国家とは何か。それが何であろうとも、人と、人の組織化の原理で構成されるものであることに間違いはない。
さて、国家を構成させる組織化の原理は何か。建国の神話か、建国の戦いの歴史的事実か、いずれにしても、何らかの共有される記憶、それを文化と呼ぶならば、文化的統一がなければ、国家は成り立たないでしょう。ちなみに、記憶が文化であるのは、将来に向かって不断に記憶が生成され蓄積されて、内包を豊かにし続けていくという意味においてです。
文化には、歴史という時間の軸だけではなく、地域という空間の軸もあります。そもそも、地域的範囲を画さない国家というものは考え得ない。ある地域に住む人々の長い歴史の記憶、同じ地域内に共住してきたからこそ共有されてきた記憶、その記憶の及ぶ範囲が物理的な国家の範囲なのでしょう。
さて、企業においては、空間の限定がない。故に、企業の発展の可能性は大きい。このことは極めて重要です。いつの日か、人類の叡智は、絶えざる進歩の結果として、国家の制度を廃止して、地球という世界市民社会にたどり着くことでしょう。そこへ至る変革の経路は、国家間の利害の調整の結果としてではなくて、国境を桎梏と感じ始めた世界企業の活動によるのであろう、そのように私は感じております。
こうした可能性をもつ企業の組織化の原理は何か、あるいは何であるべきか。国家と同じように、文化という共通の記憶、生きて増殖する記憶がなければならないのですが、それは、地域のなかに限定されない。限定されないが故に、自由すぎて、文化の共通性を保ちにくい、国土という物理的で具体的なものがないと、抽象的にすぎて、文化に求心力が出ない。
いうまでもないですが、その具体的なものを、現に行っている事業の内容に求めることはできないのです。それでは、企業の変革など、起き得ないからです。
ゆえに、ビジョンですか。
さあ、やはり、ビジョンですか。それが今どきの経営学の通説でしょうか。しかし、ビジョンは、具体性がないと、見えるがごとくにならないから、定義により、ビジョンにならないでしょう。見えるくらい具体的なものは、具体的にすぎて、企業の変革力の源泉にはならないでしょう。
とにかく、企業は、連続的な変革を成し遂げていかないと、成長し得ない。成長しないと、既存の事業の質も維持できず、緩やかか、あるとき突然か、いずれにしても、消滅に向かう。
考え方によっては、もちろん、それでいいのです。産業を構成する個々の企業の淘汰のなかで、新しい企業が生まれ、その新しい企業が変革を担いつつ、産業の発展が図られれば、それでいいのです。
産業論としては、それでいいですが、企業論としては成り立たないですね。
企業間の競争による淘汰の論理は、企業論の本質の一面かもしれませんが、どの企業も、自己の成長を信じて競争するからこそ、いわば競争の質があるわけで、その競争の質があるからこそ、企業競争による産業の発展があるのです。敗北を予定して競争している企業など、あり得ないわけです。むしろ、成長への確信こそが、企業論の中核でなければならない。
脱線するようですが、あの宗教改革の指導者カルヴァンが唱えた予定説、即ち、神による救済を受けられるものは最初から決まっているという説ですが、この予定説こそが、神の摂理に従った合理的な経済生活、即ち、勤勉と節約に基づく経済生活への誘因として働いたとするのが、ウェーバーの資本主義の精神の起源にかかわる有名な学説であるわけです。
つまり、人々を勤勉へと駆り立てたのは、それが神の命じることだからであり、予定により救済されるものが先に決まっているとしても、誰がその選ばれたものであるかは神以外には知られないのだから、人々は救済への確信を得るために、神の望むことに精励したというのです。職業とは、神の召命であったのです。
さて、この学説は、確かに真理ではないでしょうか。救済されるかどうかは予定されているにしても、自分が救済されるかどうかが不可知である以上、人々は、自己の内面の問題として、救済への確信を求めたのです。あるいは、求めざるを得なかった。その確信を高めるための宗教的精進の道こそが経済的な勤労と節約であった、そして、それが、結果的に、産業資本の形成につながったのです。これは、非常に意味深いことです。
企業を精神的に支えるものも、同様の確信でなければならないでしょう。神の目から見れば、淘汰されていく企業も、変革の連続により成長を続ける企業も、予定されているのでしょうが、結果が不可知である限り、成長への確信を得るために、不断の経営努力を続けなくてはならないのです。
資本主義の原点においては、成長の担い手は、個人の手工業者であった。その手工業者の内面を支えたのは、救済への確信であった。現代資本主義において、成長の担い手が内部組織をもった企業に変わったとき、その企業の内部組織を支えるものは、絶えざる成長への確信でなければならないわけです。
ということは、成長への確信こそが企業の組織化の原理であることになりますね。
成長への確信は、一方で、過去における成長の歴史的事実によってしか形成され得ず、他方で、成功体験へのこだわりが変革の阻害要因になる、ここの矛盾こそが企業論の核心になるわけです。
そのため、企業論における議論の方向は、個別具体的な成功体験そのものを問題とするのではなく、その成功が生み出されてきた環境や経路の分析に向かい、成功要因と阻害要因を抽出することで、次の新たな成功の再現の可能性を高めるような努力に向かってきたのです。
しかし、こうした分析をいかに精緻に展開しても、程度の差こそあれ、本質的な意味においては、後講釈の域を出ないのは間違いないでしょう。これは、芸術の創造の現場をいかに解析しても芸術は創造され得ないのと、同じことです。
創造においては、創造する人と、創造の行われる場しかない。確かにいえることは、これだけでしょう。
どうやら、やっと、表題へたどり着いたようですね。創造の場を環境といい換えたとき、人と環境の結合が創造と成長の担い手としての企業になるということですね。
国家においては、文化創造の場は地域の枠を超えにくい、超えにくいというよりも、超え得ない。しかし、企業においては、環境は、超時間的に、超空間的に、構成し得るのです。簡単な例ですが、グローバル企業であれば、インドの研究現場と、フランスの営業現場と、ケニヤの製造現場とを同時につなぐことは、技術的に少しも難しくはないのです。また、創業来の顧客基盤にかかわる全情報も利用できます。ここにこそ、企業の真価があるのです。
創造の芽は、個人のなかにしか生まれません。その芽が育つかどうかは、環境の問題です。育つように環境が整えられていれば、創造の芽が変革へと展開していくのです。さて、ここでの根本的な問題は、主役は誰か、あるいは、創造の起点はどこか、個人なのか環境なのかということです。
環境は企業が個人に与えるものか、それとも創造の原点である個人が自由に利用できるものか。企業が主役となり、選ばれた個人に対して、環境を与えて創造活動をさせるのか、そうではなくて、個人が主役となり、個人が自由に使える企業内環境のなかで、創造活動を主体的に行うのか。
この判断の要点は何か。創造の芽自体が個人の置かれた環境に依存するのではあるまいか、この点です。
そうしますと、環境には二つの層がありますね、創造の芽吹く環境と、創造の芽が育つ環境と。
創造の芽吹く環境は、個人が自由に使える開かれた環境でなくてはなりません。そこでは、個人が主役です。他方、創造の芽が育つ環境は、企業が計画的に準備した環境でなくてはなりません。そこでは、企業戦略が主役です。
こうしたことは、日本の一般的な企業人事の世界でも、広く理解されていたのだと思われます。若手人材の育成というとき、それは、もともとは、企業主導で個人を育てるというものではなく、職場環境のなかで個人が育っていくという個人主導のものであったはずです。他方、人材の登用というのは、できる人材に挑戦の機会を与えることであり、より伸びる環境を提供するという意味であったはずですから、それは企業の事業戦略に基づく人事戦略の一環であったのです。
実際、育つ人は勝手に育つから中核業務で登用し、育たない人は、どうしても育たないのだから、その人なりの傍流の職務を見つけて、それなりに処遇する、こうしたことは、どこの企業でも行われてきたことでしょう。
そして、日本企業にも、経済成長期には、新商品開発などには、テレビドラマにも構成できるような感動的な創造の現場があったのです。その創造の現場は、創造の芽吹く環境と創造の芽が育つ環境との結合だったのだと思われるのです。
しかし、今となれば、創造の芽吹く環境は失われ、奇跡のように芽生えた創造の芽も、瞬くうちに枯れてしまう、このような企業が多いようですね。
既に知られているように、個人の主体性(規律のもとの自由です)と環境の多様性(ダイバシティと英語でいう必要もない)に、深刻な問題があるのです。
創造とは変革であり、変革からしか創造は生まれない。創造は、喩えるならば、物質の組成を変える化学反応ですし、化学反応には触媒もいる。そのような化学反応を生む環境が何であるかは難しい問題ですが、間違いなくいえることは、同じようなもの同士を、同じような配列でおいても、何も起きないことです。
多様なものが自由に動き続けるからこそ、何かと何かがぶつかり、何かを触媒として、新しい何かを生むわけで、そのような偶然性を正面から認めるとき、多様性を高めることで、確率を高めるという組織論が生まれてくるわけです。
これは、人を費用と考えるか、投資と考えるかの問題です。あるいは、効率と無駄との関係です。マニュアル化に象徴される効率化が、創造の芽吹く環境の豊かさを破壊したわけですが、効率化の視点からみれば、豊かな環境とは無駄であるわけです。しかし、無駄ではなく投資と考えれば、そこには、豊かな創造の可能性があるのです。
創造と革新こそが、企業の成長であるなかで、その創造と革新の可能性を小さくするような効率化は、愚かしいことではないのか。要は、結果の問題です。無駄のようにみえるものが、実は投資であり、その投資が利益につながれば、それでいいのだし、それ以外に企業の成長戦略というものがあるわけでもないでしょう。
さて、その場合、企業の成長への確信とは、何に基づくのでしょうか。
創造の芽吹く環境の豊かさは、多様性と個人の主体性の次元において、客観的に認識可能です。故に、確信の基礎たり得ます。創造が発生する確率の制御と、創造の芽を育てる環境設定とは、経営の技術として、経験に基づく類型化等を通じて、客観化可能です。もちろん、後講釈の域は本質的には脱却できなくとも、絶えざる努力は、確信の基礎を形成します。
以上
次回更新は8月8日(木)になります。
2013/07/25掲載「資本人材の資本利潤」
2013/07/18掲載「人材の不良債権化」
2013/07/11掲載「貢献と処遇、あるいは債務人材と資本人材」
2013/07/04掲載「人的資本投資の理論」
≪ アーカイブから今週のお奨めは「TPPと農業」 ≫
2012/09/20掲載「TPPに打克つ日本農業の底力」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。