金融庁が保護すべき投資の素人

金融庁が保護すべき投資の素人

森本紀行
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金融庁にとって、資産形成のための投資信託の普及は最重点施策ですが、国民一般の投資に関する経験や知識が不足しているなかで、金融機関の不適切な営業行為から国民を守ることは最低限のことにすぎず、投資信託を適切に利用できないことによる機会損失から国民を守ることのほうが重要なのです。さて、国民の家計と知識経験は多様を極めるわけで、金融庁は、どのような投資の素人を、どのように守るのか。

 投資信託の普及を妨げているものとしては、投資信託の品質や金融機関の営業姿勢などの供給側の要因、投資についての国民の知識や経験の不足などの需要側の要因、マイナス金利下での預貯金の相対的魅力度の高さなど、様々に考え得るわけですが、金融庁をはじめ、金融界一般に通用している見方は、国民の知識と経験の不足が主因で、そこを悪用した金融機関の商品政策と販売手法が投資信託の印象を悪化させ、更に国民を投資信託から遠ざけているという悪循環論でしょう。
 故に、投資信託の普及のためには根源的な要因を解消する必要があるとの理由から、投資教育の重要性がいわれているのです。つまり、国民が投資信託と金融機関を適切に選択できる力を備えれば、優良な投資信託と金融機関が伸び、そうでない投資信託と金融機関は淘汰されていくという好循環へ転換できると期待されているのであって、事実、金融庁の施策は、そうした方向にあります。
 
国民の無知を前提にしていいのでしょうか、むしろ、国民の健全な常識を信じるべきではないでしょうか。
 
 国民は投資について理解できていない、確かに、投資の技術的な側面については、そのようにいえるかもしれませんが、投資の本質については、健全な常識の範囲において、よく理解されているのではないでしょうか。実際、設備投資や人材投資という表現に接するとき、その投資の意味として、何らかの将来価値のあるものに資金を投じ、長い時間をかけて実現していく価値から資金を回収することであると、誰しもが正しく理解しているはずです。
 そして、投資信託における投資とは、日本および世界の産業の発展が生み出す将来価値に資金を投じ、産業活動が現実に創造する付加価値から投資資金を回収することであって、産業活動の総体が金銭に換算し得る付加価値を創出している限り、即ち日本および世界の経済全体が名目的に成長している限り、投資の総体は収益を生むということ、この投資についての基本理解は国民の一般常識に含まれていると考えるほうが素直です。
 
国民の常識に反した偽の投資が行われていて、それが目立つために、真の投資が見えなくなっているのではありませんか。
 
 理念として投資が何であるかをとらえることと、現実の投資を見聞きすることとは、大きく異なるのでしょう。理念としての投資は、産業界に資金を投じることですが、現実の投資は、産業界が資金調達の手段として発行する債券や株式を取得することです。問題は、債券や株式は開かれた資本市場で取引されているため、価格が変動することであって、現実に見聞きされる投資は、投資そのものではなくて、この価格変動になってしまうことです。
 投資の本質として、債券や株式を通じて産業界に投じられた資金は、利息配当金や元本の償還によって回収されるわけですが、資本市場で取引されていれば、他人に売却することによっても回収可能になります。そのときの価格は、債券や株式に内在する価値を反映しているはずですが、需給関係で価格形成されるわけですから、価値と大きく離れたものになり得るのです。そして、そこに、投資と似て非なるものとして、投機が生じます。
 いうまでもなく、投機とは、価格の変動の機微をついて、安く買って高く売ろうとし、高く売って安く買い戻そうとするギャンブルのことです。投機は投資と全く異なるものであって、なによりも最大の差は、投機は、個々の成功を生むにしても、その総体において、取引費用分だけ確実に損失となるのに対して、投資は、個々の失敗はあるにしても、その総体において、経済が成長する限り、利益を期待できることなのです。
 しかし、投機は非常に目立ちます。それは、株式市場の動向が毎日報道されているように、資本市場の価格変動が目立つからです。そして、目立つ投機は投資の本質を覆い隠してしまい、投機が投資であるかのような誤解を国民に与えてしまいます。故に、健全なる国民の常識のもとでは投機が回避されるために、投機と誤認された投資は普及しないのです。
 
投資は普及していなくとも、投機には人気があるのではないですか。
 
 ギャンブルには国民的な人気があるのです。しかし、金額的に手軽な競輪や競馬などと異なり、資本市場での投機は大きな金額を動かすギャンブルですから、古くは、比較的に富裕な事業経営者等の嗜みとして、特別な世界を形成していたのです。今でも、投資が富裕層のものだという誤認が国民のなかにあるのは、こうした伝統的な投機の名残です。
 しかし、伝統的な投機の愛好家は高齢化によって減少していて、替わって、インターネット取引の普及により、株式やFXでの投機は大衆化しています。そのうえに、暗号資産の登場など、投機対象の多様化も進んで、投資信託すら投機の対象になってしまいました。余談ですが、こうした投機の担い手の交代は、伝統的な地場の証券会社の激減と、インターネット証券会社の激増に顕著に現れているわけです。
 そして、インターネット等を通じた情報流通の進化は、投機の大衆化とともに、投機に関する情報を拡散するために、投資信託の潜在的な顧客層に対しても、投資に対する誤解を拡散して、投機とは無関係の投資の本質に適った投資信託の利用と普及を妨げていると考えられます。
 
投資の普及を目指す金融庁としては、自覚的に投機を行う人に関心はないのでしょうか。
 
 資本市場にとって、投機は必要なのです。投機資金が活発に売買を繰り返すからこそ、大きな取引量が形成されて、企業が株式や債券を機動的に発行して資金を調達することができるのですし、売値と買値の差が縮小して投資に要する取引費用も小さくなるのです。故に、金融庁として、敢えて投機を奨励しないまでも、違法な取引手法が用いられない限り、投機を取り締まる必要はありません。
 また、金融機能の利用者保護の視点からも、意図的に、自覚的に投機して損失を被る人に金融庁が関心をもつ必要はないでしょう。しかし、意図せずして、無自覚的に投機してしまう人については、金融庁としても特別な関心をもたざるを得ないはずです。
 
金融機関に騙される人のことでしょうか。
 
 もともと金融界には一定の秩序があり、顧客と金融機関の間には、それなりの適合性が存在していたのであって、投機は、比較的に富裕な事業経営者等の嗜みとして、証券会社の重要な事業分野であり、金利の高かったときに、預貯金は、一般の人の重要な貯蓄手段として、銀行等の重要な事業分野だったのです。そして、投機にしろ、貯蓄にしろ、投資信託は必ずしも重要な分野ではありませんでした。
 その後、金利の低下が続き、とうの昔に超低金利が定着してしまった日本において、預貯金が貯蓄手段として機能しなくなって久しいなかで、投資の普及、より具体的には投資信託の普及が金融庁の最重要課題に浮上してくるわけです。そして、同時に、銀行等でも投資信託の販売を可能にするなど、金融規制の自由化も推進されたため、投機、貯蓄としての預貯金、投資信託を通じた投資の間の避け難い混淆と混乱が生じてきた、それが現在の状況です。
 この状況のなかでは、顧客と金融機関の間の真の適合性は失われている可能性が高いのです。真のという意味は、法令上の適合性については、金融機関の形式上の法令遵守の徹底により、間違いなく保たれているということであり、逆に、その形式の裏で、実質的な適合性が保たれていない懸念があるということです。
 例えば、よく知られた事案として、まとまった金額の預金をもつ高齢者に対して、銀行が顧客からの信頼を利用して、顧客に真に適合しない投資信託を販売することがあげられます。この事態について、銀行が顧客を騙しているとまではいえないのは、毎月の分配金を得るという高齢者顧客の投資に対する期待を充足しているからですが、他方で、その分配金の原資は、多くの場合、極めて投機的な対象から生じているのですから、これは顧客の意図しない投機として、金融庁の関心事たらざるを得ないのです。
 
投機と投資の混同のもとで、投資への信頼が形成されずに、投資信託が適合するはずの顧客において、その普及が著しく妨げられていることも重大な問題ではないでしょうか。
 
 金融庁は、前身が金融監督庁であり、かつては金融処分庁と揶揄されたほどに、金融機関の不適切な行為を取り締まることに熱心だったのですが、その甲斐もあって、金融機関の法令遵守が少なくとも形式的には徹底されるようになってからは、国民の経済厚生を増大させるために金融機能の実質的な高度化を図ることに行政目的を転換したのです。
 故に、現在の金融庁は、高齢者に対する投資信託の販売において、形式的な法令違反等の事実がないというだけでは満足できないわけで、高齢者が豊かな老後を送るためには、投資信託の適切な利用も含めて、金融機能全体として、どのように提供されるべきかという問題設定をし、金融機関と建設的な対話を行うことで、金融改革を推進しているのです。
 実は、幸か不幸か有名になった例の老後2000万円報告書というのも、そうした施策の延長にあったわけで、ここでは、投資に向かうべき貯蓄が預貯金に滞留することの国民的な機会損失を前提にして、効率的な投資手段としての投資信託を普及させるために、その重要な目的として、公的年金を補完して豊かな老後生活を送るための資産形成を掲げていたのです。
 そして、政治問題化を狙った野党の思惑が不首尾に終わったということは、豊かな老後生活のための資産形成の意義が国民に十分に理解されていることを証明したのですから、それで報告書の目的の半分は達成されたのですが、もう半分の目的、即ち投資についての国民の誤解を解くことについては全く成功していません。
 
無知な国民を教育によって守るという金融庁の発想に誤りがあるということでしょうか。
 
 金融庁が老後2000万円報告書問題から学ぶべきことは、国民の健全なる常識に対する信頼です。実際、金融庁を救ったのは、老後生活のための資産形成の重要性に関する国民の常識的な理解です。同様に、金融庁は、投資の本質についても、国民は無知なのではなくて、常識的に理解していると考えるべきです。その常識のもとで投資が育たないのは、投機との混同があるからであって、金融庁のやるべきことは、投機を正面から認めて、投資とは無関係なものとして、ギャンブル愛好家のためだけのものとして隔離することです。
 また、投資には、投資の本質についての理解のほかに、多くの技術的要素が必要になるのですが、それらは、国民が知るべきことではなく、金融機関の責任において適切に提供されるべきものです。そもそも、投資信託という制度は、顧客に代わって専門的知見を有する金融機関が技術的なことを処理するためにあるのであって、金融庁のやるべきことは、国民の教育ではなくて、金融機関の責任について、金融機関を教育することです。
 
以上

 

次回更新は、10月31日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2019/04/18掲載「投資が預金と同じくらい普通になるために
2018/05/31掲載「こんな投資信託があれば飛ぶように売れる
2018/04/19掲載「投資信託の毎月分配は顧客を騙すためなのか
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。