金融庁は瀕死の銀行の水虫を治療してどうするのか

金融庁は瀕死の銀行の水虫を治療してどうするのか

森本紀行
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銀行、特に地方銀行は瀕死の状態にあるといっても過言ではありません。この重篤の病は、銀行業そのものの存在意義にかかわる究極の危機であって、金融の全体構造を大胆に変革しない限り、克服できないものです。しかし、金融庁は、危機を直視せず、困難な改革を放棄して、身近な些事に没頭しています。金融庁の君よ、瀕死の銀行の水虫を治療して悲しくないか。
 
 社会構造が絶えざる動態的変動のもとにあれば、商売の栄枯盛衰、流行り廃れは必定であり、科学技術の進化が旧事業を破壊すると同時に新事業を創造するのも当然のことであって、そうした環境の激変に対応するのが企業経営の本質であり、対応できない企業が淘汰されていくことは理の必然ですから、特に論ずべきこともないのですが、敢えていえば、次の二点は重要でしょう。
 第一は、技術革新には事業構造を覆すものがあり得て、しかも現代の技術革新の多くは、そうした可能性を秘めていることです。例えば、電気の使用を極小化する技術開発や電気製品のなかに発電機能を内包したものの開発は、発電技術の高度化とは全く次元が異なり、電気事業の構造を覆す破壊力を備えたものです。また、自動車という機器の革新から、全く異なる移動機能へ、更に移動を不要にする情報社会へという変化は、あの超巨大な自動車産業さえ根底から揺るがせています。
 第二は、かつてなく規制改革が重要になっていることです。規制は、利用者の利益を守るという大義のもとで、事業者の競争を制限し、供給能力の安定化を図るものですから、必然的な副作用として、事業者の利益をも守ってしまい、容易に変革の阻害要因になり得ます。そこで、規制当局としては、適切な時期に適切な規制改革を断行する必要に迫られるわけですが、規制された事業の構造を覆すような破壊的創造に際しては、当局の能力の限界を大きく超え出た困難な問題が出現してしまうのです。
 
規制を撤廃すればいいのではないですか。
 
 事業構造が根本的に変わる局面では、どう変わるか予測がつかないわけで、利用者に生じ得る不利益を予見できないのですから、利用者の利益を守るという規制の大義のもとでは、一気に規制を撤廃することは不可能です。故に、規制当局としては、規制の対象となっている旧事業者の供給能力を保護しつつ、新事業者の参入を認めて全く新しい規制、あるいは無規制のもとにおいて、変化を段階的に制御する手法をとるしかないのです。
 例えば、規制のサンドボックスと呼ばれる手法は、現行規制のもとでは不可能な事業を一定の制限のなかで特別に認可するもので、規制当局は、この一種の実証実験を通じて実践的知見を得て、規制能力の向上を図り、高次元の規制改革につなげるものとして、多方面で導入が進んでいます。
 
さて、銀行業ですが、規制業のなかでも特別に厳格に規制されていて、同時に、事業の構造を覆し得る変革に直面しているものとして、規制当局である金融庁の果たすべき役割は極めて重要ではないでしょうか。
 
 金融庁は、前世紀末、銀行が煽った不動産投機により銀行自身が破綻したときに、規制専業の官庁として発足した不幸な経緯があり、その後長い間、規制のための規制という矛盾に陥っていたのですが、やっと近年になって、その愚を自覚的に克服し、金融機能の高度化を通じた国民の経済的厚生の増大を図る官庁へと脱皮を遂げました。
 そして、銀行業については、金融庁は、金融庁自身の改革を通じて、全行を画一的な規制の枠に封じ込める姿勢を放棄し、各行独自の経営原則による自治自律を前提にして、顧客との共通利益を創出するために何ができるのか、何をすべきなのかを考えさせ、その考えの実践を支援する方向に転換したのです。
 そのなかで、金融庁は、テクノロジーの進化が銀行業に与える影響について、資金決済の方法を激変させて預金を基礎にした現行のあり方を根底から覆す可能性や、顧客との接点における利便性を飛躍的に向上させて店舗営業の意味を喪失させる可能性を視野に入れて、新事業者の参入を認めつつ、段階的な規制改革を実施してきています。
 
銀行業の未来へ向けての改革の前提として、過去の遺産の整理が急務ではないでしょうか。
 
 日本の銀行業においては、テクノロジーによる破壊的創造、あるいは創造的破壊の危機に加えて、昭和の事業構造を強引に継続して令和に至ったことによる蓄積疲労が激しく、いわば瀕死の重体に陥っていることが事態を何倍も深刻で危険にしているのです。
 あからさまにいって、銀行は、可能性としての危機に直面する前に、事実としての破綻に陥っているということです。なお、念のためですが、破綻というのは、個別の銀行が経済的に破綻しているということではなく、昭和の銀行業が令和において機能しなくなっているという常識的な事態を意味するにすぎません。
 
昭和の銀行業とは何でしょうか。
 
 昭和というよりも、経済成長期における銀行業のことです。経済成長期には、銀行の預金調達力よりも融資に対する需要が恒常的に上回っていたので、銀行業は自然に成立しただけでなく、更に経済政策として、産業界の旺盛な資金需要を安定的に満たすために、銀行の保護による資金供給能力の確保が図られていたので、銀行業の基礎は盤石だったのです。
 しかし、銀行保護は、保護の代償として撤退を制限するために、資金需要の変動に対して供給が弾力的に変動しない事態を招きますから、昭和が終わり、経済成長が止まって、資金需要が供給能力を下回る状態が定着したときに、銀行業は必然的に行き詰まり始めます。故に、適切な時期における規制改革が必要だったのですが、日本の金融行政は、不幸にして、その時期を失し続けてきたため、銀行業の行き詰まりは持続可能性を喪失する段階に達してしまったのです。
 つまり、銀行業の現状は、預金額が融資額を大きく超過していて、融資額の伸びに明確な限界が画されるなかでは、事業会社が売れる目途のない過剰在庫を抱えて自転車操業しているのと同じ構造に陥っていて、しかも次第に自転車をこぐ体力が減耗枯渇してきているのですから、まさに瀕死の危機にあるのです。
 
金融庁は、近年、銀行業の危機を認識し、様々な施策を展開してきたようですが。
 
 こうした危機的状況のなかで、当然といえば当然ですが、金融庁は、銀行、特に地方銀行に対して、持続可能なビジネスモデルへの転換を強く求めてきました。具体的には、顧客本位の徹底という名のもとで、量的拡大は困難であるとの前提で、現存顧客基盤の深耕を求め、また、資産運用の高度化という名のもとでは、第一に顧客資産を預金から投資信託へ移転させる、第二に融資以外の領域へ投資を拡大させる、この二つの可能性を模索する施策を展開してきたわけです。
 しかし、顧客本位の徹底は進まず、旧態依然たる量的拡大志向による不毛な競争が繰り広げられて、銀行の体力は一段と低下し、また、経済環境の問題として、マイナス金利に転じて、個人の預金者にとって預金の相対的魅力度が上昇したことや、地方銀行に投資可能な領域が縮小してしまったこともあって、資産運用の高度化にも進展はありません。
 
早期警戒制度が発動されるべきではないですか。
 
 早期警戒制度、即ち「銀行法」第ニ十六条による金融庁の業務改善命令は、個別具体的な問題事象に対して適用されるものではなく、異例な事態に備えた抽象的規定として、「当該銀行の業務の健全かつ適切な運営を確保するため必要があると認めるとき」に発せられるのですが、まさに今こそ発せられるべきものであり、実際、金融庁は、この1年の間に、本格的な発動へ向けた準備作業を終えています。
 
既に発動されているのでしょうか。
 
 金融庁は早期警戒制度の運用を非開示にしていますから、現に発動されているのか、どの銀行に発動されているのかは不明です。しかし、問題の本質は銀行業全体の深刻な制度疲弊にあるのであって、個別銀行の経営格差は程度にすぎないのですから、程度の悪い銀行を特定して秘密裏に対策を講じても全く意味はありません。
 
個別銀行の経営で解決できる問題ではないということですか。
 
 今の日本の銀行業が直面する難問は、個別銀行どころか銀行業全体としても内在的に解けるものではありません。旧来の銀行業が持続可能性を失うという危機、そして、テクノロジーが金融の構造を覆そうとする危機、この二重の危機のなかで、銀行業という枠組み自体の意味が問われ、銀行規制全体の有効性が問われているのです。
 実際、金融庁は、この危機感のなかで、金融庁自身の改革を断行し、規制を適用するだけの官庁から、金融機能高度化のために制度を設計する官庁へと脱皮を遂げたはずです。そして、現に、顧客本位の徹底の先に新しい金融サービス仲介業のあり方が示され、預金に替わる貨幣保有形態であるデジタルマネーを扱う資金移動業のあり方が示されてはいるのですが、それと銀行業の危機との関連は示されていません。
 金融庁が直ちになすべきは、金融全体の未来の姿を示し、そのなかで現に銀行が提供している金融機能を再定義し、顧客本位の視点から、その新しい提供形態を提言することです。つまり、もはや、個別の銀行の改革ではなく、銀行業全体の解体と金融機能の再構成が強く求められているということです。そして、早期警戒制度による業務改善命令は、そうした大きな構図を対象銀行の具体的状況に適用したものとして開示され、他行が参照すべきものです。
 
金融庁としては、強制を避け、銀行自身の行動原則に委ねたいのではないでしょうか。
 
 金融庁は、銀行の経営原則による自律的改革を求めてきて、何ら成果を生まずに銀行の危機を悪化させてきた事実を直視すべきです。今ここで銀行の自律をいうのは、規制当局としての責任を被規制側の銀行に転嫁するものです。
 
強制に先立って、対話をしたいというのが金融庁の意向だと思われますが。
 
 そういう意向にそって、2月7日に、金融庁と地方銀行との間の対話の項目を列挙した「コア・イシュー」が公表されたわけですが、そこには金融庁の危機認識や危機打開策に関する仮説が全くないのですから、瀕死の病人に健康診断の項目を示しただけのものとして、治療の準備にはなり得ません。
 
金融庁もできるだけの治療はしているのではないですか。
 
 銀行の危機に際して、金融庁が何をやっても、問題の本質を突かない限り、瀕死の病人の水虫を治療するのと同じであり、些事にすぎません。しかも、瀕死の患者の水虫を治療する医師には、患者を救えない絶望から、無益を承知で少しでも患者のためにできることをしようとする苦悩があるはずですが、金融庁の場合、苦悩している様子もありません。金融庁の君よ、瀕死の銀行の水虫を治療していて悲しくないのか。
 
以上



次回更新は、3月12日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
 2019/09/19掲載「金融庁は存亡の危機にある地方銀行をどうするのか
 2019/07/25掲載「銀行を捨ててこそ捨てられない銀行になれる
 2018/01/18掲載「地域金融機関の淘汰の原理と退出の作法
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。