リスクをとるという誤謬について

リスクをとるという誤謬について

森本紀行
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • mixiチェック
投資の世界では、リスクをとることが当然の前提であるかのように考えられています。しかしながら、もしも、リスクが単に損失の可能性を意味するだけならば、誰もリスクはとらないでしょう。リスクをとるとリターンが得られるというのは誤謬ではないのか。誤謬でないのならば、リスクをとるということは、損失の可能性を受け入れること以上の何かでなければならないはずです。
 
 例えば、公的年金資産の運用について、その管理を行っている年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)に対して、もっとリスクをとれ、などという論者がいます。その意味するところは、論者の勝手な自己都合にすぎないようですが、敢えて、背後の理屈を考えれば、どうやら、ハイリスク、ハイリターンということになりそうです。
 ハイリスク、ハイリターンというのは、投資にはリスクがつきものだとして、そのリスクを大きくしていけば、それに連動して投資収益も大きくなる、そのような仮説です。従いまして、この仮説のもとでは、より大きな投資収益を目指す限り、リスクをとることが当然のことになるわけです。
 

ハイリスク、ハイリターンという仮説は、経験的事実として、実証されているのでしょうか。
 
 問題はリスクの定義です。ハイリスク、ハイリターンという仮説では、リスクは、投資する前の期待としての収益と、投資実行後の一定期間経過後に実際に実現している収益との差の大きさを指標化したものです。差がないのならば、期待収益の実現は確実ですから、リスクはないのですが、差があるのならば、定義により、リスクがあるわけです。
 つまり、例えば、100万円の投資が一年後に110万円に増殖していると期待される投資対象に投資したところ、一年後の実績は90万円になってしまっていた、そのような事態になり得ることを、リスクがある、と表現し、そのような事態の可能性を受け入れることを、リスクをとる、と表現しているわけです。
 さらに、この期待と実績の差は、投資対象ごとに異なるのですから、その大小を論じ得ることになります。そこで、差が大きいものをハイリスクなものと呼んでいるのです。さて、ハイリスクになればなるほど、期待収益は大きくなるのか、これが問われている仮説の有効性の問題ですが、実は、残念ながら、この仮説は、経験的事実としては、成り立っていません。
 

ハイリスク、ハイリターンが経験的事実として成り立っていないならば、リスクをとるなどということは、間違ったことではないでしょうか。
 
 そうです。少なくとも、ハイリスク、ハイリターンを仮定してリスクをとることは、間違ったことです。しかし、そうならば、ハイリスク、ハイリターンということに何の意味もないかというと、そうでもありません。規範、あるいは要請としての重要な意味があるのです。
 つまり、もしもハイリスクならば、ハイリターンでなければならない、そうでなければ、ハイリスクなものに投資する合理性がなく、そのような投資は正当化され得ない、ということなのです。別に、個人の方が、投資にギャンブル的性格を見出して、楽しんでおられるならば、かような規範は、どうでもいいことですが、GPIFに代表されるような年金基金など、社会的責務を帯びた投資家の場合には、この規範は極めて厳格なものとなります。
 実は、ハイリスク、ハイリターンについての根本的な誤謬というのは、ハイリスクならばハイリターンでなければならない、という規範として理解すべきものを、ハイリスクならばハイリターンである、という経験的事実として誤認することなのです。
 

そうしますと、リスクをとれといわれても、リスクをとることが正当化されない限り、リスクをとれませんが、経験的事実によっても正当化され得ないとなると、リスクのとりようがありませんね。
 
 従いまして、表題にありますように、リスクをとることは誤りなのです。ただし、正確にいえば、リスクをとることが正当化され得ない場合には、リスクをとってはならない、ということです。ここで正当化というとき、確かに、経験的事実によっては正当化され得ないとしても、別の仕方で正当化できれば、それでよいわけです。
 つまり、リスクをとるとか、とらないとか、もっとリスクをとるとか、そのような議論の構造に誤謬があるのです。そうではなくて、どのようなリスクであれ、リスクをとることの正当化の論理こそが、議論の中核になければならないのです。
 

では、どうすれば正当化できるのでしょうか。
 
 もしも、資産運用なり投資なりが、社会的に意味のある事業として成り立ってきたとしたら、それは、その正当化の論理を常に創造的に提案し続けてきたからです。ですから、正当化の論理を問うことは、投資の本質を問うことになるのです。
 

ならば問いを改めて、投資の本質とは何でしょうか。
 
 第一に、投資も含めた金融全体の総合的な社会的機能において、世界全体の名目的な所得の増加以上には金融的富の増殖はおき得ない、逆にいえば、名目所得の増殖を追随する形での金融的富の増殖は合理的に期待し得る、ということですから、投資の本質とは、その期待の実現以外には、あり得ないはずです。
 第二に、世界経済の名目的な成長(それは同時に金融的な富の成長)自体にも、大きなリスクがある、即ち、それは人類が事前に期待した通りには成長し得ないはずですが、その究極のリスクは、投資の埒外のことであり、投資の立場からは、単に受け入れるしかないものだということです。このことを、世界の金融資本市場全体の成長に対して、投資は受動的(パッシブ)であるといいます。
 第三に、世界の金融資本市場全体などというものは、あまりにも巨大で複雑で広範囲なので、誰にも全体を把握できないのはもちろん、全体像を想像することすらできないことは自明ですから、実際の投資の技術の問題として、何らかの代理指標を構成するほかないということです。技術的には、この代理指標の構成こそが投資の中核になっているのです。そして、パッシブということも、現実的には、この代理指標との関係においてのみ、いわれることです。
 第四に、代理指標の完全性などあり得ず、従って、完全にパッシブであることなどあり得ない以上、世界の金融資本市場全体の成長に対しては、結果的に、あるいは意図的に、異なる立場を保持せざるを得ないということです。この市場と異なる立場をとることは、パッシブではないという意味で、アクティブ(能動的に市場に関係をもつ)といわれます。このアクティブたらざるを得ないことの自覚も、投資の本質です。
 

投資の本質との関係では、リスクをとらないことは、完全にパッシブであることになり、リスクをとることは、アクティブであることになりますが、では、アクティブであることは、いかにして正当化されるのでしょうか。
 
 第一に、アクティブであることの自覚が決定的に重要であり、欠かせない要件となります。代理指標に対してパッシブであることはできるかもしれませんが、その指標は、環境変化によって、あっという間に市場の代理性を喪失します。その変化に素早く追随し、指標を変え、合わせて資産の構成を即時に変えることなど、技術的に困難、というよりも不可能です。できることは、ずれを自覚し、改善への努力を怠らないことだけです。
 第二に、自覚的にアクティブであることは、運用する投資資金の性格から論理的に導けるのでなくてはなりません。世の中には、足の長いお金、短いお金、少しの一時的損失にも耐え得ないお金、一時的損失はおろか中期的に収益が実現してこなくて一向に困らないお金など、いろいろな種類のお金があります。それらの資金は、総合計において市場にパッシブになるのであって、個々には、敢えて意図的にアクティブであることは、むしろ当然です。
 

そうしますと、正当化できるリスクのとり方というのは、自己の資金性格の忠実であることを通じて、結果的に金融資本市場との関係では、アクティブになるとき、そのアクティブであることに徹底的に自覚的であること、と定義できますね。
 
 そのような理解こそが、経済金融理論から帰結する投資の科学の本質です。まさに、投資の王道であり、よき意味における教科書の教えです。ただし、残念なことには、今日では、皆さん、とうに忘れてしまった教えですけれども。
 

最後の論点として、アクティブであることに徹底的に自覚的であることとは、具体的に何を意味するでしょうか。
 
 アクティブであることは、リスクをとることです。アクティブであることに徹底的に自覚的であることは、故に、徹底的に自覚的にリスクをとることです。いい方を変えれば、完全にリスクを制御しているとの確信をもてるほどに、リスクの管理を徹底することです。
 このような確信に到達するためには、技術的には、かなり高度な水準を実現していないといけないことは自明ですが、単に技術が進んでも、確信には至らないでしょう。確信は、信念ですから、そこには、人間の心の問題が介在します。この難しい論点を扱うのが、投資の理論の世界では、一般に、投資家のガバナンスといわれている領域です。
 さて、このような確信に到達したとき、リスクをとっているという実感はなくなるでしょう。リスクは、とるものではなく、とっていないといえるほどに、徹底的に押さえ込むものなのです。
 

では、最後に、例示として、GPIFにリスクをとれというとき、そのことの正しい意味はどうなるでしょうか。
 
 第一に、GPIFが対峙する世界の金融資本市場について、GPIF自身が定めた代理指標の構成、即ちGPIFにとってのパッシブな姿を、科学的根拠とともに提示せよ。
 第二に、GPIFの資金性格について、その特質を科学的根拠とともに提示せよ。
 第三に、以上二つを総合したとき、GPIFがとるアクティブな姿、即ち、パッシブな姿との差であり、アクティブなリスクの所在、を提示せよ。同時に、その結論を導いた論理を明らかにせよ。
 第四に、そのリスクを完全に制御することに必要な技術的手法を明らかにせよ。同時に、その技術を実行に移すために必要な人的資源等の構成を明らかにせよ。
 第五に、それら人的資源等を経営管理するのに必要な組織構造、即ちガバナンスのあり方を明らかにせよ。
 以上に尽きると思いますが、これらを一言で表現するとき、どう考えても、リスクをとれ、ではなくて、リスクをとるな、のほうが相応しいと思うのですが。
 
以上

 
 次回更新は5月22日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2014/05/08掲載「GPIFのリスクを正しく論じるために
2010/02/18掲載「投資の損失とリスクとボラティリティ
2010/01/14掲載「価値と価格とインカムとバリュー
2009/12/17掲載「価値の変動と価格の変動
2009/11/19掲載「市場機能を支えるリレーションシップ型リスク管理の意義
2009/11/12掲載「市場型リスク管理の限界
2009/06/11掲載「「ナンピン」を考察する
2009/06/04掲載「「損切り」を考察する


≪ アーカイブから今週のお奨めは「GPIF」≫
2014/04/24掲載「公的年金資産運用改革論の誤謬
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月当時のワイアットに入社し、日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。