原子力発電の安全性を冷静に考え直す視点

原子力発電の安全性を冷静に考え直す視点

森本紀行
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原子力発電の継続については、まさに今、国民としての再選択が始まろうとしています。しかし、原子力発電の継続を主張するにしろ、段階的縮小を主張するにしろ、即時あるいは段階的な廃止を主張するにしろ、冷静な事実認識に基づき感情を排した議論を醸成していかないと、国民としての判断を誤る可能性がある、そのような危機感から、今回は、一言申し述べようという趣旨ですね。
 
 初めに、誤解を受けないように、まずは、私自身の立場を明らかにしておきます。
 原子力発電については、私は、賛成でも反対でもありません。どちらかといえば、職業柄もあると思いますが、経済合理性の尊重と科学技術への信頼という楽天的かつ資本主義的な思考の傾きをもつものですから、日本全体の電源構成における原子力の位置は、段階的縮小へ向かうにしろ、当面は維持されることになるのではないか、と考えております。
 一方、国民的選択として、できるだけ早い時期(即時は、どう考えても物理的不能です)に全面廃炉にする、という決断がなされるなら、全く反対するつもりはありません。しかし、その決断の経済的意味について国民全体に合理性に基づく共通認識が形成されている、という前提においてのみ、反対しないということです。単なる感情的な原子力反対では、問題の解決になりません。
 原子力爆弾の被爆国である日本が、被爆国ならではの特殊な国民感情があるにもかかわらず、原子力の平和利用に踏み切ったのについては、そのときの国民の意思を代表した政府の決定として、重要な歴史的な意味をもっています。そして、その原子力発電が国民生活と産業の発展のために果たしてきた役割は、誰にも否定できないのです。現在の原子力反対論者の方々も、現在にいたるまで自分自身が原子力発電の恩恵を受けてきたという事実自体は、否定できないはずなのです。
 原子力発電の放棄は、その経済的な意味を含めた総合的な影響が詳細に検討されたうえで、かつ原子力発電の歴史的な意味が冷静に再評価されたうえで、国民の選択としてなされるべきです。ここでは、そうした検討のための基本的な論点を整理しておこうと思うのです。
 

まずは、大まかな論点の見通しを示してください。

 
 第一に、東京電力福島第一原子力発電所の事故の後で、事実として生起した結果から逆算して過去を評価する避けがたき傾向の問題性です。今回の事故に限らず、どのような事故でも、結果から逆算すれば、全て完全に防げたことになるのに決まっています。しかし、それは、論理の誤謬です。あくまでも、事故前における知見の範囲で合理的に予見できたかが、論点であるべきです。
 第二に、原子力発電所の立地に関する地質学的知見や、原子力技術そのものに関する科学的知見などについては、当然に進歩がありますが、この進歩を既存の施設へ即時に適用することの、科学的合理性の問題と、経済的また社会学的な困難性です。
 第三に、そもそも、原子力技術について科学的進歩を誘発するためには、経済的誘因がなければならないという問題です。冷静な客観的事実として、商業的な電気事業として原子力技術の応用がなされているからこそ技術開発が行われているのだ、ということは認めざるを得ないのです。安全な廃炉にしても、技術革新は必要です。なによりも、人材が必要です。しかし、経済誘因も将来性もないところで、どうして、人材を確保して高度な技術の導入を図りつつ廃炉を安全に行い得るのでしょうか。
 

前回の論考で国会事故調の報告書について論評しましたけれども、それとの関連で以上の論点を整理すると、どうなるでしょうか。まずは、第一の論点について。

 
 第一の論点ですが、国会事故調報告書は、事故は予見でき防止できたとの見解です。それは一つの主張ですし、どのような主張をなそうが勝手ですから、それは、それでいいのです。問題は、その主張の根拠のなかに、事故後の結果からする後講釈的な要素がないかどうかです。
 いうまでもなく、事故後に、事故前に公表されていた様々な科学的論文、社会的な論評や提言、諸外国の規制動向などを参照すれば、事故が予見されていたとの傍証を発見することは、おそらくは容易であったと思われます。また、事故後の知見に基づけば、事故の原因となった事象について対策が講じられていれば事故が防げた、という結論を導くことができるのは、当然です。
 問題は、客観的な視点に立ったときに、事故前の時点で(つまり、事故後の知見に基づく偏向を排除したうえで)、真に科学的に合理的で、かつ経済性との均衡において、公正に妥当と評価されていた安全基準は何か、ということであり、その安全基準との関連において、政府と東京電力に不十分な点がなかったかどうか、ということです。
 今後、国会事故調報告書の主張も含めて、多方面からの検討を経て、その基準が明らかにされることで、事故の予見可能性の判断がなされてくるのだろうと思われます。現状では、国会事故調の報告書のように、一方的かつ独断的な事故の予見可能性の主張がなされているのみだと考えられます。
 今後の議論の進展において、私が懸念するのは、はたして政府主張なり東京電力の主張なりが、公平に取り上げられるのか、ということです。主張が取り上げられるも何も、そもそもが、主張自体をなし得ない状況にあるのではないか、とすら懸念します。
 なお、私が非常に残念に思うのは、国会事故調報告書が、事故後の事実から過去の原子力発電のあり方を全否定にも近い形で非難し去ったことです。また、関係者に対して、「無知」や「責任感の欠如」などという人格への攻撃すら行うに至っては、さすがに社会的に許容し得ない独断的誹謗中傷だと思われます。
 原子力発電が、国民の選択として行われてきて、日本の発展に貢献してきたこと、そのことの再確認を抜きにした論難が、まさに国民の意思を決定する国会のなかに設置された調査委員会のなかで行われたことは、非常に残念です。国会も原子力政策に責任があるのです。自己の責任を明白にし、他人の貢献を正当に評価したうえで、冷静な議論を展開してほしかった。
 

国会事故調報告書は、第二の論点、すなわち、科学的知見の進歩が、東京電力福島第一原子力発電所だけでなく、日本にある既存の原子力発電所の全体について、施設の改修等に活かされてこなかったことに、事故原因を集約させていますが、この点については、どうでしょうか。
 
 国会事故調報告書は、新しい知見が、東京電力福島第一原子力発電所の改修に適切に活かされなかったことに事故の直接的な原因を認め、なぜ、最新の知見が活かされなかったかについては、東京電力の組織欠陥と東京電力に従属していた政府規制当局のあり方の欠陥を指摘しています。故に、事故は「人災」だというのです。
 では、なぜ規制当局が東京電力に従属していたが故に規制機能を果たせなかったかというと、東京電力側に技術情報が遍在していたからだ、としています。一方、東京電力は、最新の科学的知見や海外の規制動向について十分な認識をもっていたにもかかわらず、意図的に自己に都合がいいように論理を操作して、施設改修等を見送ってきた、としています。そこに、東京電力の体質の欠陥を指摘するのですが、その組織の欠陥の論証は、企業としての経済性優位主義と、役員従業員の次元における「無知」とか「責任感の欠如」とかにすぎず、論理的にも筋の通らないものになっています。
 そうではなくて、本来問題とすべきことは、二つのことなのです、第一は、「安全神話」といわれる社会的説明の構造的な罠です。第二は、原子力発電の経済性の維持の問題です。
 東京電力福島第一原子力発電所は、古い施設です。その施設を作ったときは、当然のこととして、その時点における最高最善の技術の利用によって建設操業されるということが、確約されていたはずです。その確約において、欺瞞があったとは、誰にもいえない。
 問題は、操業開始後、立地に関する地質学的知見の進歩と原子力技術の進歩が行われるなかで、改修の必要性をどう説明するか、という社会学的困難性があったということです。例えば、地震と津波の可能性とその影響についての予測が変わったとして、それをそのままに説明することは、同時に、過去の安全基準に知見不足による瑕疵があったことを認めることにもなりかねないわけで、そのことが、改修等の必要性に対して、どちらかといえば、後ろ向きの対応を取る傾向を生んだのだと思われるのです。
 これが、まさに「安全神話」の構図です。過去に安全といい切ったことが、その後の科学の進歩で、より高い安全性の基準が見いだされたときにも、撤回困難になっていったのです。これは、東京電力の組織に固有の特殊な事情であるよりも、どのようなところにも見出される、一種の社会学的難問であるわけです。私は、政府や東京電力が積極的に「安全神話」を振り撒いたなどとは、到底、信じ得ないのです。むしろ、社会の仕組みとして、政府や東京電力自身が、「安全神話」に陥ったのだと思います。
 東京電力は、例えば学会共通の認識に達していたようなもの、明瞭に事情の変更として社会が認知するようなこと以外には対応せず、学会の一部の意見等には十分な対応ができず、結果的に、新知見の導入に後ろ向きの姿勢をとるようになったのでしょう。これを、東京電力固有の人的組織的歪みと断罪しても、何ら問題の解決にはならない。むしろ、人間社会の共通の問題として、社会学的知見のもとで、原子力安全規制の設計のなかで解決していくべき問題なのです。
 第二は、経済性の問題です。国会事故調報告書は、東京電力が改修等に消極的であった理由として、経済性優位の経営体質をあげています。確かに、科学的知見の進歩に合わせて即時に改修等の対応をとれば、確実に費用増を招くことは明らかだからです。国会事故調報告書の論調では、この費用増の回避は、東京電力自身の利益のためであるように受け取られます。
 実のところ、電気料金は、円高による輸入原料費用の低下により、一貫して値下げされてきました。その過程のなかでは、原子力発電所の安全基準をどんどん引き上げ原価を上昇させることは、十分に可能だったのです。しかし、そうすれば、安い電気という利益を国民は得ることができなかった。東京電力は、自己の利益というよりも、政府の電気政策に忠実に、安い電気を優先させただけなのではないでしょうか。
 政府と東京電力の対応に問題があったとしたら、原子力発電の安全基準の引き上げによる費用増加と安定供給体制維持のための電源構成における原子力発電の意義について、国民の真意を問うような活動を、定期的に機会をとらえて、してこなかったことでしょう。今更急激に、国民の意見を求めても、混乱を招くばかりですね。ですが、こうした対応の遅れは、どう考えても東京電力の責任ではなく、原子力発電の政策的推進者であり、規制当局でもある、政府の責任だったと考えざるを得ない。
 

第三の論点ですが、原子力発電の安全基準の引き上げは、費用増になるだけで、電気事業としての経済誘因がない、という本質的問題と、原子力技術の革新へ向けた開発投資についても、効率性と生産性の上昇の方向にしか経済誘因が働かない、という問題がありますね。この点については、国会事故調報告書は全く見落としていますね。

 石油に代表される化石エネルギー資源の利用と、自然環境の破壊ひいては人類の生活と生命の危機との関係は、とうに知られていた問題です。そもそも、原子力発電の積極的利用の正当化も、ここに源があります。太陽光発電その他の再生可能エネルギーに関する基礎技術も、とうに完成していたのでしょう。しかし、原油の価格が安い間は、量産効果がでるまでの初期投資負担に耐え得ないから、事業としては開発されてこなかったのです。
 科学技術の進歩が、人類の幸福の増進に使われるためには、経済合理性の問題が大きいのです。経済的誘因が必要なのです。原子力発電にかかわる技術も、同じ制約のもとにあると思われます。より安全性の高い技術が使われるためには、その技術の利用が、経済合理的でなければならない。
 例えば素材や機器にかかわる技術であれば、一定規模以上の量産効果が生じない限り、製造業者にとって、その素材や機器を供給することに経済合理性はない。東京電力をはじめとする原子力発電事業者が、積極的に、より高度な素材や機器を買い続けない限り、技術の実用化は行われないし、更には、技術革新の誘因すらが、なくなりかねないのです。
 ところが、安全性については、技術革新が安全性を強化する方向へ働く仕組み、経済的誘因が安全性を高める仕組み、それが、市場原理のもとでも可能か、という哲学的難問があります。実は、原油価格等の上昇や再生可能エネルギー普及のための補助金的要素を電気料金に反映させれば、原子力発電の経済性については、相対的な経済性の有利さにより、安全性基準の大幅強化に要する費用を吸収できるという方向へ動いたかもしれないのです。
 ところが、残念ながら、原子力発電が改めて有力なエネルギー源として見直されるようになったのは、相対的な費用優位性の契機が働いたからです。その結果、市場原理のもとでは、安全性と経済性の矛盾が解けなくなってしまったのです。しかし、これも、東京電力等の電気事業者の責任というよりも、電気事業政策の転換点を誤った政府の責任だろうと思われるのです。
 この矛盾が解けないのならば、経済的事業としての原子力発電は放棄しなければなりません。放棄しないならば、この難問を解かねばなりません。東京電力福島第一原子力発電所の事故、この全世界を震撼させ続けている事故の後では、日本だけではなくて、全世界で、この難問への挑戦が始まるということです。
 なお、この矛盾を解かない限り、仮に、原子力発電を放棄するにしろ、完全廃炉へ向けた長い時間の技術基盤の維持、廃炉の安全性の確保のための技術革新への経済誘因の設計、消滅へ向かう産業のなかでの人材確保、という極めて困難な問題も解き得なくなります。究極の矛盾ですね。
 以上に述べたような高度な論点について問題を整理し、国民の深い理解を醸成した後で、原子力発電について、国民に再選択を問うべきです。それが政府の責任です。しかし、残念ながら、わが政府は、到底そのようなことを行い得る能力的水準にないようです。私は非常に心配です。

以上


 次回更新は7月26日(木)になります。

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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。