保険は使用されないときに顧客に最善の利益をもたらす

保険は使用されないときに顧客に最善の利益をもたらす

森本紀行
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<毎週木曜日 11:30更新>

軍備は、使用されずに、戦争抑止力としてのみ機能するときに、人類の最善の利益に適います。金融機能も、使用されないことで、顧客の最善の利益に適うことがあるわけです。
 
 損害保険においては、事故によって損害が発生して、保険金が支払われるとき、顧客の利益に適うことになります。しかし、顧客の最善の利益に適うのは、事故による損害の発生が未然に回避されて、保険が使われないことです。損害の発生が防止されれば、顧客の利益になるばかりでなく、保険金が支払われないので、保険会社の利益にもなるわけで、顧客の最善の利益に適うのは、顧客と保険会社との間に、共通価値を創造することになるのです。
 故に、傘下に損害保険事業をもつ東京海上ホールディングスは、今年の5月15日に、ID&Eホールディングス、即ち、大手建設コンサルタントである日本工営の持株会社を完全子会社化したのです。これによって、建造物に関わる損害保険の提供から、建造物から生じる損害を未然に防止する技術の提供へと、顧客の最善の利益に適う方向へ、事業戦略の転換が図られるわけです。
 
では、損害保険は不用になるのでしょうか。
 
 費用をかけた事故防止の努力によって、事故の発生が逓減していくにつれて、更なる事故減少のための費用は逓増していきますから、費用と効果との関係の効率性において、どこかで事故予防のための努力は停止します。そして、残余の事故発生の危険については、損害保険を利用することが経済合理的になるのです。つまり、損害保険会社として、顧客の最善の利益に適うためには、単に損害保険を提供するだけでは足りず、事故防止の技術を提供すると同時に、経済合理的な必要最小限の損害保険を提供しなければならないのです。
 
損害保険業から、総合的リスク管理業への転換ということでしょうか。
 
 世のなかは様々な不確実な事象に満ちていますが、そのうち、危険、即ち、損害を発生させ得る可能性は、一般に、もはや日本語となっている英語で、リスクと呼ばれています。企業経営においては、事業活動に伴う多種多様なリスクについて、リスク管理の名のもとで、事前の対策が講じられているのです。なお、極端に大きなリスクは危機といわれて、その対策としてのリスク管理は、特に、危機管理と呼ばれます。
 リスク管理は、多くの異なる領域を含み、それぞれに高度な専門性を必要とする複雑な技術の体系です。企業経営においては、リスク管理の技術は、基本的には、事業活動のなかに緻密に組み込まれているわけですが、主観的には、リスク管理が徹底しているようにみえていても、客観的に評価するときは、改善の余地を残しているのが普通でしょう。
 故に、リスクの特定と測定、リスクの顕在化に対する予防措置、予防措置に要する費用の効率化、予防し得ざる損失の発生に対する自己資本の充実等の耐性の確保、効率的な損害保険契約の利用など、一連の総合的なリスク管理について、企業の外部の専門家として、客観的な総合診断をして、最適な提案をすることは、独立した事業になり得るわけです。そして、損害保険会社としては、顧客の最善の利益に適うためには、リスク管理業への事業転換が必須の要件なのです。
 
リスク管理業のなかで、損害保険業は最小化されるのでしょうか。
 
 天気は不確実なものの代表で、雪国では、毎年の降雪量は大きく変動します。そこで、スキー場を経営している地方自治体があるとして、雪の降らないことは、スキー場事業に大きな損失をもたらすので、まさにリスクなのですが、同時に除雪事業の費用を大幅に減少させるので、地方自治体全体としては、損益の相殺が生じます。いわば、除雪事業は、スキー場事業のリスクについて、損害保険の機能を演じているわけで、実は、リスク分散とは、こうした事業活動に自然に内包されている損害保険機能のことなのです。
 複数の事業を営む企業においては、多種多様なリスクがありますが、どの特定のリスク要因についても、各事業に与える影響が異なるので、リスク分散によって、必ず一定の損益相殺が生じます。企業として、リスク管理の合理化を徹底すれば、損害保険を利用する際には、このリスク分散効果を考慮することになるはずですが、実際には、それだけの高度な技術をもたないのが普通です。
 損害保険会社からすれば、各リスク要因について、独立に損害保険を利用してもらえれば、契約量を最大化できます。しかし、顧客の最善の利益に適うためには、リスク管理の専門家としての知見を用いて、顧客の社内におけるリスク分散効果を考慮したうえで、最小の契約量を提案しなければならないわけです。
 こうして、損害保険業からリスク管理業への転換は、顧客の最善の利益に適うために、損害発生の予防措置を最適な費用効率のもとで提案し、更には、リスク分散効果を考慮したうえで、損害保険の利用を提案することに帰結して、損害保険事業は最小化するのです。そして、ここで注意すべきは、損害保険業に限らず、自分の事業の最小化が顧客の最善の利益に適う状況は、様々な領域に幅広く存在することです。
 
例えば、健康保険ですか。
 
 公的医療保険制度は、一般に、健康保険と呼ばれますが、これは非常によい名称です。なぜなら、健康であることが国民の最善の利益に適うからです。つまり、公的医療保険制度は、国民の健康の維持と増進を究極の目的とすべきものであって、医療費の補償事業の枠を脱却して、疾病傷害の予防を中軸とした総合的な健康管理事業へと転換され、その結果として、医療費は最小化されなくてはならないわけです。
 
一般に、保険は最小が望ましいわけですか。
 
 最小の損害が望ましいのなら、理論的に、損害補償としての保険は、最小が望ましいのです。さて、融資において、債務不履行の事態に備えて担保をとることは、一種の保険です。金融機関にとって、担保権の行使によって債権を回収することは、融資先の顧客の最善の利益に反するばかりか、自己の最善の利益にも適いません。当然のことながら、金融機関の最善の利益は自然な弁済にあるからです。
 担保の設定において、金融機関と顧客とに共通する最善の利益は、顧客が債務の履行能力を失わずに正常な経営状況を維持することですから、担保の本質は、担保権の行使による債権回収にあるのではなく、担保権の行使を回避するために、債権者の金融機関と債務者の顧客とが協働することにあるのです。そして、協働の基本は、両者間の情報の対称性の確立、即ち、高度な信頼関係であって、故に、融資は信用といわれるのです。
 
融資といえば、運転資金の融資も最小が望ましいのですか。
 
 金融機関にとって、企業の運転資金を融資することは、中核事業ですが、問題は適正な融資量です。企業は、主観的な判断のもとでは、必要最低限の運転資金について融資を受けているつもりですが、客観的に経営実態を分析すれば、多くの場合、在庫管理や販売代金回収の改善などにより、運転資金を圧縮できる余地が発見されるでしょう。
 そこで、融資をする金融機関としては、顧客の最善の利益に適うのは、経営改善の助言をして、必要な支援もして、必要運転資金を最小化し、顧客の財務体質を強化することになります。しかし、それだけでは、金融機関自身の最善の利益にはなりません。金融機関と顧客とに共通する最善の利益は、顧客の事業が成長し、その結果として融資量が増えることですから、金融機関の課題は、顧客の事業の成長支援へと展開するわけです。
 
融資しないことで、顧客の最善の利益に適う場合があるでしょうか。
 
 信用金庫業界において、指導的役割を果たした小原鐵五郎の名言に、「貸さぬも親切」があります。金融機関として、顧客の資金使途を中立冷静に評価したとき、顧客の真の利益に反する事態が生じ得ると予想されるときは、融資すべきではないという主旨です。
 この名言の典型的な適用事例は、昭和の末期において、不動産投機の資金需要に融資しなかったことです。融資しないことで、顧客は破綻を回避でき、金融機関は不良債権の発生を防止できたのですから、そこに両者に共通する最善の利益があったというわけです。
 ≪ 関連する論考をご紹介いたします ≫
銀行が融資先の企業価値を高める努力をする担保法制の創造(2024.4.11掲載)
「事業性融資の推進等に関する法律」の積極的な活用により、債権者は適切な支援を通じて企業価値の向上に関与し、債務者は事業価値の向上を図ることが可能となります。こうした取り組みにより、双方にとっての共通利益が生まれる状況を創出する必要性について論じています。

顧客の最善の利益を勘案することは金融機関の真の営業戦略だ(2024.6.20掲載)
個人顧客と金融機関との共通価値の創造は対話によって生まれます。共通価値が創造されるような対話とは、金融サービスの範囲を超えた領域に踏み込むことで初めて成し得ます。

保険理論から金融における顧客の最善の利益を考察すると(2024.12.19掲載)
保険の本質とは、使われないことで保険者と顧客との双方の最善の利益を実現することです。本コラムは、融資の担保提供や株式発行を企業の保険と捉えたとき、資金提供者として為すべきことを整理する参考になります。
(文責:林)

次回更新は、7月17日(木)になります。
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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。