投資教育が欺瞞的営業にならないために

投資教育が欺瞞的営業にならないために

森本紀行
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かねてより、投資教育の重要性がいわれています。これは、日本の巨額な個人金融資産が圧倒的に預貯金と保険に偏っている現実を是正して、投資信託等を通じた資本市場での運用へ振り向けるには、投資の基礎知識の普及が不可欠だとの論拠に基づくのですが、国民の経済行動を教育によって直すという政策は、いかにも、お上の視点です。投資が真に必要なものなら、各自が勝手に学ぶはずですから、政府は、投資の必要性が国民に認識されていない構造問題にこそ、目を向けるべきです。

 投資教育というよりも、教育ということ全体について、常に、根本的なことが問い返されなくてはなりません。つまり、教育における主体は誰か、対象としての客体は誰か、ということ、いいかえれば、教育の主語は何か、教育の目的語は何か、ということです。
 初等・中等教育においては、教育の主語を教師として、児童を目的語とすることに、強い違和感はないかもしれません。しかし、大学のような高等教育の場においては、研究者を兼ねる教師と、そのもとで学ぶ学生とは、それぞれの立場で共に学ぶのが本来の姿であるはずですから、教師と学生は、共に主語であるべきです。
 つまり、本来の大学においては、目的語をとる他動詞を教えるということはあり得ず、主語だけをとる自動詞を学ぶということしかないはずなのです。もちろん、教師として、専門の研究者の立場から、学生の学びを助け、伸ばすことは求められるにしても、学生が主体的に学ぶという原理原則自体は、動かしようがありません。
 そして、この学ぶことの自助努力原則は、仮に、慣習に従って、広義の教育と呼ぶとして、大学教育だろうが、企業内の研修だろうが、趣味の習い事だろうが、全ての教育の現場に当てはまります。特に、習い事については、学びたい人だけが自主的に学んでいるのですから、原則は明瞭ですし、程度の差こそあれ、初等・中等教育においても、児童が学ぶという主体的な働きの重要性は否定できません。
 そもそも、教育を超えて、一般的にいって、助ける、支援するということについては、助ける人、支援する人の役割が重要だとしても、助けられる人、支援される人の主体性を抜きにしては、なりたちません。支援が問題となるすべての分野において、支援を受けるもの自身の自助努力なくしては、他人の支援は有効に機能し得ないのです。

支援される側の主体性なくしては、支援は支配になるということですね。

 少し脱線しますが、例えば、行政における中央と地方との関係において、安倍政権は地方創生という施策を打ち出しているのですが、ここには、支援する中央と支援される地方との関係について、全く新しい理念が表明されているのです。
 従来の地方振興策は、中央が主体となった支援であったが故に、地方から中央への需要の吸い上げが起きて、逆に地方を衰退させ、その衰退が更なる支援を求めるという悪循環のなかで、結局は、地方の中央への従属、中央による地方の支配をもたらしてしまったのです。
 この反省のうえにたつ新しい地方創生は、地方の主体性を前提として、中央の支援における補助的な役割を明確にしたものです。主体的に成長を志向する地方の意思が明確になってはじめて、中央の支援の方法が定まる、これぞまさに、地方と中央が共に主語として、日本経済の構造改革に取り組む姿勢を明瞭にしたものといえます。
 支援は、常に、支援される側の主体性を前提としてこそ、支援として有効に機能しますが、支援する側を主体として、その論理で行われるとき、支配に堕してしまいます。教育も同じことで、学ぶものの主体性を前提とした学習支援に徹しない限り、教育という名のもとに、学ぶものを支配することになってしまうのです。

投資教育も、国民の主体性抜きには、なりたたないうえに、どうかすると、国策優先の国民支配になりかねないということですか。

 政府が産業金融政策の一環として、銀行による金融仲介機能、いわゆる間接金融から、資本市場を経由した直接金融への転換を志向し、その前提条件として、個人貯蓄の構造を、銀行預金を中心としたものから、資本市場への投資、即ち、株式や社債、および、それらを対象とした投資信託を中心としたものへ移行させるべく、投資教育を政策として掲げるというのなら、それは、教育という名のもとに、個人貯蓄を支配しようとすることになりかねません。
 ところが、このような政策課題のもとで、政府が投資教育の重要性を叫んでも、国民に投資を学ぶ気がなければ、投資教育は、全く機能しませんし、事実、機能しているとも思えません。ある意味、国民は、賢くも、政府の支配から、自分の貯蓄を守っているようにも思えます。
 あるいは、そもそも、投資教育という視点は、預貯金や保険に個人貯蓄が偏在するのは、国民が投資に無知だからで、賢くなれば、投資を選好するはずだという仮説に立脚しているようですから、それ自体、国民を愚民視する面を否定できず、その匂いを国民は敏感に感知するからこそ、投資教育に積極的に反応しないということかもしれません。

預貯金や保険に個人貯蓄が偏在することの裏に、国民の合理的選択があるという前提から、投資教育、いや、投資学習支援を始める必要があるということですね。

 なぜ、預貯金や保険に個人貯蓄が偏在するのか、この根源的な問いについては、最初から、投資に関する無知を原因として片づけてしまっているので、実証的な検証は十分になされてはいないようです。実証検証が不十分ななかで、無知を前提とした投資教育を組み立てても、国民に訴求しないのは、当然です。
 では、改めて、なぜ、預貯金や保険に個人貯蓄が偏在するのかと問うてみるとき、一番確からしい答えは、預貯金や保険から投資に向かうべき必要性がないということではないでしょうか。
 投資する必要がないから投資しない、この仮説は、投資に必要な知識がないから投資しないという仮説よりも、遥かに説得力があり、確からしいものです。実際、投資に必要性を認めれば、誰でも、投資を自主的に学ぼうとします。そのとき、政府の立場からする投資教育は、国民の視点からする真の学習支援になるのは間違いないところです。

では、なぜ、投資に必要性が認められないのでしょうか。

 それは、論理的に当然のこととして、必要性の前提となる投資の目的がないからでしょう。
 投資の目的として、一般的に想定されているのは、金融庁がいうように、家計の安定的な資産形成なのであって、それは、従来の「貯蓄から投資へ」という標語に替えて、「貯蓄から資産形成へ」という標語として、政策課題化しているのです。
 では、なぜ、「貯蓄から資産形成へ」が必要なのかといえば、少なくともこれまでの金融庁においては、資本市場の活性化を通じて、コーポレートガバナンス改革を加速させ、産業構造改革によって、経済成長戦略を実現するというふうに、国民の視点を離れて、産業金融政策の視点へ、一気に飛んで行ってしまっています。
 ここからは、政策の立場からの投資教育という発想が生まれるのは当然ですが、国民の視点からの投資学習の必要性はでてきません。

では、さらに問うて、国民の視点で、資産形成を考えるとき、どこに必要性が認められるべきでしょうか。

 老後生活資金の形成です。老後というよりも、正確には、労後でしょう。つまり、就労期間中の所得のうちから資産を形成することで、就労を止めた後に、資産所得と資産の計画的な取り崩しによって、生活資金を確保することこそ、資産形成の主たる目的でなくてはなりません。
 「貯蓄から資産形成へ」という標語は、どこまでも資本市場育成という産業金融政策の視点のものなのです。国民の視点では、「貯蓄から資産形成へ」ということはあり得なくて、資産形成とは、老後、即ち、労後のための貯蓄にほかならないのです。

老後、あるいは労後生活資金ということであれば、購買力の保存が課題ですから、デフレ経済においては、預貯金と保険による貯蓄こそ、最適な手段となる、まさに、国民は賢く合理的なのですね。

 「貯蓄から資産形成へ」というのは、国民視点では、デフレ対応貯蓄からインフレ対応貯蓄へ、ということです。この点は、金融庁も十分に理解していて、資本市場育成の論点だけでなくて、デフレ経済脱却を前提とした貯蓄構造のあるべき変化という論点もとり入れています。
 しかし、預貯金と保険の収益率は、金利に連動し、金利は物価に連動するのですから、預貯金と保険は、それなりのインフレ耐性をもっています。実際、高度経済成長期には、インフレが進行していたのですが、そのときから既に、国民貯蓄は預貯金と保険に偏っていたのですし、それで、特に、大きな問題があったわけでもありません。
 デフレ経済脱却だけでは、国民を資本市場へ誘導することにつき、国民の視点では、十分に説明できません。やはり、デフレ経済脱却のためには、資本市場改革を通じた産業構造改革が必要だという視点が前面にでているわけで、順番が逆であるといわなくてはなりません。

金融庁は、預貯金と保険のインフレ耐性では不十分で、資本市場での投資により、より高い収益率を追求すべきだといっているのではないでしょうか。ならば、それは、国民の視点での助言ですよね。

 金融庁の森信親長官は、徹底した顧客の視点で、金融機関と金融庁の改革を強力に推進しています。その森長官の路線に忠実に考えるならば、金融庁のいう投資教育とは、国民を主体として位置づけ、国民の視点でなされる適切な助言でなくてはなりません。
 なぜ、個人の資産形成のあり方に変革が必要かというと、超高齢化社会のなかで、公的保障も、企業福利も、ともに圧縮されざるを得ない方向にあるのであって、故に、老後生活資金形成における自助努力が極めて重要なものとして、急速に浮上しているという現実があるからです。
 国民の利益の視点にたつ政府の助言として、老後生活資金形成における運用の高度化を提言することは、大きな意義があります。実際、資金特性の超長期的性格は、多少の運用の工夫によって、金利連動の預貯金と保険よりも、相対的に高い収益率を実現させる蓋然性を高めてくれるからです。

ならば、政策としては、投資教育ということよりも、老後生活における自助努力の重要性教育ということでなくてはなりませんね。

 金融庁としても、預貯金と保険への個人貯蓄の偏在とはいっても、その大きな部分が高齢者のものであることは、とうに認識しているわけです。この高齢者貯蓄が預貯金と保険へ集中することは、現在の公的年金等の給付水準や物価情勢を考えれば、理に適っています。
 むしろ、この高齢者貯蓄に対して、現にみられるように、「貯蓄から資産形成へ」の名のもとに、金融庁のお墨付きを得たかのように、投資信託等へ振り向ける強引な勧誘を行うことは、金融機関の手数料稼ぎとして、社会的批判の対象になるべきです。
 問題は、勤労層であり、特に、若年層なのです。このことは、政府も、十分に認識しており、NISAの本来の目的も、ここに置かれていたはずです。今、NISAも1000万口座を超えたわけで、これからは、本来の目的にそった量から質への転換が急速に進められるのですが、その過程で、従来の投資教育に替わる新しい政策として、投資学習支援の取り組みが生まれてくるのです。
 投資学習支援を有効なものとするためには、NISAの税制優遇措置は、公的年金の圧縮の代替として導入されたものであること、そして、将来においては、NISA等の個人の自助努力が老後生活資金に占める比重が大きくなること、これらの点を、政府として、国民に明確に説明することが絶対に必要なのです。

以上


次回更新は、10月6日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2016/09/15掲載「麻生太郎先生の「よほどやばい」発言の含蓄
2016/08/25掲載「銀行が預金をやめるとき
2016/08/18掲載「銀行がなくなる日に、銀行機能は甦る
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2016/01/21掲載「いっそ銀行に住宅仲介をやらせるか
2016/01/07掲載「銀行は、カネではなくて、モノを貸したらどうだ
2015/12/17掲載「住宅ローンが欲しいのではない、住宅が欲しいのだ
2014/07/17掲載「オブジェクトへの金融
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。