原子力発電で上手に政治をする橋下大阪市長

原子力発電で上手に政治をする橋下大阪市長

森本紀行
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原子力発電所の再稼働や将来的な存否の問題について、枝野経済産業大臣は、根本的な原子力政策を曖昧にしたままで、目先の再稼働を急いでいます。一方で、橋下大阪市長は、根本的な原子力政策そのものの見直しを掲げたうえで、国民の選択という視点を強調しているようですね。
 
 枝野大臣は、関西電力の発電能力不足が明瞭なので、電気が不足しては困るだろうということで、大きな政治よりも小さな行政をしているのでしょう。一方、橋下市長は、原子力発電についての国民意識が大きく変化するなかで、目先の行政問題としてよりも本質的な政治問題として、改めて国民の選択を求めるべきだ、という立場なのだと思われます。
 しかし、どちらも、原子力発電を縮小させ、再生可能エネルギーを中心とした電源構成への転換が必要だとする点では、大きな差がないようです。国民意識についても、この点に関しては、原子力発電支持派といえども積極的拡大論は少ないでしょうし、再生可能エネルギーの拡大にも反対論は少ないといえそうです。ある意味、国民の選択の方向は、概ね決まっているのです。枝野大臣と橋下市長の差は、政治的主張の差というよりも、政治手法の差なのではないですか。あるいは、攻める立場と守る立場の差かもしれません。
 

橋下市長は、生命の安全という絶対的価値を打ち出している分、目先の経済的必要を優先しているようにみえる枝野大臣よりも、政治的に有利な位置にあるようですね。
 
 生命の安全と経済とは、比較不能な関係にあります。ちょうど命に値段をつけることができないように、経済の必要性の問題から原子力発電所の再稼働を決めることはできないといわれれば、至極当然のように思えます。橋下市長の枝野大臣に対する批判は、反論の余地がないかの如くです。
 

命に値段をつけることができないとは、お得意の哲学の問題ですね。
 
 実は、原子力発電所の安全性の問題について、経済の問題を完全に度外視できるか、あるいは度外視すべきか、というのは、最高度に哲学的なことです。おそらくは、解き得ない問題であり、答え得ない問いです。私は、大学で哲学を勉強した(少なくとも学歴上、勉強したことになっている)のですが、生命の値段にかかわる問題は、そのころからの関心事なのです。
 哲学的な脱線をしますと、合法的な殺人、つまり、死刑、安楽死、正義の戦争などですが、これも、人命の絶対性からは、あり得ないことですが、現実には、あり得ていることです。哲学というのは、こういうことを考える学問ですから、必ずしも無用のものではないと思うのですが、その割には、本格的に学ぶ人の少ない学問です。なぜかな。
 ひとつの例をだしましょう。大規模な土木工事の場合、人命にかかわる事故は、どれだけ安全に配慮しても、完全に無くすことはできない。事故によって大怪我をされる方や、場合によっては、亡くなられる方もでてしまうことは、客観的な事実として、どうしても完全には防ぎ得ていない。さて、そのような場合には、必ず補償の問題になりますが、その費用を工事原価として見積もることは許されるか。もしも見積もるならば、まさに、命の値段をつけることになるので、さすがに、それはできないでしょう。しかし、秘かに、そのような補償費用を頭のどこかで見積もってしまうことも、悪魔の囁きではありますが、ないとはいえないのではないか。
 加えて、安全性の高い工法は、多くの場合、工期が長くなったり、高価な設備を投入しなければならなかったりで、原価が高くなりやすいのではないでしょうか。その場合、原価の上昇分と補償費用との間で、経済的な比較計算をしてもいいのでしょうか。それとも、安全性を改善する投資は、絶対的な価値として、費用対効果を考えずに無条件に実施されるべきでしょうか。
 この場合、補償費用を事前に保険で手当てしておくことは、普通に行われていることです。保険というものは一般化しているので、その意味を本質的に再考することは稀ですが、ある種の場合のある種の保険は、命に値段をつけるという側面をもつようです。保険の哲学ですか。
 さらにいえば、土木工事の安全基準は、当然に、規制されていると思いますので、より高い安全性を追求し続けることが倫理的には当然である一方で、現実的には、規制のなかの最善というあたりに留まるのが一般的なあり方となるのではないでしょうか。実際、もしも政府基準が引き上げられ、そのことが費用の増加につながっても、それを価格に転嫁することは容易でしょうが、独自に高い基準を設けて、それが高価格につながったとしたら、競争社会のなかでは、工事の受注が難しくなってしまうのではないでしょうか。
 

同じ理屈が、原子力発電所の安全性にも当てはまるはずだ、ということですね。
 
 そのようにあからさまにいえば、土木工事の例をだしたことの意味がなくなります。でも、あからさまにいって、原子力発電所といえども、事故の可能性を想定したうえで、建設され操業されているはずですし、完全に経済計算を無視したところで事故対策が講じられているはずもありません。原子力発電も、電気事業という民間の事業なのです。
 このように述べることは、もしかすると、大変な誤解、というよりも、とんでもない反発を招くのだろうと思うのですが、しかし、それでも、感情を排して合理的な(つまり合意可能性のある)議論を展開するためには、原子力発電が、事実として民間の事業であり、そうである以上、事業の危険性を承知したうえで、その危険を制御できるという前提のもとで、経済の問題として操業されているということ、その現実を正面から直視することは不可欠であると思うのです。
 第一に、そもそも、「原子力損害の賠償に関する法律」というものがあること自体が原子力事故の可能性を前提にしている、という自明のことを自明のものとして理解する必要があるでしょう。安全基準の強化によって、事故の可能性を無限に小さくできるかのようにいうことは、危険が零になり得るかのような誤解を与え、それこそ安全神話を振り撒くことにもなりかねません。どこまで安全基準を強化しても、事故の可能性はなくならない。零と無限小との間には、断絶があるのです。すいません、一段と哲学的で。
 第二に、安全基準を大幅に引き上げれば、原子力発電の費用が上昇するのは間違いないでしょう。その費用は、電気の原価を構成します。つまり、命の値段といういいかたをすれば何か怪しからん感じがしますが、電気の値段といえば当然のことであって、それこそ、「異常に巨大な天災地変」においてすら安全性を確保できるという基準で原子力発電を行うことは、経済的に意味をなさないはずなのです。
 第三に、原子力事故の賠償原資については、法律で保険制度が定められ、その保険で填補されることになっていたにもかかわらず、今回の東京電力の事故で明らかになったように、その上限が1200億円という低い水準におかれていたので、意味になるものになりませんでした。一方で、この保険の上限を、例えば5兆円にしたら、保険料(当然に電気の原価になる)が高くなりすぎて、やはり経済的に意味をなさなくなるでしょう。
 第四に、安全基準は、政府の規制に準拠して、原子力事業者が独自に定めるものであり、政府基準は、いわば最低限ですが、現実の経済社会では、その最低限が基準そのものになるのは、当然すぎるほどに明らかでしょう。つまり、安全基準は、原子力事業者の責任とはいえ、現実には政府責任にほかならないということです。
 最後に以上から、原子力発電所の安全基準は、まさに政府の責任の問題であり、それを大幅に強化することは、おそらくは、経済的な意味で事実上の原子力発電の放棄に帰結する可能性が高いということであり、しかも、事故の可能性を完全になくすことができない以上、原子力の利用に危惧を抱く国民感情が優勢となれば、経済の側面を超越した政治の問題として、原子力事業そのものを放棄するしかなくなる、ということです。つまり、一つの原子力発電所の再稼働の可否という次元の話ではなくて、原子力政策の転換というよりも、電源構成の抜本的変更を伴う新しい電気事業政策の推進として、政治責任において国民の選択を求めたうえで反対する小数を説服する覚悟でのみ推進可能な政策として、論じ得る話だということです。
 

橋下市長は、原子力発電の放棄を視野に入れた政策提言を国民に対して行う、という姿勢のようですね。まさに、政治の問題として、とらえているのではないでしょうか。
 
 そのようです。しかし、政治家としての発言と行動であれば、政治責任をとらないといけないですね。原子力発電の放棄を政策にするということは、そこから帰結する全てのことに政治責任を負う覚悟がある、ということですよね。そうすると、少なくとも、三つの重大な帰結に関し、責任を負うことになるのだと思われます。
 第一に、より高い基準でなければ再稼働を認めないということは、仮に再稼働できるにしても、施設改修や検証に要する時間が長くなるでしょう。また、原子力発電をやめるとした場合には、代替電源の開発に長い時間を要します。どちらにしても、電力不足という事態を招く可能性が高くなります。一般家庭等については、国民に我慢をお願いするということでいいかもしれませんが、事業用電力の不足は、経済的に深刻な問題を生じさせます。
 第二に、原子力発電所の安全基準を著しく高くして操業すれば、費用も著しく上昇します。また、原子力発電をやめてしまえば、他の電源を開発し維持するのに、大きな費用を要します。どちらにしても、電気料金の大幅な引き上げは不可避です。
 第三に、原子力発電をやめれば、関連施設を廃棄しなければなりません。耐用年数がきて廃炉になるのであれば、減価償却も廃炉費用も原価に含めてあるので、その費用が改めて電気料金に転嫁されることはあり得ません。ところが、早期に廃炉を行えば、未償却部分の一括償却費が発生するだけでなく、廃炉費用の積立ても未了なので、そこにも追加費用が生じて、それらが全て電気料金に反映されざるを得なくなります。
 しかも、その早期廃炉費用を原子力事業者に負担させる(電気料金を通じて国民負担となる)のが適当かどうかは、大きな問題でしょう。政治の決定によって原子力発電施設の価値がなくなってしまったのだから、政府が施設を買い取って政府の費用で廃棄すべきではないのか、という問題が当然に提起されるでしょう。もっとも、その場合は、税金を通じた国民負担になるだけで、国民負担の総額は、同じです。国民負担の総額は一緒でも、国民負担の配分は別問題です。
 さてさて、これらの帰結は、いわば、橋下市長が主張する政策を実施するについて、国民が負担しなければならない費用であり犠牲なわけです。随分と大きな負担と犠牲です。この全てについて橋本市長は政治責任を負う、ということなのでしょうか。そのような政治宣言なのでしょうか。
 

政治責任というよりも、国民の選択責任という考え方ではないでしょうか。
 
 橋下市長は、おそらくは、そのような、日本の政治としては新しいが、よくよく考えれば民主主義政治の基本だったはずの考え方をもっているのでしょう。つまり、国民の選択、現実的には選挙で表明される国民の意思、これが全てを決するということです。まあ、その通りですよね。
 しかし、国民は、何を基準に選択するのでしょうか。原子力発電についての感情的な、あるいは心理的な反対意見は、もしかしますと、優勢なのかもしれません。ですから、今、選択を求めれば、国民は原子力発電放棄を選ぶかもしれない。でも、そのようなことでいいのか。例えば、原子力発電を放棄することの経済的費用(非常に大きなものになるかもしれない)について、詳細な説明を受けた後で選択を求めたら、結果が違ってこないのか。
 

そのような反証は、政治的反対勢力である原子力発電維持派が示すべきだ、という考え方ではないですか。
 
 まさに、そうなのでしょうね。橋下市長は、民主主義の討論形式に忠実なのかもしれませんね。あるいは、弁護士だけに、訴訟における対論形式の応用かもしれません。訴訟で勝つための基本技術は、挙証責任を相手に転嫁することです。この点、橋下市長は、上手かもしれませんよ。
 結局、今の政府の立場、あるいは枝野大臣の立場というのは、橋下市長の主張に対して、自分のほうから、詳細な事実に基づく反論をしなければならなくなっているのです。原子力発電所の安全基準の科学的妥当性、原子力発電所を稼働しなかった場合の電力需要見通し、代替電源に依存するときの電気料金の予測、電力各社の内部的合理化による費用削減の余地など、政府側は、できる限りの事実を公表して、国民を説得しなければならない立場に追い込まれているのです。
 

さすがの枝野大臣も、その辺、あまり上手には対応できていませんね。
 
 同じ弁護士として、枝野大臣のほうが、腕が悪いのかもしれません。要は、信用の問題です。橋下市長側は、政府や電力各社が説明しても、その説明の客観的信憑性を疑問視していく戦術です。国民のなかに、原子力発電をめぐる政府や電力各社の対応について、何となく不信感があるのであれば、どうみても、橋下市長側が有利でしょう。
 

では、政府側に反撃の方法はあるのでしょうか。
 
 挙証責任を転換するしかない。つまり、橋下市長側が政府側の説明を信じないならば、その信じないことについて個別具体的に反証を挙げて反論しろ、と反撃すればいいのです。そうなると、橋下市長側は、総論的なことしかいえておらず、具体的な事実についての調査能力もないでしょうから、とても対応できないはずです。
 

そのときは、橋下市長側は、市民全体の力を結集して、反撃し返すつもりでしょう。
 
 市民ですね。大阪市民というときの市民ではなくて、民主主義社会の構成要素としての市民ですね。その市民のなかには、多くの学者や研究者を含むでしょうから、科学的な反証をだすことができるかもしれません。そのような市民集団の力のもとに結集されるのが、本当の野党、在野の政治勢力のあり方なのでしょうね。
 確かに、橋下市長は、市民社会の政治原理に忠実のようです。政治の原理に忠実な人が新しくみえてしまう日本という国の政治とは、一体、何だったのか。
 
以上


 次回更新は、4月26日(木)になります。

≪ AIJと東京電力関連 ≫

2012/04/12掲載東京電力と総合型厚生年金基金の無念と自責を思う
2012/03/29掲載東京電力とAIJにみる報道の良識と国民の批判精神
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月当時のワイアットに入社し、日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。