判断が、原子力損害の範囲を大きく左右しているのです。
 つまり、原子力損害賠償というのは、原子力事故を起因とする放射線汚染に関して、政府が自己の責任において行った諸対策のうち、政府が政府負担によって行ったもの以外から生じる損害について、政府が相当関係にあると判断した損害についての賠償、ということだと考えられます。要は、完全に行政裁量によって完結したものです。
 

原子力損害賠償が完全な行政裁量によって行われているにもかかわらず、形式的には東京電力によってなされているのは、どうしてでしょうか。

 法律上は、「原子力損害の賠償に関する法律」の適用により、東京電力に賠償責任があるとされているからです。しかし、法律適用の前提として、本源的には、東京電力福島第一原子力発電所の事故が原子力損害のもととなる放射線汚染の原因だからです。
 

形式はともかく、実質的には、原子力損害賠償は政府責任ですよね。
 
 東京電力は、二つの責任を負っています。第一は、損害賠償費用の負担です。第二は、賠償の支払い窓口になることです。逆にいえば、この二つだけです。また、賠償費用については、現状は、政府による建て替え払いが行われていますので、東京電力の経済的責任とは、政府に対する資金支援額の弁済義務の形になっています。
 

そのようなことなら、最初から、政府が前面に立って原子力損害補償を行い、事故原因者としての東京電力に対しては、責任相当分の求償を行えばよかったのではないでしょうか。実質的に、現状はそれに近い形なのですから。
 
 それが、「原子力損害の賠償に関する法律」の立法時に検討された方法でもあり、また、私の一貫した主張でもあります。しかし、政府は、どうしても、前面に東京電力を立てておきたかったのです。そのほうが、色々な面で便利だったからです。
 便利というのは、現実の「原子力損害の賠償に関する法律」の構造上、東京電力の賠償責任と政府の賠償支援責任という構図にするのが簡単であり、政府にとっては賠償窓口を東京電力にするほう簡単だ、などという実務上の問題です。
 しかし、原子力損害が極めて特殊な構造をもち、その範囲が全面的に政府判断によって画されることからすると、実質的な賠償責任も全面的に政府責任になることは明瞭です。東京電力の責任という意味は、要は、賠償費用の負担と賠償事務にかかわる形式的な責任に収斂します。
 やはり、本来の原子力損害補償は、政府責任のもとで第一義的になされたうえで、事故原因者としての東京電力の責任については、公正公平な評価のもと、政府が東京電力に対して応分の負担を求償する仕組みにするべきだったのではないでしょうか。いま改めて、原子力損害の特殊性と、その範囲確定における政府の圧倒的な関与を考えたとき、一段と、その感を深くした次第です。
以上

 来週はお盆ですね。私も夏休みとさせていただきます。次回更新は8月23日(木)になります。

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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。