作文能力の低さが生んだ老後2000万円問題の悲喜劇

作文能力の低さが生んだ老後2000万円問題の悲喜劇

森本紀行
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奇怪至極なことに、金融審議会の市場ワーキング・グループによる「高齢社会における資産形成・管理」と題する報告書が大きな政治問題になりました。理由はどうあれ、予想外に広く読まれたことを関係者は多とすべきですが、誤解されたにせよ、曲解されたにせよ、主旨が伝わらなかったのならば、まとめ方に適切さを欠いていたことに間違いないわけで、さて、この報告書のどこがおかしいのか。

 6月3日に公表された問題の報告書については、その内容を論評する前に、そもそも、どのような背景をもち、いかなる目的のもとで作成されたのか、そして、現時点での位置づけはどうなっているのかが正しく理解されなくてはなりません。
 まずは位置づけですが、これは金融審議会の報告書ではなくて、その傘下に設置された市場ワーキング・グループの報告書なのであって、報告の宛先は政府ではなくて、金融審議会の総会なのです。つまり、まさにワーキング資料、即ち、総会に付議されるべき過程にある作業資料だということです。故に、政府が正式文書として受け取らないのは当たり前であって、政府として受け取る立場にないというのが正しい表現です。これらの点については、6月13日の記者会見において、菅官房長官が明瞭に説明しています。
 従いまして、所管の麻生金融担当大臣が受け取らないのは不当だとか、もはや報告書はなくなったとか、消えた報告書だとか、あれこれと与野党の政治家がいうことは、発言の政治的意図は明瞭でも、あまりにも浅薄であって、政治の品位を貶めるものだといっていいでしょう。

政治家が騒ぐことで、金融審議会の総会の議論に影響を与えないでしょうか。

 政治的に報告書をなくすということなら、それができるのは金融審議会だけです。しかし、そのような愚かなことをしたら、中立的な有識者による諮問機関としての金融審議会の自殺行為となるでしょうし、もはや社会の秩序が保てなくなるでしょう。
 金融審議会がやらなければならないことは、主旨に反して誤解されやすく、曲解されやすく書かれた報告書の稚拙さと不適切さを全面的に正して、本来の目的に忠実にそったものに仕上げることです。つまり、そもそもの検討の起点にあったのは、「退職世代の金融資産の運用・取崩しをどのように行い、幸せな老後につなげていくか」という課題だったわけで、その課題に議論を限定すべきだということです。

議論は2017年の金融行政方針に遡るわけですね。

 金融庁は、2017年11月10日に公表した金融行政方針において、以下のように述べていました。
 「我が国の高齢化率は世界の中でも最も高い水準となっており、退職世代等に関する取組みが重要な課題であることから、退職世代の金融資産の運用・取崩しをどのように行い、幸せな老後につなげていくか、金融業はどのような貢献ができるのかについて、外部有識者の知見を活用しながら、検討を進める。」
 これを受けて、金融庁は、2018年7月3日に、内部で検討を進めてきた結果を「高齢社会における金融サービスのあり方」(中間的なとりまとめ)として公表します。問題の報告書というのは、実は、この「中間的なとりまとめ」を踏まえて、「個々人及び金融サービス提供者双方の観点から、2018 年9月から、計12 回議論を行い、その議論の内容を報告書として今回提言する」という経緯のもとで公表されたのです。
 更に、報告書は、敢えて公表する目的として、「本報告書の公表をきっかけに金融サービスの利用者である個々人及び金融サービス提供者をはじめ幅広い関係者の意識が高まり、令和の時代における具体的な行動につながっていくことを期待する」と述べているわけですから、報告書の主旨の埒外のことで有名になったにしても、おかげで広く国民に読まれたことにより、公表の目的は十二分に達したと考えられます。こうして、政治の愚劣さは愚劣な政治の意図に反して立派に役立つわけで、これが賢明な政治の本質でしょう。

そうしますと、報告書の領域は公的年金とは直接の関係がないということですか。

 報告書が「令和の時代における具体的な行動」といっているのは、「公的年金の受給に加えた生活水準を上げるための行動」のことです。つまり、報告書は、最低生活水準は公的年金によって確実に保障されるという基本前提のもとで、それを上回る生活水準を実現するためには国民の自助努力が必要であると国民に呼びかけているにすぎないのであって、この提言は、ご丁寧に有識者の方からご指摘いただくまでもなく、馬鹿馬鹿しいほどに当たり前のことです。
 しかも、報告書公表日の翌日、6月4日の記者会見において、麻生金融担当大臣は、「年金の話は厚生労働省の話であって金融庁の話ではありませんから、年金は年金、今のままできちんといろいろやっておられるのでしょうから、年金は年金で、プラスいろいろなことを考えなければいけないという話です」と述べて、報告書の主旨を正確に総括していたのです。
 ところが、政治問題化を狙った野党は、公的年金に加えて生活水準を上げるための自助努力を推奨している報告書の主旨を誤解もしくは曲解して、公的年金を補完して生活水準を維持するための自助努力の推奨ととらえることで、政府批判の材料に使ったわけです。
 これに対して、政府は、正面から反論することなく、報告書が用いた表現等に責任を転嫁し、確かに誤解を与え得る内容だったと認めました。つまり、報告書の論調においては、政府見解に反して公的年金を補完するための自助努力が必要だと解釈される余地があるとし、報告書は不適切であるとしたのです。

例の老後2000万円ですか。

 報告書は、「公的年金の受給に加えた生活水準を上げるための行動」についての提言としては、内容の良否はともかくも、それなりに筋が通っているのでしょうし、金融庁から委嘱された当初の課題にも忠実なのだと思われます。しかし、極めて残念なことに、現状分析と、そこから提言を導く論理構成は、著しく不適切な表現を含むものであって、杜撰、粗雑かつ稚拙です。なかでも決定的に不適切な個所は、政治問題化した核心部で、以下の引用の通りです。
 「60 代以上の支出を詳しく見てみると、現役期と比べて、2~3割程度減少しており、これは時系列で見ても同様である。
 しかし、収入も年金給付に移行するなどで減少しているため、高齢夫婦無職世帯の平均的な姿で見ると、毎月の赤字額は約5万円となっている。この毎月の赤字額は自身が保有する金融資産より補填することとなる。」
 この「毎月の赤字額は約5万円」には後の方で再度言及されていて、そこでは「不足額約5万円が毎月発生する場合には、20 年で約1,300万円、30 年で約2,000万円の取崩しが必要になる。」と述べられているのです。

その箇所だけをみれば、野党の主張は正当ではないでしょうか。

 まず、「高齢夫婦無職世帯」というのは「夫65歳以上、妻60歳以上の夫婦のみの無職世帯」のことで、その平均実収入約20万9千円の圧倒的部分は社会保険給付であり、他方、平均実支出は約26万4千円であって、そこに約5万5千円の差がありますが、同時に、平均純貯蓄額が2434万円もあって、その取り崩しによって差分が埋められているのです。そして、これも政治問題化したように、これらの数値の出所は厚生労働省なのです。
 さて、これらの数値や記述から、年金給付だけでは毎月5万5千円も不足し、高齢夫婦の平均余命を30年とすれば累積で2000万円も不足するとの結論を導き、政府は2000万円もの不足を補う努力を国民に押し付けているとの政治主張を展開することは、野党として、いとも簡単なことだったのです。

論点は、約26万4千円という実支出の意味ではないでしょうか。

 約26万4千円の実支出が最低生活水準を維持するために必須だというのなら、野党の主張は完全に正しいのです。しかし、報告書の前提からは、また政府の公式見解からも、公的年金給付によって最低生活水準は維持されているはずですから、差分の約5万5千円というのは、「公的年金の受給に加えた生活水準を上げるための」支出であるとするほかないでしょう。
 更に、より重要な論点は、報告書が指摘する通り、支出額と公的年金給付との差分については、「自らの望む生活水準に照らして」判断されるべきことで、そこは完全に個人の自己責任の領域だということです。つまり、「各々の状況に応じて、就労継続の模索、自らの支出の再点検・削減、そして保有する資産を活用した資産形成・運用といった「自助」の充実を行っていく必要があるといえる」わけです。
 つまり、報告書が国民に伝えたかったことは、公的年金で保障される生活水準以上のものを求める限り、勤労期間中、しかも若いときからの計画的で効率的な資産形成努力は欠かせないということであり、年金生活に入ってからの余命の長さを考えれば、資産取り崩し期間中も適切な資産管理の努力は欠かせないということ、ただそれだけの自明のことだったのです。

要は、差分の約5万5千円に関して、分析不足と表現の稚拙さが致命傷になったということですか。

 差分の約5万5千円について、何らの分析もなされていないことは、あまりにも杜撰です。しかも、「毎月の赤字額」、および、その赤字額を「金融資産より補填する」という表現を用いたことは稚拙の極みであって、書いた人間の作文能力の低さと、稚拙な表現が素通りしていく組織上層の感性の弛緩には、ただただ呆れるほかありません。
 報告書の前提からすれば、約5万5千円の差分は、やむなく資産取り崩しによって填補されるべき赤字なのではなく、豊かな生活のための追加支出に応じて能動的に資産を取り崩した結果なのですから、その意味が明白になるように丁寧に説明され、慎重に用語の選択がなされるべきだったのです。

赤字という表現には、書いた人間の本心が出ている可能性はないですか。

 赤字と書いた人間は、実は、作文能力が低いのではなくて、公的年金給付だけでは最低生活保障を賄えないと自分自身の内心で思っていたところ、心根の素直な善人だったことが災いして、つい本心で赤字と書いてしまった、そして、組織上層においても同様の思いがあったので、その表現が素通りしていった、これは究極の可能性として、大いに野党を元気づけるものです。さて、どうなのでしょうか、作文能力の低さなら喜劇ですが、本心の吐露だとしたら悲劇になってしまいますけれども。

以上


次回更新は、6月27日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2017/06/15掲載「高齢者に対する正しい資産管理営業
2017/05/11掲載「お金の貯め方改革と生き方改革
2016/10/27掲載「投資のリスクは生活のリスク
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。