隅田川は羊羹のように流れて観光業に至る

隅田川は羊羹のように流れて観光業に至る

森本紀行
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「夜半の隅田川は何度見ても、詩人S・Mの言葉を超えることは出来ない。-「羊羹のように流れている。」」、芥川龍之介の最晩年の小品「都会で」にある警句です。夜の隅田川を羊羹に喩えるのは詩人の優れた感性ですが、東京湾河口部において隅田川に流れはなく、流れないからこそ羊羹なのです。
 
 芥川龍之介は、1927年7月24日未明、致死量の睡眠薬を仰いで自殺しますが、その直前の3月に、「都会で」と題された小品を公表しています。それは14個の短い警句からなる片々たる作品で、冒頭に引いたのは、その10番目のものです。詩人S・Mとは、親しい友人であった室生犀星のことだと解されています。
 大都会を流れる川は、東京の隅田川にしろ、パリのセーヌにしろ、ロンドンのテムズにしろ、透明な水が明るく軽やかに流れる下に河床が透けるものではなく、大きな船も遡行できるだけの深度をもって、暗く水を湛えています。特に、隅田川は、東京湾の河口なのですから、海に流れるという言葉を用い得ないように、とても流れていると評せるものではありません。そして、夜ともなれば、直線に伸びる高い壁をなす河岸に画されて、動きのない静かな川面に街の灯を映すのです。
 夜の隅田川に、見るともなく、ふと目をやったとき、そこに見出された鈍く黒く光る帯を羊羹と観ずるのは、詩人の優れた感性です。しかし、感性は直ちに理性の働きに凌駕されて、羊羹は消え去り、隅田川にとって代わられます。そして、ひとたび川として認識されれば、流れていないからこそ羊羹だったものは、羊羹のように流れ始めるのです。
 
まさに俳諧ですね。
 
 室生犀星も、芥川龍之介も、長い歴史をもつ日本の言語芸術の優れた継承者でした。俳諧は、江戸時代に興ったもので、鋭い感性の働きで捉えた心象や感情の動きを、直ちに知的な機転によって軽いおかしみに変換するところに芸術性があって、羊羹が隅田川になるように、その落差が大きければ大きいほど、面白いものになるのです。
 例えば、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」では、おそらくは暗闇において、静寂を破る小さな音を聞き、そこに不安が生じるものの、原因の蛙に思い至って不安は解消し、おかしみに転じるわけです。「五月雨をあつめて早し最上川」も同じで、怒涛の奔流を前にして、引き込まれるような恐ろしさを感じたところで、増水の原因として上流部に降った五月雨を思いつき、納得するところが面白いのです。
 つまり、俳諧は、感動を精神的に純化して詩に高めるものではなくて、感動を知的に分解して、日常生活のうちに低め、おかしみとして、その落差を楽しむものなのです。それでも、俳諧が芸術であり得るのは、おかしみとしての落差は、原初の感動が高い詩の領域にない限り、生じ得ないからです。
 
日常生活のおかしみといえば、俳諧は現代の企業経営に役立つのではないでしょうか。
 
 経済成長の初期段階においては、成長が所得の増大をもたらし、所得の増大が消費を刺激して更なる成長につながるという好循環が働きます。そのなかでは、家庭電化製品が代表であったように、モノの付加価値を高めることは、価格も高くなることを打ち破って、豊かさの幻想を求める消費者の需要を誘発し得たのです。
 しかし、所得水準が一定段階を超えて、消費生活に充足感が現れると、豊かさの幻想は消え去り、消費は飽和し、モノには必要な機能と、それに見合う低価格だけが求められるようになります。こうして、モノは消費の刺激剤として機能しなくなり、経済は成長の原動力を失う、これが成熟社会の現実です。
 この事態を打開するためには、従来型の成長軌道をディスラプトdisrupt)して、即ち、過去の自然な延長としての進行を停止して、新しい軌道への乗り換えを模索するほかありません。新軌道には様々なものがあり得るでしょうが、代表的なものは、モノからコトへの転換、経済成長そのものの他の価値観による相対化、環境等の絶対的価値による産業構造改革などです。
 なかでも、モノからコトへの転換において、俳諧は重要な意味をもちます。例えば、美味しいモノから、美味しく食べるコトへの転換とは、美味しく食べるコトを通じて、美味しいモノが見いだされる価値創造の現場、即ち、単なる食材としてのモノが美味しいモノに変化する瞬間に着目することなのですが、その瞬間においては、俳諧の原理が働いているのです。
 
美味しさは、俳諧のおかしみと同じように、知性が作るということですか。
 
 1キログラムの金の地金は蒲鉾の板くらいの大きさです。それを受取ろうと手を差し出すとき、人は、その大きさを認知し、更に金属であるとの理解のもとで、重量を予測して筋肉に適当な力を入れていますが、初めて金地金に触れる人にとって、実際に手に感じる重量は必ず予想を上回ります。なぜなら、金は最も重い物質だからです。そして、実際に手が感じる重量と、事前に手が期待していた重量との間にある落差は、金という物質の特殊性を瞬時に了解させて、大きな感動を呼び起こすのです。
 同様に、食べるコトを楽しむ空間としての飲食店は、一般には高級店であって、そこで供される食材とワインや日本酒等の飲み物は、季節、産地、作り手などに関する多様で多彩な物語をもっています。食べる人は、その物語を聞くことで、自分なりの期待を形成し、事前に味覚を制御しますが、実際に食べたときに感じる味は、よくも悪くも、期待とは異なります。いうまでもなく、よい方向に期待を裏切るのが一流店なのです。
 
正確にいえば、俳諧ではなくて、逆転された俳諧ですね。
 
 俳諧のおかしみは、感性的に把握されたものを知性的に解釈することで生まれますが、美味しさは、知性的に期待されたものが感性的に凌駕されることで生まれますから、確かに逆転された俳諧です。しかし、共通しているのは、感性的なものが知性的なものに優越する点と、芸術の域に達するためには、両者の差を大きくする必要のあることです。
 
観光についても、同じことがいえないでしょうか。
 
 観光こそ、コトからモノへ転換しなければならない代表的産業です。観光地とは、見るべきモノ、楽しむべきモノ、食べるべきモノがある場所ではなくて、見るコト、楽しむコト、食べるコトを提供する場所なのであって、食べるコトを楽しむ飲食店の空間と何ら変わるものではありません。
 故に、観光地とは、多様で多彩な物語をもつモノの集積地であり、そのモノとは、景観であり、歴史的な建造物、古跡、遺跡であり、釣り、農作業、探検、探勝、スポーツ等の活動の適地であり、食材等の特産品なのですが、観光とは、モノについての物語によって期待を形成させることで集客し、期待を超える実体験を提供することで、繰り返し訪問する固定客を得ることでなければならないのです。
 
モノが集客するのではなく、物語が集客するのですね。
 
 貧しい時代には、至るところに集客のためのモノが設置され、それらの捏造されたモノの浅薄な物語すら一定の集客力をもったのですが、豊かな時代となった今では、逆に、真の物語をもつ多くの魅力あるモノを覆い隠しています。故に、観光の課題は、真のモノをして自然に語らしめ、人に期待を抱かしめ、コトをして期待を超えさせることなのです。
 
飲食店という空間は、ひとりの経営者が自由に設計できますが、観光地という空間の場合には、あまりに広く、外延を画すものがなく、多数の関係当事者の利害が錯綜するなど、困難があるのではないでしょうか。
 
 観光地は、景観を含めた物語を紡ぐモノの集積として、また有機的に結合したコトを体験する場として、一体のものですから、何らかの一体性の基礎を必要とし、常識的には、それは一定範囲の土地として定義され、その土地に根拠をもつ権限の行使によって、管理統制されるほかないのです。
 実際、ディズニーランドは、豊かな物語に富んだモノとして期待を集め、期待を裏切らないコトの体験を提供することで成功しているのですが、それだけでなく、一つの企業が全てのモノを所有して管理運営している点が重要です。
 一般の観光地においては、土地の所有権を集中することは不可能であり、それに替わる方法を工夫することも容易ではありませんが、難しい課題を解決するためにこそ政治の働きがあるのですから、成長戦略の一翼をなす重要な施策として位置づけられれば、何らかの解に至るはずです。
 
以上


 
次回更新は、12月24日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2019/12/26掲載「夢を見る能力のない人は投資するな
2019/03/14掲載「To the happy few 創造は狂気だ
2019/02/07掲載「働き方改革は遊び方改革だ
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。