政府と東京電力の「責任感の欠如」と断じた国会事故調報告書の独断

政府と東京電力の「責任感の欠如」と断じた国会事故調報告書の独断

森本紀行
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国会におかれた「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」(「国会事故調」)は、7月5日に報告書を公表しました。そのなかで、「この事故が「人災」であることは明らかで、歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による、人々の命と社会を守るという責任感の欠如があった」と断定しました。今回は、この断定口調に満ちた報告書の内容を検討してみようということですね。
 
 この報告書は、どうして、こうも断定口調なのでしょうね。非常に気になります。「人々の命と社会を守るという責任感の欠如があった」などと断罪されてしまった「歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力」としては、ご指摘の通りでございますとは、なかなか認め難いでしょうね。
 この引用は、報告書の冒頭に置かれた「はじめに」という短い章からのものですが、おそらくは、この「はじめに」が、要約の要約という趣旨なのだと思われます。その短い「はじめに」のなかには、さらに、「日本の原発は、いわば無防備のまま、3.11 の日を迎えることとなった」という恐るべき断定的所見があり、事故を明瞭に「想定できたはずの事故」としたうえで、その原因として、これまた断定的に「規制の虜」を特定しています。
 その「規制の虜」というのは、「規制当局が事業者の「虜(とりこ)」となって被規制産業である事業者の利益最大化に傾注する」こととされ、具体的に、以下のように説明されています。少し長いですが、この報告書の特徴的な口吻を知っていただくために、引用します。
 「そこには、ほぼ50 年にわたる一党支配と、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といった官と財の際立った組織構造と、それを当然と考える日本人の「思いこみ(マインドセット)」があった。経済成長に伴い、「自信」は次第に「おごり、慢心」に変わり始めた。入社や入省年次で上り詰める「単線路線のエリート」たちにとって、前例を踏襲すること、組織の利益を守ることは、重要な使命となった。この使命は、国民の命を守ることよりも優先され、世界の安全に対する動向を知りながらも、それらに目を向けず安全対策は先送りされた」
 過去50年もの間、原子力発電事業の発展に貢献し、日本の高度経済成長を支えてきた多くの東京電力の関係者について、十把一絡げにして、「おごり、慢心」をあげつらい、「前例を踏襲すること、組織の利益を守ることは、重要な使命となった。この使命は、国民の命を守ることよりも優先され」などと決めつけることは、さすがに、常軌を逸した誹謗中傷というべきで、客観的な所見としては筆が滑りすぎているというか、大衆迎合的な人気取りというか、正義漢振った格好つけが嫌味というか、とにかく、そのままには受け入れ難い。
 この報告書の結論は、事故の原因は、東京電力という組織の内部統治に関する構造欠陥と、その東京電力に逆に従属することで実体的な機能を果たしてこなかった規制当局のあり方にある、ということに帰着します。要は、組織のあり方が事故の原因だから、事故は「人災」であるという主張なのです。確かに、そういう面は否定できないでしょうが、組織の欠陥については、必ずしも、説得力のある論証がなされているようでもありません。
 

東京電力や規制当局に対する断定口調による否定的な決めつけが多くみられる一方で、事故の原因とされる組織の問題の丁寧な論証はなされていない印象ですね。
 
 報告書は、一応は、「事故原因を個々人の資質、能力の問題に帰結させるのではなく、規制される側とする側の「逆転関係」を形成した真因である「組織的、制度的問題」がこのような「人災」を引き起こしたと考える」として、個々の人間の問題ではなくて、人間の集合としての組織の問題を取り上げようとしているのですが、その組織の構造欠陥についての論証は不十分です。一方で、個人の誤りや資質や能力を問題に帰着させないとしながらも、実際の批判は、組織であるよりも、個人に向けられているようです。
 例えば、「関係者に共通していたのは、およそ原子力を扱う者に許されない無知と慢心であり、世界の潮流を無視し、国民の安全を最優先とせず、組織の利益を最優先とする組織依存のマインドセット(思いこみ、常識)であった」とか、「規制当局の、推進官庁、事業者からの独立性は形骸化しており、その能力においても専門性においても、また安全への徹底的なこだわりという点においても、国民の安全を守るには程遠いレベルだった」などというのは、組織ではなく、組織の構成要素としての個人への批判ではないでしょうか。しかも、「無知」、「慢心」、「国民の安全を守るには程遠いレベル」などという表現は、いかがなものでしょうか。
 組織の欠陥を論証しようとして、実際には、組織を構成する人間の振舞い方の欠陥を列挙しても、そのような振舞い方の個人を作り出してしまう組織の仕組みの解明にならないはずです。循環論法ですよね。おかしな個人が、おかしな組織を作り、おかしな組織が、おかしな個人を育てる。それはそうでしょうが、原初におけるおかしな個人は、どうして生まれ、どうして増殖し、どうして組織を構成し支配していくようになったのでしょうか。
 報告書は、実は、組織の次元ではなくて、個人の次元において、「国民の安全を最優先とせず、組織の利益を最優先とする組織依存」という病理を見出しているのです。しかも、組織としての専門的知見の形成についても、個人の次元における能力を問題にしているのです。それでは、組織の病理や欠陥の分析にはならないですね。
 そうではなくて、組織の欠陥を問題にするならば、個々人の次元における知見や能力が十分に高くても、組織的な意思決定や行動の次元では十分に活かされてこなかったという事実と、そのような組織としての機能不全の原因とについて、論証を深めるべきだったと思われるのです。
 報告書は、海外の原子力発電の安全基準の動向や、災害対策の必要性や、地震等に関する科学的知見の進歩と原子力発電所への影響等について、東京電力等の個々人の次元では、よく承知されていたことを認めています。到底、個々人の次元では、「無知」ではなかったのです。しかし、それらの知見は、組織としては、活かされなかった。そこに組織の欠陥があったのですが、報告書は、その組織の欠陥の分析には踏み込まず、安直に、無知でもない個人の「無知」を批判するのみです。
 

事故直後の対応における東京電力と官邸との間の意思疎通の悪さについて、当時の清水社長を批判するくだりは、まさに個人批判ですね。
 
 この箇所は、報告書の特色がよくでていて、読み物としては、おもしろいです。特に、「東電に染みついた特異な経営体質(エネルギー政策や原子力規制に強い影響力を行使しながらも、自らは矢面に立たず、役所に責任を転嫁する黒幕のような経営体質)が事故対応をゆがめた点を指摘できる」というのは、実証的な調査報告書の記述としては、あまりにも週刊誌的な決めつけで、相応しくないですね。黒幕ですか、さて黒幕とは。
 しかも、この黒幕記述を受けて、「官邸に誤解が生じた根本原因は、民間企業の経営者でありながら、自律性と責任感に乏しい上記のような特異な経営を続けてきた清水社長が、極めて重大な局面ですら、官邸の意向を探るかのような曖昧な連絡に終始した点に求められる」とくるのですから、組織の欠陥の論証というよりも、個人の資質への攻撃になってしまっています。
 

ところで、「エネルギー政策や原子力規制に強い影響力を行使しながらも、自らは矢面に立たず、役所に責任を転嫁する黒幕のような経営体質」は、どうして生じたのでしょうか。
 
 さあ、報告書の範囲からは、読み取れないのではないですか。とにかく、この黒幕経営という表現が象徴するように、報告書は、東京電力の尋常ならざる強大無比な力、情報力と政治力を高く評価しているようです。報告書の立論は、東京電力が、国策として原子力発電を推進してきた担当官庁と規制当局を事実上支配し、自己に都合がいいように規制の運用がなされるよう裏工作をしてきたこと、その東京電力の黒幕としての強力な力が事故の原因である、というものなのです。
 では、そのような絶大な黒幕としての権勢は、何に由来していたのか。これが、報告書の中核を構成する部分ですので、長いですが、引用しておきましょう。
 「本来原子力安全規制の対象となるべきであった東電は、市場原理が働かない中で、情報の優位性を武器に電事連等を通じて歴代の規制当局に規制の先送りあるいは基準の軟化等に向け強く圧力をかけてきた。この圧力の源泉は、電気事業の監督官庁でもある原子力政策推進の経産省との密接な関係であり、経産省の一部である保安院との関係はその大きな枠組みの中で位置付けられていた。規制当局は、事業者への情報の偏在、自身の組織優先の姿勢等から、事業者の主張する「既設炉の稼働の維持」「訴訟対応で求められる無謬性」を後押しすることになった。このように歴代の規制当局と東電との関係においては、規制する立場とされる立場の「逆転関係」が起き、規制当局は電気事業者の「虜(とりこ)」となっていた。その結果、原子力安全についての監視・監督機能が崩壊していたと見ることができる」
 要は、東京電力の力の源泉は行政や規制当局との密接な人的関係(というよりも癒着でしょうね)にあった、という見立てなのです。規制されていたはずの東京電力が、実は、規制当局を事実上支配していた、あるいは規制当局を「虜」にしていた、この「逆転関係」が事故の原因である、という結論です。
 

では、東京電力と行政や規制当局との癒着は、どうして生まれたのでしょうか。
 
 報告書の指摘の範囲内では、行政や規制当局は、東京電力の情報力の優位のもとで、東京電力のいうことを鵜呑みにしてきたからだ、ということになるようです。
 しかし、より本源的には、国策として原子力発電を推進してきた政府が、官業としてではなくて、東京電力をはじめとする民間の電気事業者の事業として、原子力発電を行わせてきたことに、「逆転関係」の原因があることは明白です。これは、報告書の当然の前提だと思われます。
 つまり、国策としての原子力発電であるにもかかわらず、政府は、その事業を東京電力等の民間企業に全面的に委託したために、原子力に関する専門的知見を蓄積することができず、情報の偏在を招いたのです。それは、規制当局についても同じで、情報と専門的知見に不足していた規制当局は、東京電力を監督できていなかった、ということです。ですから、癒着ではなくて、東京電力の力が優越する「逆転関係」だ、と報告書はいうのです。
 

政府は最初から責任を放棄し、東京電力は政府責任まで代行して原子力発電を行ってきた、そのような不健全な構図に事故原因があるということですから、究極の事故責任は政府にあるのではないでしょうか。
 
 私は、政府責任のほうが圧倒的に重いのだと思います。ところが、報告書は、口吻からする限り、政府と東京電力に同等の責任を認めているか、あるいは、東京電力により大きな責任を認めているようです。報告書の論理では、原子力安全規制というのは、事実上、東京電力による自己規制だった、ということになります。ところが、その自己規制のあり方に、決定的な問題があったというのです。また、報告書を引用しましょう。
 「東電のガバナンスは、自律性と責任感が希薄で、官僚的であったが、その一方で、原子力技術に関する情報の格差を武器に、電事連等を介して規制を骨抜きにする試みを続けてきた。その背景には、東電のリスクマネジメントのゆがみを指摘することができる」
 「学会等で津波に関する新しい知見が出された場合、本来ならば、リスクの発生可能性が高まったものと理解されるはずであるが、東電の場合は、リスクの発生可能性ではなく、リスクの経営に対する影響度が大きくなったものと理解されてきた。このことは、シビアアクシデントによって周辺住民の健康等に影響を与えること自体をリスクとして捉えるのではなく、対策を講じたり、既設炉を停止したり、訴訟上不利になったりすることをリスクとして捉えていたことを意味する」
 「原子力部門の経営が厳しくなる中で、近年「コストカット」及び「原発利用率の向上」が重要な経営課題として認識されていた。そのため、原子力・立地本部や発電所の現場に対しては、「安全確保が最優先」と社内に号令をかけているものの、その一方で、実態としては安全確保と経営課題との間で衝突が生じ、安全を最優先とする姿勢に問題が生じていたものと考えられる」
 つまり、原子力発電の経済性についての配慮が東京電力の経営姿勢を歪めてきており、結局、その経済性優位の経営姿勢が事故の最終的な原因なのだ、と報告書はいっているのです。
 

しかし、民間の事業として原子力発電を行っているのですから、その経済性についての経営判断が重要なのは、当然ではないでしょうか。
 
 敢えて、誤解を恐れずに、私の持論をはっきりと述べておきます。経済採算を無視した原子力発電はあり得ないのです。経済採算を超えたところに安全基準を設定することは、全くもって国民の選択の問題であり、政治的決定です。ただし、その決定には、代償があります。原子力発電を続けるにしろ、やめるにしろ、電気料金が上昇し、しかも、電気安定供給が少なくとも一時的には危機に瀕します。その代償も含めた国民の選択としてなら、それはそれでいいのです。
 しかし、それは、将来へ向けての決定です。過去には遡及しない。少なくともこれまでは、一定の経済性のもとで原子力発電を続けることが前提だったのです。国民の自覚がどうであれ、過去における国民の選択として、経済性との均衡のなかで原子力発電は行われてきたのです。東京電力と政府に騙された、と人はいうかもしれない。しかし、それは、国民の自覚の問題です。
 報告書は、東京電力の経営では、経済性と安全性との間の価値判断の均衡において、経済性への偏重があったとし、そこに事故の究極の原因をみています。報告書の口吻では、東京電力が安全対策を意図的に怠ってきた、とすら結論つけたいようです。例えば、次のような記述です。
 「今回の事故の原因は、何度も地震・津波のリスクに警鐘が鳴らされ、対応する機会があったにもかかわらず、東電が対策をおろそかにしてきた点にある。東電は、実際に発生した事象については対策を検討するものの、そのほかの事象については、たとえ警鐘が鳴らされたとしても、発生可能性の科学的根拠を口実として対策を先送りしてきた」
 しかし、高さ30メートルの津波でも、その「発生可能性」を完全にゼロとするわけにはいきません。全くもっていうまでもないことですが、東京電力の経営でなくとも、科学的な立論として、危険については「発生可能性の科学的根拠」が重要なはずです。それを「口実として対策を先送り」という表現は、そのままでは受け入れ難い。
 「東電のリスクマネジメントの考え方には根本的な欠陥があった」とする断定は、問題ではないでしょうか。「東電のリスクマネジメントの考え方」自体は、民間企業として当然だと思われます。それを「根本的な欠陥」とされたのでは、民間事業としての原子力発電は成り立たない。
 もちろん、経済性と安全性との間の判断に際して、東京電力に経済性への偏りがあったかもしれません。しかし、そのような偏りが、「発生可能性の科学的根拠」との関連において、事故の原因となったかどうかは、容易には論証し難い。そこを、報告書は、科学的な論証を一切行うことなく、思い切って断定しているのです。しかし、そのような断定は、一つの明確な政治主張であって、客観的な判断とはいえないでしょう。
 いずれにしても、報告書が理想として掲げるような経済性を無視した絶対的な安全性の追求は、電気料金の大幅な値上げか、原子力発電の放棄による電気安定供給体制の弱体化か、その両方かを、もたらしたと思われます。そのような結果をおそれて、政府と東京電力が本質的な議論を先送ったことが事故の原因だ、というのならば、確かにそうでしょう。
 ならば、事故の真の原因は、原子力発電の安全基準と電気料金と電気安定供給という三つの均衡について、国民に再選択を求めるような活発な議論、今まさに原子力発電所再稼働で問題となっているこの状況の現出を、今日まで先送ってきたことに求められるべきです。
 では、その議論の先送りに関して、誰が責任を負うべきでしょうか。議論のきっかけを作ることを恐れて、情報開示に消極的だった関係者に責任があるのでしょうか。関係者とは、政府でしょうか、規制当局でしょうか、東京電力でしょうか。これは国会事故調の報告書ですが、国会の先生方には、何ら責任がなかったのでしょうか。その先生方を選んだ国民の責任はどうでしょうか。
以上

 次回更新は7月19日(木)になります。

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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。