住宅ローンが欲しいのではない、住宅が欲しいのだ

住宅ローンが欲しいのではない、住宅が欲しいのだ

森本紀行
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お金を借りるについては、借りる目的があります。お金を借りないでも、目的が実現できるなら、誰も、お金を借りたくないはずです。住宅が欲しいという目的が単に住みたいということなら、賃貸でもよく、ならば、住宅ローンは不要なのです。さて、銀行等の立場として、融資の申し込みに対して、どこまで、資金使途を突き詰めるべきなのか、融資しなくても、目的が実現できるときは、融資を断るべきなのか。
 
 2008年の世界的金融危機の原因とされたものに、サブプライム問題がありました。サブプライムというのは、その名の通り、プライム(一定の高い基準)を下回る債務者の区分であって、通常は、簡単には、住宅ローンを借りられない層です。
 ところが、こうした債務者に対する住宅ローンでも、大量に束ねて、債務不履行による損失の負担を統計的に吸収できるように構造化することで、実行可能にしていたわけです。ただし、大量のサブプライム住宅ローンの供給の裏には、楽観的仮定に基づく統計操作があったのであって、結果的に、わずかな住宅価格の下落による担保価値の毀損により、一気に崩壊し、金融危機を惹起したのです。
 ここには、金融の本質にかかわる非常に深い論点が潜んでいます。つまり、低所得者層の住宅が欲しいという需要に対して、金融の高度な技法をもって、夢の実現を支援しようとしたことは、まさに、金融の社会的機能の面から、称賛されるべきことだったのか、それとも、逆に、金融の社会的機能として、貸すべきではない顧客の要望を退け、所得に応じた賃貸に留まらせるように誘導すべきだったのか、はたして、どちらなのか。
 
それは、借りた債務者の利益と、貸した金融機関の利益との間に、適切な均衡が図られていたかどうか、その判断によるのではないでしょうか。
 
 実は、サブプライム問題は、もう少し複雑で、住宅ローンを実行したものと、その住宅ローンの資金を実質的に提供したものとは、異なっていたのです。つまり、実行者から住宅ローンを買い取り、大きな集合にして、最終投資家に再譲渡する機能を演じた投資銀行が介在していたわけです。
 サブプライム問題では、社会的に厳しく批判されたのは、介在することで巨額な手数料を得ていた投資銀行です。結局、資金を供給した投資家と、債務不履行に陥った債務者との間には、双方が損失を受けるという構図になって、利益の相反がなかったのです。
 しかし、日本の銀行等の場合のように、住宅ローンの実行者と資金供給者が一致していたとすれば、サブプライム問題において、借りた債務者の利益と、貸した銀行等の債権者の利益との間の均衡は、当然に、貸す側の重要な論点として意識されたはずであり、そうであれば、実は、サブプライム住宅ローンの供給は抑制されたものとなり、金融危機も起き得なかったと考えられるのです。
 
つまり、サブプライムの住宅ローンの多くは、供給されるべきではなかったということでしょうか。
 
 金融の社会的機能として、融資の実行の可否や融資条件を検討するときは、一方で、資金使途の社会的必要性を考慮し、他方で、弁済能力を厳格に査定します。そこが機能していれば、サブプライム住宅ローンの多くは、実行不可能であるか、可能であるにしても融資額等の条件は厳格なものとなり、総供給量は非常に小さくなったと思われます。
 それに対して、現実には、大量のサブプライム住宅ローンが生まれたのは、ローン債権を直ちに転売する前提で、融資の実行がなされていたからで、転売が可能であったのは、投資銀行が複雑な証券化の構造を介在させていたからです。
 ところが、証券化商品の投資家は、実質的な価値を十分に理解できていなかったわけですから、投資銀行は、情報の非対称性を巧妙に悪用していたことになります。こうした仕組みがなければ、サブプライム住宅ローンが大量に生まれることはなかったはずです。
 
自己目的化して創出された住宅ローンが仮の住宅需要を作り出していたということですね。
 
 金融の社会的機能として、住宅取得という目的が先行し、その目的を資金使途として、住宅ローンの需要が生まれるという順序は変え得ないのであって、それが逆転し、住宅ローンの供給により、仮の住宅需要を作り出すことは、あってはならないことです。仮の住宅需要に基づく住宅ローンは、表面的に住宅ローンではあっても、真の住宅ローンとはいえないのです。
 もちろん、経済政策の問題として、真の住宅需要を刺激するために、金融緩和によって住宅ローンの供給能力を強化することはあり得ますが、それは、決して、住宅需要が先にあるという順番を動かすものではありません。
 
住宅ローンと真の住宅ローンとは、異なるのですね。現在の金融庁も、顧客ニーズと真の顧客ニーズとを、使い分けていますが、背景は同じことですか。
 
 金融庁がいう真の顧客ニーズの意味は、分野は違いますが、投資信託の販売についての金融庁の考え方に、よく表れています。
 つい最近まで、著しく投機性の高い投資信託が、著しく高額な手数料等のもとで、大量に販売されていました。事実として、販売されていて、投資家の同意を示す証憑も存在している以上、そこに顧客ニーズがあったことは否定のしようもありません。
 しかし、表層の裏で、投資信託の属性と投資家の属性との間に、真の適合性があったかどうか、そこに真の顧客ニーズを認め得るかどうかは、金融庁にとって、大いに疑問だったのです。顧客ニーズとして擬制されていたものは、実は、表面的な高利回りの強調や、売れ筋ランキング等に基づく誘導等、販売会社が作り出したものではなかったのか、そうした疑念は、金融庁ならずとも、誰しもが感じていたはずです。
 そこで、金融庁は、投資信託に関連する業務を行う金融機関に対して、表層的な顧客ニーズではなくて、真の顧客ニーズに応えることを強く求めるに至ったのです。要は、金融機関に対して、専らに顧客の利益の視点に立つことを求めるということですが、このことを、金融庁は、英米法の言葉を借りて、フィデューシャリー・デューティーの徹底といっています。
 
しかし、消費者関連の事業では、広告宣伝等で仮の需要を作り出すことは、普通に行われています。なぜ、金融だけは、それが許されないのでしょうか。金融もまた、一つの商業ではないでしょうか。
 
 それは、金融は、電気や水と同じように、人間の社会生活にとって、もはや不可欠のものとなっているからであり、そこに、金融の社会的機能があるからです。そして、事実として、金融が社会的機能から逸脱するとき、日本の昭和の不動産バブルや、2008年のサブプライムに発した世界経済危機のように、人間の社会生活の秩序を乱すからです。
 かつて、金融は、高度な社会性を理由に、高度に規制される半面、高度に保護されてもいました。つまり、金融機関の利益が安定するように、金融の仕組みができていたのです。しかし、現在では、確かに、規制も緩和されていますが、それ以上の速度で、保護の廃止が進んでいます。もはや、金融機関の利益は安定していません。
 こうしたことを背景に、金融機関は、目先の利益機会に導かれて、真の顧客ニーズから乖離した投資信託や住宅ローンへと、道を踏み外しがちになり、結果的に、金融の社会的機能に悖ることが横行するに至っているのです。これは、世界的な現象だと思われます。
 
どうすれば、金融機関の行動様式は変わるのでしょうか。
 
 社会的機能とはいっても、金融が資本主義経済の重要な一角を占めるものであることに、何ら変わりはなく、ならば、金融機関の行動もまた、利益誘因によってしか、変革し得ないでしょう。ただし、この場合の利益は、短期的な利益ではなくて、持続可能性のある中長期的な利益です。
 つまり、金融機関自身の利益のために、表層的な顧客ニーズを作り出しても、顧客の真の利益には反する場合が多く、結果的に、昭和の不動産バブルも、サブプライムも、金融機関の巨額な損失に帰着して、持続可能性がなかったのです。
 それに対して、専らに顧客の利益のために、真の顧客ニーズに応えることは、そのことが社会的価値を生み出している限り、結果的に、持続可能な金融機関の利益につながるはずだということです。
 
顧客の利益にならない投資信託は売らない、顧客の利益にならない住宅ローンは出さない、ということですね。
 
 もちろん、そういうことですが、それだけのことではありません。逆に、顧客の真のニーズへと徹底的に遡及していったとき、そのニーズに社会的必然性があり、合理的に達成可能なものであるときは、金融機関の責任において、ニーズの実現に向けて、最大限の努力をすべきだということです。金融庁は、こうした金融機関の経営姿勢を、ベストプラクティスの追求と呼んでいます。
 
真の顧客ニーズを突き詰めた結果として、金融の外に最適な答えを求めるべきものであると判明したとき、金融機関は、どうすればいいのでしょうか。
 
 金融の外という前に、金融業務も多様化していて、それなりの広がりをもっていることを考えなくてはなりません。例えば、企業からの融資の申し込みについて、その資金使途を徹底的に検討した結果、社債の発行、リース契約等、金融機関として実行可能な代替的な手法が選択されることもあるでしょう。
 また、更に、それ以前の問題として、例えば、企業の状況を精査したときには、負債を増やすまでもなく、遊休資産等の売却によって、資金調達できる場合もあるでしょう。そのときは、金融機関としては、適切な助言を行い、資産売却を提案し、顧客の経営の高度化と成長を支援することで、次の融資機会の創造へつなげるべきです。
 そのうえで、合理的な検討の結果、本当に金融の外にはみ出してしまう事案もあるでしょう。例えば、住宅ローンの申し込みに対して、その前提となる住宅購入自体に無理があると考えられるときは、賃貸へと導かねばならないでしょうが、住宅仲介は、金融機関の業務の外になってしまいます。
 この問題について、顧客の利益に真に適うという厳格な条件のもと、金融機関の業務を拡大することは、現在の金融行政の視野に入っているのだと思われます。実際、住宅ローンは、米国のモーゲージバンクのように、住宅仲介に引き付けても構成できるわけです。
 もちろん、金融機関のもつ優越的な地位や、本業の銀行業等の健全性への影響を考えるとき、業務拡大には様々な制限があるでしょうが、判断の基準は、どこまでも、顧客の利益に真に適うかどうかという点に求められるべきであって、現在の経済社会環境のなかでは、従来の発想を転換すべき領域も、少なくないと思われます。
 それでも、金融機関に認め得る業務範囲には、限界があります。限界を超える分野については、金融機関として、外部の適切な業者等を紹介することで、真に顧客の利益に適うことができるはずです。そのこと自体は、金融機関の事業にならなくとも、顧客との関係性を強化し、顧客の成長を支援することにはなるのであって、中長期的には、融資創造等、金融機関の事業機会につながっていくでしょう。
 
以上

 
 次回更新は12月24日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2015/12/10掲載「雨が降ったら傘を差し出す金融へ
2015/07/09掲載「原子力損害賠償制度と金融
2014/07/17掲載「オブジェクトへの金融
2014/06/26掲載「公共ファイナンスの視座
2013/06/27掲載「借換えで債務を弁済することは本当に弁済なのか
2013/06/19掲載「住宅金融と生涯生活設計
2013/06/12掲載「住宅金融あれこれ
2012/11/08掲載「貸せない先に貸してこその銀行


≪ アーカイブから今週のお奨めは「市場原理」≫
2015/01/08掲載「稀少すぎて値もつかない本
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。