原子力規制委員会は国会よりも偉いのか

原子力規制委員会は国会よりも偉いのか

森本紀行
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原子力の安全基準の改定が進められているのですが、新しい安全基準のもとで、原子力は安全だといえるのでしょうか。そもそも、安全性の証明は可能なのか、可能だとして、誰が、その証明責任を負うのか。この根源における国民的了解を抜きにしては、安全性の論議は不毛ですね。
 
 完全な安全性の証明は不可能です。哲学的にいうと、不存在証明は不可能である、ということです。超巨大な隕石が原子力施設の中核部を直撃して原子炉を破壊することは、確率統計的な可能性としては、現実にあり得ないこととみなせますが、だからといって、絶対に起き得ないことを証明できるかというと、それは不可能です。非現実的な極限的微小な可能性でも、理論的な可能性としては、あり得るからです。無限小は、どこまでいっても零にはなりません。零は、連続を超えた飛躍です。
 原子力規制委員会は、現存する原子力施設の地下に活断層が存在するかどうかについて、熱心な議論を展開するもののようですが、果たして、そのような詮議は科学の地平において、可能なものなのでしょうか。活断層の不存在を証明することが論理的に不可能であるばかりか、そもそも、活断層の定義自体が明確に定まらないのですから、原子力規制委員会の論議というのは、科学の名のもとに、何か科学とは全く次元の異なること、おそらくは政治の話をしていることにならざるを得ないのだと思われます。
 

議論されるべき活断層の定義は、中立客観的な地質学という科学の問題ではなくて、あくまでも原子力安全基準との関連における施設の立地を制限するという政策目的に従属した行政の問題、まさに政治の問題なのですよね。
 
 念のためですが、私は、原子力規制委員会の議論の内容を否定する気持ちはないのです。私の批判は、科学的偽装のもとで非科学を論じるという方法論と手続きの不適切さに向けられたものです。政治は正面から政治として論じられるべきです。科学の名のもとに政治を論じることは認め難い。そもそも、原子力規制委員会の田中委員長は、安倍総理大臣よりも偉いのでしょうか。委員会の判断は、国会の議決に優越するのでしょうか。
 

原子力に限らず、安全性の問題は、完全な安全性の証明や保証があり得ない以上、残された微小な危険を総合的な利益考量のなかで国民として受け入れるかどうかという政治決断に帰着するわけですね。ということは、本来議論されるべきは、科学的に証明できない安全性ではなくて、純粋に政治的な危険の許容限界なのですね。
 
 東京電力福島第一原子力発電所の事故に関し、人は、事故の背景にある「安全神話」を強く批判しました。この「安全神話」批判というのは、あり得ない完全な安全性の神話的仮構のもとに、原子力発電が行われてきたことへの批判であったはずです。ならば、「安全神話」を否定するということは、安全性の裏にある危険性に正面から目を向けることです。危険性の国民的許容こそが、議論の焦点でなければならないわけです。
 では、危険を議論するとは、どういうことでしょうか。原子力規制委員会は、科学的検証の名のもとに、危険の存在を認定し、それを除去しようと努めています。一見、国民受けして、かっこいい姿勢のようですが、実のところ、完全な危険の除去などできないのですから、これは、単に大衆迎合的な演技ではないでしょうか。つまり、危険が完全に除去できるかのような偽装のもとに、科学的には断じて正当化し得ない欺瞞のもとに、まさに形を変えた「安全神話」を振り撒こうとしているのではないでしょうか。
 そうではなくて、危険を正面から議論するとは、危険が完全には除去できないとの前提で、どの程度までに危険が制御されたならば、その危険を受け入れることができるのか、という一種の社会的合意(言葉の真の意味での妥協点だと思われます)の形成を目指すことでなければなりません。
 活断層を例にとれば、活断層であるかどうかという、科学的に決定不能の不毛な議論ではなくて、当該破砕帯の上に原子力施設を立地せしめた場合において、その危険が工学的に制御可能な範囲に収まるかどうか、という現実論こそが重要なのです。仮に、一部の地質学者が活断層であると主張したとしても、構造物の工学的強度によって吸収可能な危険ならば、立地上の問題はないのです。
 活断層である可能性があるから立地として不適切である、というような粗雑で非科学的な議論を科学の名のもとに行うのではなく、どのみち、絶対に活断層ではないとまでは誰にもいい切れないのですから、僅かに残る危険について、現在の原子力工学や建築工学の技術に照らして、万が一の地震等の災害の可能性に対して、施設の安全性を守れるかどうかという建設的な、そして真に科学的な議論こそが、行われるべきなのです。
 

危険性が社会的に許容範囲内かどうかについては、確定的に白黒をつけることができず、どこまでも程度に関する合意の問題にとどまるのですから、丁寧な総合的な知見の集積を踏まえた議論が必要なのであって、その上で、偏向を排した意見を取り纏めること、これが原子力規制委員会の本来の役割なのですね。
 
 ところが、原子力規制委員会の議論の方法と手続きは、全く異なるのです。例えば、活断層の問題についていえば、地質学の枠の狭い議論のなかで、活断層かどうかを判定しようとしている。活断層であったとしても、建築工学的に制御できるかどうかという検討への広がりはないのです。実に不毛です。
 例えば、活断層かどうかという議論(この議論に意味のないことは、しばらくおいて)についていえば、活断層である、活断層である可能性を否定できない、活断層でないとはいえない、活断層でない可能性もある、活断層ではない、などと、地質学者の見解は広く分かれるのです。つまりは、これらの表現から明確であるように、要は、議論は完全に程度の問題に帰着しているのです。本来、焦点は、白黒判定ではなくて、危険の程度なのです。
 原子力規制委員会の論法で行くと、議論は不毛な不決定に陥るしかありません。仮に、活動層の定義(定義が科学的に意味あるかどうかは、しばらくおいて)を、その上には原子力施設の基幹部分を設置し得ないもの、としたとしても、その定義に従った活断層であるかどうかの科学的判定については、地質学会の意見の一致など、想定し得ないし、現実にもないからです。
 この場合、いかにして合意は可能でしょうか。どうしても、強引に答えを出そうとすれば、基本的に、三つの方法しかないのです。第一に、活断層ではないとの積極的証明がなされない限り、活断層と判定せざるを得ないとするもの。第二に、活断層であると積極的に証明されない限り、活断層ではないと判定できるとするもの。第三は、多数決で決めることです。
 原子力規制委員会は、実は、第一の立場を明瞭にしています。現在、立地の下に活断層が存在する可能性を指摘されている敦賀と東通の原子力発電所については、当該施設を運行する原子力事業者において、活断層は存在しないという積極的な証明がなされない限り、活断層の存在を認定せざるを得ないというのが、原子力規制委員会の立場です。
 

原子力規制委員会は、活断層の不存在証明という不可能を、原子力事業者に強いているわけですね。
 
 活断層の不存在を主張できても、反対派を完全に沈黙させるだけの客観的かつ積極的な科学的論証は不可能です。どこまでいっても、活断層であるとする反論が可能だからです。活断層の不存在を完全に証明することができない以上、原子力規制委員会は、事実上、何らの法的権限なく、廃炉命令を出しているのと同じです。
 なぜ、そうなるのか。原子力規制委員会の田中委員長は安倍総理大臣よりも偉いはずもなく、その判断が国会議決に優越するはずもないのに、なぜ、このようなおかしなことになるのか。それは、私がこれまで述べてきたように、原子力規制委員会の非科学的な手法と高圧的な手続きについて、世論も政府も放置しているからです。
 

原子力規制委員会の高圧的な手続きというのは、どういうことでしょうか。
 
 なぜ活断層の非存在証明が原子力事業者の責任になっているのでしょうか。社会制度の設計としては、先ほどいいましたように、活断層の存在証明の責任を原子力規制委員会側に押し返すこともできるのです。つまり、活断層であると積極的に証明されない限り、活断層ではないと判定できるとする方法もあり得るなかで、なぜ原子力事業者に圧倒的に不利な審理の構造になるのでしょうか。
 これは、活断層判定に限ることではないのです。そもそも、原子力規制委員会の審理の構造の全体について、安全性の証明責任は原子力事業者にあるという前提になっているのは、一体、どういうことなのか。何度もいいますように、完全な安全性の証明など不可能なのですから、その証明責任を負う原子力事業者の立場は、最初から著しく不利です。どうして、事業者の立場は不利にされるのでしょうか。これで、公平でしょうか。
 また、活断層判定は不毛な議論なので嫌いですが、わかりやすいので例にとれば、活断層であるという主張と活断層ではないという主張の両方が、事実として、地質学会にあるのです。このとき、どちらかの主張が公権的に優越する地位にあったら、おかしくないでしょうか。審理は、あくまでも対等公平な対論の構造でなされるべきです。しかし、原子力規制委員会の審理構造は違う。原子力規制委員会の地位の明瞭な優越のもとに、原子力事業者が裁かれているようなものです。
 

古い時代の反民主主義的な刑事裁判みたいですね。
 
 原子力規制委員会は、検事兼裁判官みたいですね。原子力事業者に対して、これは活断層だろうというような嫌疑をぶつけておいて、反論があるなら、その嫌疑を自分で晴らせ、といっているようなものです。その上で、反論は不十分だから、嫌疑通りの廃炉という裁きを受けなさいと命じる。そのような構図です。まあ、原子力事業者は、お白洲に土下座させられているようなものであって、お奉行様に嫌疑をもたれたら、もうお終いということです。
 念のためですが、私は、原子力事業者とは利害関係もないし、支援しているわけでもありません。私が、強く声を大きくして批判したいのは、あるいは批判すべきと信じていることは、審理の科学性と公平性を欠いた原子力規制委員会の方法であり、意図したものかどうか不明ですが、結果として導かれる著しく政治的な結論です。私には、不公正に思える。これは、原子力推進、反原子力などという立場の差を超えた問題です。
 
以上


 次回更新は3月14日(木)になります。
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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月当時のワイアットに入社し、日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。