
英米法の世界には、フィデューシャリー(fiduciary)と呼ばれる特殊な職業人の類型があります。フィデューシャリーを規定する本質的な要素に関しては、専門的な議論が様々になされ得るでしょうが、決定的に重要なのは、顧客は、フィデューシャリーに対して、具体的に定義された業務ではなく、抽象的な目的の達成を依頼するだけなので、フィデューシャリーは職務の成果を保証し得ないことです。つまり、結果責任を負い得ないフィデューシャリーに対して、特別に重い行為責任を課すところに、法律上の意義があるわけです。
例えば、フィデューシャリーの代表例は弁護士なのですが、顧客は、訴訟遂行の代理を弁護士に委任するとき、訴訟の結果について何らの保証も得られないにも関わらず、包括的に訴訟戦略を一任するのですから、そこには、明らかに、高度な信頼があるわけです。故に、弁護士は、その信頼を守るべき義務を負うのですが、その義務の内容とは、要は、専らに依頼人の利益のために、最善をつくして訴訟遂行することになるのです。
一般に、フィデューシャリーは、この弁護士の立場と全く同じように、仕事の成果を保証し得ない状況において、顧客からの高度な信頼のもとで職務を遂行するのであって、顧客に対して、専らに顧客の利益のためにのみ働くこと、および最善をつくして働くことという二つの特別に重い義務を負うのです。逆にいえば、顧客からの高度な信頼を守るために、特別に重い義務を負う職業人がフィデューシャリーと呼ばれるわけです。
特別に重いとは、どういう意味でしょうか。
日本の法律にも、忠実義務があって、ある種の業務委託契約においては、受任者は、自己もしくは第三者の利益のために行為することを禁じられています。しかし、英米法のフィデューシャリー・デューティー(fiduciary duty)、即ち、フィデューシャリーの負う義務は、日本の忠実義務よりも、はるかに重いと考えられます。
第一に、日本の忠実義務については、受任者が自己もしくは第三者の利益を図ることによって、顧客に損害を発生させたときに、義務違反になるのですが、フィデューシャリー・デューティーのもとでは、顧客における損害の発生とは関係なく、単に、自己もしくは第三者の利益を図ることによって、あるいは、その外貌を呈することによって、義務違反となる可能性があります。
つまり、日本の忠実義務のもとでは、自己もしくは第三者の利益を図ったことが積極的に証明されなければ、義務違反にならないのに対して、フィデューシャリー・デューティーのもとでは、自己もしくは第三者の利益を図らなかったことが積極的に証明されない限り、義務違反になり得るということです。
そうすると、第二に、最善をつくしたことが積極的に証明されない限り、フィデューシャリー・デューティー違反になり得るということですか。
日本の忠実義務のもとでは、受任者には、最善をつくすことまでは求められておらず、最低限のことができていれば、義務違反にならないのに対して、フィデューシャリー・デューティーのもとでは、最低限の水準の達成では不十分で、最善のつくされたことが証明されない限り、義務違反になり得ます。
なお、念のためですが、最善とは、結果についてではなく、結果に至る方法についていわれることです。なぜなら、フィデューシャリーの職務は結果を保証し得ないからです。結果を保証し得ないからこそ、結果に至る最善の方法の選択について、最高度に綿密で慎重な検討と、最大限の努力が求められるのであって、日本の忠実義務のもとでのように、最低限の努力の上に安住できないのがフィデューシャリーの立場なのです。
最善の努力とは、高度な専門的知見を基準とするのでしょうか。
フィデューシャリーの職務は、弁護士の職務のように、特殊な領域における専門的知見を必要とするものであって、顧客は、能力的に自分ではなし得ないことだからこそ、専門家であるフィデューシャリーに一任するわけですから、顧客の高度な信頼とは、フィデューシャリーの人格にではなく、フィデューシャリーのもつ専門的知見に向けられたものだと考えられます。
故に、顧客の信頼が守られたかどうかの判定基準は、顧客の利益のために、フィデューシャリーのもつ専門的知見が最大限に活用されたかという点に帰着するわけです。そこで問題となるのは、フィデューシャリーの間には、当然のことながら、能力と経験の格差があることですが、常識的に考えて、その平均的な水準が基準になるはずです。
ただし、重要なのは、平均的水準が基準になることではなくて、フィデューシャリーが顧客の利益のために常に切磋琢磨していれば、平均的水準が上昇していくことです。つまり、フィデューシャリー・デューティーの最も重要な機能は、フィデューシャリーに最善を追求させることであり、それによって、フィデューシャリーの提供する役務の質を常に改善していくことなのです。こうした絶えざる進化は、日本の忠実義務のように、最低限の水準を基準とする限り、起き得ないことです。
フィデューシャリーと顧客との間に大きな情報格差があるからこそ、フィデューシャリー・デューティーが必要なのでしょうか。
フィデューシャリーは専門的知見をもつ人であり、顧客に対する関係では、圧倒的に情報優位な立場にあります。逆にいえば、顧客は、フィデューシャリーに対して、情報面で著しく劣後するので、フィデューシャリー・デューティーによって、保護される必要があるわけです。この保護のもとで、フィデューシャリーには、情報の優位を悪用して、顧客の利益を害することが禁じられるだけではなく、顧客の利益のために、情報の優位を最大限に活用することが求められるのです。
なぜ金融庁はフィデューシャリー・デューティーの徹底を金融機関に求めるのでしょうか。
金融庁は、2014年9月11日に、「平成26事務年度 金融モニタリング基本方針(監督・検査基本方針)」を公表し、「資産運用の高度化」を重点施策として掲げるなかで、「家計や年金、機関投資家が運用する多額の資産が、それぞれの資金の性格や資産保有者のニーズに即して適切に運用されることが重要である。このため、商品開発、販売、運用、資産管理それぞれに携わる金融機関がその役割・責任(フィデューシャリー・デューティー)を実際に果たすことが求められる」と述べました。
当時、フィデューシャリー・デューティーを知るものは英米法の専門家に限られていたのですから、金融界には極めて大きな衝撃が走りました。その結果、現在では、金融機関に勤務するものの全てがフィデューシャリー・デューティーという言葉を知っているという異常な事態になっています。
実は、英米法の世界では、資産運用に関する業務に従事するものは典型的なフィデューシャリーなのです。なぜなら、資産運用においては、結果を保証し得ず、特殊な専門的知見が求められるからです。金融庁は、「資産運用の高度化」を重点施策としたとき、高度化を促すものこそ、フィデューシャリー・デューティーに含まれる最善努力義務だと考えたわけです。
法体系の異なる日本において、どのようにして、フィデューシャリー・デューティーが適用されるのでしょうか。
フィデューシャリー・デューティーは、金融庁が策定している「顧客本位の業務運営に関する原則」というソフトロー(soft law)によって、金融機関に適用されています。ソフトローとは、金融機関が自己規律として自主的に採択することで、法律に準じた効果を発揮するものです。
ソフトローを超えて、立法化もされているのでしょうか。
「金融サービスの提供及び利用環境の整備等に関する法律」の第二条第一項は、「金融サービスの提供等に係る業務を行う者」は、「顧客等の最善の利益を勘案しつつ、顧客等に対して誠実かつ公正に、その業務を遂行しなければならない」と定めています。つまり、金融庁は、フィデューシャリー・デューティーの中核理念を立法化し、それを全ての金融機能に拡大適用しているわけです。
・金融機関に大変革を起こすフィデューシャリーの自覚と誇り(2025.5.15掲載)
組織運営において働く人が「顧客の最善の利益を勘案して」行動するよう動機付け、組織は最大限のサポートをしていくことこそが重要だと論じています。
・プロフェッショナルは企業の席を借りるだけなのだから(2025.4.3掲載)
プロフェッショナルの定義と組織とプロフェッショナルとの関係性の本質を解説し、日本の投資運用業界がプロフェッショナルの集団となっていないことについて問題提起しています。
・顧客の最善の利益を勘案することは金融機関の真の営業戦略だ(2024.6.20掲載)
規制によるものではなく、金融機関が客観的に公正な立場から顧客の最善の利益を勘案し、サービスを提供することが金融サービスの質の高度化につながることを論じています。
(文責:翁)
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。