商業が芸術の域に達するとき

商業が芸術の域に達するとき

森本紀行
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企業が商品を生産しても、その段階では価値は創造されず、価値は、商品が顧客に販売され、顧客が消費したときに、顧客のなかで創造されます。これは商品の普遍的原理であると同時に、商品生産者が常に忘れていることであって、革新とは、要は、基本原理にたち返ることにほかなりません。
 
 美味しさは、美味しいモノに内在しているのではなく、食べる人の味覚のなかで創造されます。つまり、美味しいモノはなく、美味しく食べるコトしかないのです。しかも、味覚は、他の全ての感覚、全ての精神の働き、食べるモノについての全ての知識と記憶、食べる環境を構成する全ての要素と不可分に結合して形成されます。
 例えば、料理店においては、料理と、その盛り付けはもちろんのこと、料理人の人柄と経歴、給仕する人の食材と調理方法についての物語、その所作振る舞い、内装と食器、背後に流れる音楽に至るまで、料理店を構成する全ての要素が味覚を刺激して、顧客のなかに美味しさを創造し、美味しさは動員される要素の数に比例して増加します。
 故に、美味しい料理というモノを供する店はなく、料理を美味しく供する店、即ち顧客を適切にもてなして美味しさを感じさせる店があるだけです。同様に、子供のときの懐かしい記憶に結び付いた食べもの、旅先で食べる土地の名物、激しい運動の後の水、空腹のときに食べるもの、季節の旬のもの、有名店の菓子などは、いずれも美味しいのですが、それは食べモノが美味しいのではなく、食べモノにまつわる物語や、食べるコトを美味しくする特別な環境と条件が美味しいのです。
 
では、美味しさを創造するのは顧客であって、料理店ではないということでしょうか。
 
 料理店は美味しさが創造されるための原材料、環境、情報などを提供するだけで、それらを使って美味しさを創造するのは顧客です。少なくとも、そのように発想することが商業の基本であり、真の顧客本位なのであって、需要優先の経済学の理論にも適うことです。
 逆に、料理店として、美味しいのは自分の供する料理であって、自分が価値を創造していると思うのならば、それは典型的な供給側の論理であって、顧客の味覚に応えるという商業の本質に反して、自分の味覚を顧客に押し付けているにすぎないわけです。しかし、こうした傲慢で自分本位な勘違いは、料理店に限らず、全ての商人が簡単に陥る罠なのであって、故に、常に顧客本位の徹底が叫ばれるのです。
 
しかし、需要が商品の価値を創造するのか、商品の価値が需要を喚起するのかは、一概にいえないのではないでしょうか。
 
 その問題は、要は、商品の消費という一つのことについて、二つの方向からの説明が可能だというにすぎません。つまり、現在の瞬間は、未来の起点であると同時に、過去の終点なのです。未来へ向けて顧客が消費した瞬間に、消費されたものは商品となって、その価値が創造され、価値が創造された瞬間に、価値は既に過去から商品に内在していたことになるのです。
 例えば、高級なホテルや旅館は、宿泊という実用的な価値を提供しているのではなく、ホスピタリティ、即ち、おもてなしという高次の文化的な価値を提供しているなかで、従業員が顧客に対して何かの行為をした瞬間に、その行為は動かし得ない過去の事実となりますが、未来へ向けての価値創造としては、それが非日常の世界における喜びを顧客のなかに生めば、おもてなしに昇華し、そうでなければ、過剰に慇懃で不自然な所作に転落します。
 
では、商人の立場からしたとき、価値創造は偶然に支配されるのでしょうか。
 
 商人は、顧客の真の需要を確実な事実としては知り得ない以上、また、多くの場合、顧客すら、それを明確には自覚していない以上、価値創造は偶然に支配されるほかありません。この偶然性については、それを理屈として承知している商人は必ずしも多くないとしても、誰でもが本能的には知っています。
 故に、商人は、知力を用いて消費行動を予測するために、顧客の過去の行動履歴の解析をしたり、顧客の諸属性と消費行動との有意な関連を求めたりして、この偶然性を必然性に転化しようとし、あるいは、正面から偶然性を前提にしたうえで、体力を用いて多く打てば多く当たるという理屈で、広告宣伝や積極的な営業活動を展開しているわけです。
 しかし、こうした努力は、多くの場合、自分の商品に適合する顧客を探すことに帰着し、供給側の論理のもとで、商人の自己本位を貫徹することになっています。これを顧客本位の構造に直すことは、例えば、顧客の行動履歴の表層にある特定商品への需要を発見することから、その裏にある真の需要を推測することへの転換、また、商品を売る営業から、商品開発のための情報を収集する営業への進化を意味します。
 
優れた芸術作品は必然的に鑑賞者のなかに美を創造してはいないでしょうか。
 
 美は、芸術作品のなかに可能態として内在していて、鑑賞者のなかに現実態として創造されるのですが、その創造は必然です。逆に、鑑賞者のなかに必然的に美を創造する力を可能態として秘めたものが真に優れた芸術作品なのです。長い歴史のなかで、優れた作品は、その力を全く失うことなく、常に見るもののなかに美を創造し、芸術家は、作品のなかに永遠の生命を保持し、見るものに生きて働きかけている、これは驚異というほかありません。
 芸術作品は、鑑賞者のなかに創造される価値を自己のうちに常に先に内在させているのですから、いわば完全な商品です。商人として、こうした芸術の域に達した商品を開発することは究極の理想ですが、永遠に果たし得ぬ夢です。なぜなら、芸術作品は世界に唯一無二であり、いかなる天才も制作し得る作品の数に限りがあるからです。つまり、芸術は商業に必要な規模に決して達しないのです。
 
ブランドとは、芸術作品に最も近づいた商品の称号ではないでしょうか。
 
 芸術作品に近い要件を備えた商品を大量生産しても、その価値が失われないとき、それはブランドを捺された商品と呼ばれるべきです。このブランドは、商人の経営努力の方向を規定する極めて重要なものであり、実際に、真のブランドとして通用する商品を開発できた商人は少なくありません。
 ブランドが優れているのは、商人が自己本位で商品を作って売ったとしても、それが真のブランドをもつ商品ならば、結果的に顧客本位になるからで、このことは、芸術家が自己の内部から沸き起こる感興と衝動に突き動かされて制作し、自己実現のために、自分自身のために、自分の全てをかけて仕事に打ち込んだとしても、その作品が真の芸術作品であるのならば、常に鑑賞者のなかに美を創造するものとして、徹底的に鑑賞者本位であるのと同じです。
 
商品に品質があるとしたら、ブランドが品質なのですね。
 
 芸術作品の芸術性が鑑賞者のなかに常に美を創造する力であるように、商品のブランドは顧客のなかに常に価値を創造する力であって、芸術性が作品の品質なら、商品の品質はブランドなのです。逆に、ブランドの域に達しない品質は、過剰品質の問題に象徴されるように、商人の自己満足であり、顧客不在の自慢話にすぎません。
 
芸術家の自己実現の先に芸術性があるのなら、商人の自己実現の先にブランドがあるのでしょうか。
 
 商業は、その基本において、顧客本位に忠実でなければならず、革新は常に商人の自己本位を顧客本位に戻すこととして実現されるのですが、実は、顧客本位からはブランドは生まれ得ないのです。ブランドは、商人の自己実現として生まれ、それが偶然性の神秘のもとでブランドとして確立したときに顧客本位に変異し、偶然性は社会の必然的進化として評価し直されるわけです。要は、ブランドは芸術なのです。
 
では、起業も芸術でしょうか。
 
 起業は、それが成功した限り、商人の自己本位が氾濫する社会において、結果的に顧客本位の要素があったからであり、故に、社会的必然として成功したと考えるべきですが、顧客本位を自覚的に意図して起業が成功したとはいえません。起業の成功は、起業家の自己実現と偶然性に支配されていて、失敗する厖大な起業のなかで、稀に成功した起業は芸術なのです、ちょうど、凡作の巨大な山の頂点に芸術があるように。
 
以上



次回更新は2月4日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2020/12/17掲載「隅田川は羊羹のように流れて観光業に至る
2020/01/30掲載「ヒトでなしの顧客にモノを売ってどうする
2015/01/08掲載「稀少すぎて値もつかない本
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。