稀少すぎて値もつかない本

稀少すぎて値もつかない本

森本紀行
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稀覯書というのは、歴史的価値の高い本で、かつ、現存の部数が極端に少なく、滅多に古書店に現れもしない本のことです。もちろん、ごく稀に市場に出ることがあれば、著しく高い値段で取引されることになるはずですが、さて、本当にそうなるのか。
 
 昨年の文化勲章を受章された経済学者の根岸隆東京大学名誉教授の本に、『経済学のタイム・トンネル』(1984年 日本評論社)というのがあります。経済学史の大家の著書ではありますが、学術書ではなくて、経済学の古典的書物を24冊選んで解説を加えた楽しい読み物です。
 さて、この本自体は、稀覯書ではありません。そうではなくて、そこに紹介されている本の一つが、「古本屋のリストにでることも滅多になく、品がないから値段もつかないというたいへんな稀覯本」なのです。それは、川口弘の『ケインズ経済学研究』(1953年 中大出版社)という本です。
 

川口弘の『ケインズ経済学研究』といわれても、今では、知る人は、いないでしょうね。
 
 根岸先生によれば、「わが国におけるケインズ経済学研究の本格的な研究書としては最初のもののひとつであるが、単にすぐれた解釈を樹立したよい解説書であるだけでなく、問題提起という観点からみて最良のもののひとつである」とのことです。
 そして、根岸先生は、この本について、「少なくとも潜在意識的に非常に大きな影響をうけたような気がする」と述懐もされているのです。
 そのような優れた本ですから、幻の稀覯本としておくことは、あまりにも惜しいわけで、実際、根岸先生の著書における言及の後、1999年に、日本経済評論社が新版を出しています。稀覯書になるということは、当然に、この本に対する経済学研究者の強い需要があるということですから、出版事業の立場からいえば、新版を出しても売れる目途が立つということなのでしょう。
 

新版が出れば、元版の古書価のほうは、下がりそうな気がしますが。もはや、稀覯書ではなくなったのでしょうか。
 
 さあ、よくわかりません。なにしろ、根岸先生もいわれるとおり、「品がないから値段もつかない」本なのですから。要は、本がなければ、取引がなされず、取引がなければ、値段もなく、値段がなければ、値段の変化もわからないということです。
 

ならば、稀覯書として、本当に高価だったのか、あるいは、今でも高価なのかは、わからないですね。
 
 実は、私は、この極めて稀有な『ケインズ経済学研究』を所有しているのです。稀覯書として、高値で買ったのではなくて、ある古書店の雑書を放り込んである箱のなかから、ごく安い値段で、掬い上げたのです。愛書家として、歓喜に打ち震え、心躍った一瞬でした。
 

雑書の山から拾い上げることができたのは、この本について、知っていたからであって、大多数というか、ほぼ全ての人からすれば、単なる汚らしい紙の束だったはずですね。
 
 実は、根岸先生は、「品がないから値段もつかない」といっているだけで、普通に読めば、「値段もつかない」の意味を、著しく高価である、と解釈するのでしょうが、それは、一つの先入見からする思い込みで、「値段もつかない」ということの現実は、ただ同然、ということでもあり得るのです。
 過去に、取引がない以上、あるいは、取引があっても、その価格が知られていない以上、参照すべき取引価格はないのです。故に、売り手が適当につけた価格について、ある偶然により出現した買い手との間で取引が成立すれば、そこには、間違いなく市場で成立した価格が生まれます。
 さて、しかし、その価格は、一体、どのような意味をもつのか。
 

稀少な学術書としての高い価値を反映していないことは、間違いないですね。
 
 根岸先生は、「実は、私が購入した本はいつの間にかどこかへいってしまい」という事情があって、この本を探していらしたようですが、「大学の図書館にもなく」というほどの本でもあり、結局、古書店で入手されることはできなかったようです。
 おそらくは、先生は、それなりの値段をお払いになる用意をされていたでしょうが、本が出てこなければ仕方がないわけで、先生が自己の価値判断に基づいて形成されていた潜在価格は、市場価格としては、実現しなかったということです。
 

しかし、市場原理というのは、買い手が高い価格を提示することで、商品が誘い出されてくることを前提にしているはずですが。
 
 買い手が自己の価値判断に基づいて提示した潜在価格に対して、売り手が商品をぶつければ、その瞬間、主観価値は客観価格として成立する、そのようなものとしてのみ、市場価格は意味があるのです。
 実際、十分な量の商品が市場にあれば、どうしても欲しいという買い手が、相対的に高めの価格を提示することにより、どこからか、必ずや、商品の売り手が現れて、取引が成立するでしょう。こうして、価格は、常に、需要、即ち、買い手にとっての価値を反映したものとして、機能することになるはずです。
 ところが、この本の場合には、市場に商品が存在せず、潜在価格情報は、十分に、機能しなかったのです。
 

現に古書店で入手できた事実もあるのですから、市場に商品がないとはいえないのではないでしょうか。
 
 この本は、根岸先生が紹介している著者の川口弘自身の言葉によれば、1500部印刷されたようです。決して、多くはないですが、極端に希少な本でもないのです。
 また、確かに、この本に対する潜在需要情報は、機能しているのです。それは、日本経済評論社が新版を出していることにも、現れています。ちなみに、この新版は、今も在庫があるようです。定価5800円(税抜き)也。
 実は、この出版社は、「ポスト・ケインジアン叢書」などで知られた特異な専門書の出版社で、この叢書の翻訳者には、川口弘自身が名を連ねています。だからこそ、新版を出せたのです。つまり、この本の価値を一番よく知る出版社だからこその仕事なのです。
 かつては、経済学などの社会科学系の学術専門書を扱う古書店がいくつもありました。そういう専門家の社会では、この本の価値は、当然ですが、よく知られていたはずです。実際、優秀な古書店主は、よく勉強もしていたのです。ですから、以前は、それなりの価格で、稀とはいいながら、それなりの数の取引があったでのしょう。おそらくは、それなりに、市場原理は機能していたのです。
 しかし、今では、そうした目利き力のある専門の古書店は、激減してしまいました。古書店の数自体は、それほど減ってはいないようですから、要は、構造が変わってしまったのです。こうなれば、この本など、専門的知見を欠く多くの古書店主にとっては、価値のないものです。ですから、私は、ただ同然で、買えたのです。
 

価格情報だけでなくて、価値情報もないと、市場原理は機能しないのですね。
 
 もう一つ、面白い例をあげましょう。それは、片山敏彦の『精神の風土』(1950年 池田書店)という本のことです。片山敏彦といえば、ドイツ文学とフランス文学に通じ、ロマン・ロランの翻訳でも知られ、また、多くの文芸評論をものした人ですから、それなりに有名です。みすず書房から、著作集も出ています。
 片山敏彦は、私にとっては、非常に大事な人で、その著作は、ほぼ全て所有しているのですが、唯一、この『精神の風土』だけが、手に入らないのです。長年、探していますが、とにかく、『ケインズ経済学研究』並みの稀覯書なのです。私は、本の実物を見たことすらありません。
 ところが、ごく最近、非常に驚くべき事実を発見しました。なんと、ヤフオクで、たったの500円で落札されていたのです。これは、衝撃でした。落胆、計り知れず、心底、がっかりしました。
 背景の事情は、私が『ケインズ経済学研究』を安く買えたのと、同じでしょう。おそらくは、このヤフオクの出品者は、古書の価値に関しては、全くの素人です。私としては、文芸書の場合は、経済学の学術専門書に比べて、はるかに市場が大きく、価値情報も流通していると思っていました。しかも、片山敏彦というのは、それなりの名前です。なのに、こんなことが起きるのか、とにかく、大変な驚きでした。
 

ヤフオクだからではないのですか。
 
 この本、それなりに知識のある古書店を介していれば、それなりの高値で取引されたであろうことは、まず、間違いないのです。つまり、専門的知見のある古書店や蒐書家だけが取引参加者であれば、その狭い世界のなかでは、少ないながらに一定の数の取引が継続的になされ、価値を反映した相場が安定的に形成されていたはずなのです。
 しかし、時代が推移し、片山敏彦の名前が徐々に忘れられ、専門的知見のある古書店が減り、私のように片山敏彦に特別の愛着をもつ蒐書家も、高齢化して減っていく。そうなれば、市場を支える参加者の間で価値情報が流通しなくなり、取引はなくなり、故に、「品がないから値段もつかない」こととなり、市場は機能しなくなる。
 他方で、ヤフオクのようなものは、多数の素人を呼び込むことで、狭い市場を一気に拡大するので、取引機会は多くなるのでしょうが、価値情報の流通は十分ではなく、価格は正当な価値を反映したものとはならない。
 

しかし、そのような開かれた市場こそ、真の蒐書家にとっては、好都合なのではないでしょうか。第一に、取引の機会が増え、第二に、安い値段で買える可能性も増すはずですから。
 
 その通りです。事実、私は、そのような開かれた市場によって、『ケインズ経済学研究』を安く手に入れ、もう一歩で逃しこそすれ、『精神の風土』を安く買う機会があったことを知り得たのです。しかし、それは、偶然の巡り会わせにすぎなかったのです。
 やはり、私にとっては、昔のように、専門的知見のある古書店によって支えられていた狭い市場のほうが、ありがたかった。なぜなら、欲しいと思った本は、確実に手に入れたいからです。そのとき、値段は大きな問題ではないのです。自分の強い需要が価格を高くするからといって、それは、市場原理に従って当然なのですから、納得できるのです。
 むしろ、高い価格を提示することで、求める商品を市場に誘い出し、確実に入手できることのほうが、はるかに重要なのです。市場とは、そももそ、そのような需要に確実に応えるものでしょう。
 ひとつの偶然で求めていたものを安く手に入れることは、楽しみではありますが、確実性はありません。むしろ、価値に見合った高い価格で、確実に手に入れるほうが大事です。市場とは、需要に確実に応えるものでなくてはならないのです。
 

市場は、開かれていることも重要ですが、取引参加者間の情報の対称性も重要なのですね。
 
 専門的知見のある古書店と蒐書家との間では、情報は対称的です。だからこそ、価値と価格は一致し、価値の高いものは、いかに稀少なものでも、埋没せずに、常に、市場で交換され続けてきたのです。故に、必要なものは、それなりの確実性をもって、手に入れることができたのです。まさに、需要は常に満たされるという意味で、市場は機能していたのです。
 ただし、専門書を扱う古書店では、相対的に、価格は高かったのも事実です。それは、品揃えをよくするために、在庫費用が嵩むこともあったでしょうが、専門家ならではの商品の調達力と、強力な顧客の支持に支えられていたからこそ、価格を高くできたからでもありましょう。そこにこそ、真の古書店の利益源泉があったのです。
 

情報が対称的だからこそ利益が出るというのは、市場原理の逆説ですね。
 
 情報が対称的で、競争的ならば、利益源泉はなくなる方向へ動くはずです。かといって、利益を得るために情報の非対称性を利用すれば、公正な市場原理は機能しなくなる。情報が対称的だからこそ利益が出るためには、価値を創出しなければならない。これは、自明のことです。
 古書に価値を見出す愛書家がいて、その価値を理解する古書店があって、価値を共有する文化的社会があってこそ、愛書家の満足があり、愛書家の満足があるからこそ、古書店にも利益があったのです。
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2010/09/02掲載「「二銭銅貨」的な悔やみと社会的責任
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2010/08/19掲載「「古池や蛙飛び込む」的な市場理解について
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2013/04/25掲載「「赤いダイヤ」の小豆先物が投資対象になり得るわけ
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。