銀行員がいなくなる日のために

銀行員がいなくなる日のために

森本紀行
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株式会社に勤務する人は会社員と呼ばれますが、銀行という株式会社に勤務する人だけは銀行員と呼ばれます。これは、銀行が特別なものであり、銀行員が特殊な人種と看做されてきたからでしょうが、社会の進化で銀行が不要なものになるとき、特殊な職業でなくなった銀行員はどこへ行って、どのような職業に就くべきなのでしょうか。

 銀行が不要になっても、銀行が現に演じている重要な社会的機能が不要になるわけではありません。むしろ、銀行機能は、もはや銀行ではない普通の事業会社から提供されることによって、より強化され、より効率化されるのだと考えられます。ですから、銀行員と呼ばれる人は、顧客の利益のために銀行の仕事をしている限り失業することはないのですが、逆に、銀行の存在を自明視し、銀行のために働いているのなら失業するに違いありません。

銀行はなくなるのでしょうか。

 銀行はなくならないでしょうが、銀行でなければならないという銀行機能の特権性は大幅に縮小すると思われます。現在でも、融資、資金決済、投資信託や保険の販売など、銀行でなくともできる業務は少なくありませんが、逆に、銀行でなければできないこと、即ち銀行の本質を規定するものを考えると、預金業務しか残らないと考えられるのです。実は、銀行とは預金取扱金融機関のことなのであって、逆に、信用金庫等、名称の異なる金融機関も、預金取扱金融機関である限り、本質を銀行と共有するものなのです。
 つまり、銀行は、法律により預金という特権的機能を提供するものとして、特別な存在であり、預金が存続する限り、それに特化したものとして存続すると考えられますが、逆に、預金に付属している業務は銀行から離れていくことになると考えられるわけです。
 そこで、銀行の本質が預金だとしたときに、預金とは何かという自明のようで不明な問いに明確な答えが与えられなければならないのです。そして、その結果、預金が長いこと演じてきた機能について、歴史的使命を終えつつあり、それに替わって、より効率的なものが現れつつあるのなら、銀行は最終的に消滅に向かうのですし、決してなくなり得ない預金の固有機能があるのなら、それに特化したものとして銀行は存続するのです。
 要は、銀行が特別な存在なのは預金が特別な存在だからであり、預金が特別なものでなくなるのならば、銀行は単なる事業会社になって、銀行員は消滅して単なる会社員になるということです。

預金とは何でしょうか。

 いくつかの答え方があるでしょうが、預金が第一義的に何なのかといえば、おそらくは、お金の存在形態なのだと思われます。つまり、お金の存在形態には、日本銀行の発行する紙幣という物質形態か、預金という銀行勘定に記録された電子情報形態か、この二つしかあり得ないのだと考えられるのです。
 そして、紙幣という物質形態は消滅に向かう可能性が高いのですから、お金の唯一の存在形態として、故に特権的なものとして、預金は不滅なのでしょう、ただし、お金の電子情報的存在形態に純化した預金は、もはや預金とは呼ばれなくなって、紙幣に替わるものとして端的にお金と呼ばれるのではないかと予想されるわけですけれども。

では預金は決済手段でしょうか。

 預金は単なる決済手段ではなく、最終的な決済手段なのだと考えられます。所詮は、お金は電子情報ですから、情報処理に階層を設けてもいいわけで、決済は、電子マネーその他、いかなる名前で呼ばれようとも、預金ではない情報として処理され、最終的な決済尻だけを預金で処理すればいいわけでしょう。
 これがフィンテックの重要な分野として急激に進行している技術革新ですが、どのような決済手法がとられても、最終的な決済尻だけは預金で処理するほかない、そこに預金の本質的な存在意義があり、逆に、そこにしか預金の存在意義はないわけです。

それならば、民間銀行を全て廃止し、国民全員が日本銀行、もしくは、それに替わる一つの特殊な国営銀行に、各自一つだけ口座をもてばいいのではないでしょうか。

 未来社会においては、そうなっているのかもしれません。そのほうが国税庁には都合がいいでしょうし、社会保険料等の収納も確実になるでしょう。しかし、国民の家計情報が完全に国家に掌握されている社会というのも不気味ではないでしょうか。また、預金には信用創造機能があって、そこに民間銀行の存在意義があったことも見逃せません。
信用創造というのは、銀行が預金を原資に融資をすると、債務者の預金勘定が増加し、その増加分が更に融資原資になるという仕組みであって、仮に、預金のうち二割を銀行が留保するとしたら、預金は五倍に増幅されるということです。この機能は、経済が成長過程にあって、構造的に産業界の資金需要が国民貯蓄を上回っているときには、極めて重要なものです。ということは、逆に、現在と未来の日本の経済情勢を展望したとき、なお必要かどうかは検討に値するということでしょう。
 もう一つの預金の重要な側面は、信用創造という重要な機能を前提にして、日本銀行の金融政策の舞台として使われてきたことです。預金機能を決済の最終基盤にまで縮小させるとき、日本銀行の金融政策は何を道具に実行されることになるのか、ここにも大きな問題が潜んでいると思われます。
 そして、最後に、以上のような預金の重要性に鑑み、「預金保険法」という法律が制定されていて、民間銀行の預金に国家の制度による元本保証を付していることの意味も再考されなくてはなりません。いずれにしても、自明視されてきた預金の機能について、改めて本質的で抜本的な検討がなされなくてはならない時期にきているのです。

金融庁が推進する金融の資本市場化の方向は、信用創造機能を縮小することではないでしょうか。

 銀行を経由する金融構造においては、国民貯蓄は銀行預金となり、銀行は預金を原資にして産業界に融資をすることになります。この場合、預金の信用創造により、資金需要に対して相対的に小さい国民貯蓄を増幅させることが金融制度設計の鍵になります。
 これに対して、資本市場を経由する金融構造においては、産業界は株式や社債等を発行することで資金調達をし、国民貯蓄は、それらを直接に取得することで、または投資信託を通じて取得することで、運用されることになります。この場合、個人預金が法人預金に振り替わるだけで信用創造は働かず、資金需要に対して相対的に大きい国民貯蓄のあり方に対しては適切な金融制度設計になるのです。故に、金融行政として、銀行機能を縮小させて資本市場を強化しようとすることは、甚だ理に適ったことなのです。
 そうしますと、銀行で働く人の立場からすると、伝統的な銀行の仕事は少なくなり、株式や社債等の引受と販売に関する投資銀行業務、投資信託等の運用を行う投資運用業務、その投資信託を投資家に販売する業務などが拡大するということですから、銀行員としてやっていけなくなる人が増えるということです。
 しかし、構造と形式は変わっても、金融の本質は変わらないわけですから、金融の社会的意義に忠実に、顧客の利益のために働いている人にとっては、銀行員の縛りから解放されて伸び伸びと仕事ができるわけであって、大変に望ましいことなのですが、金融の社会的意義を弁えず、銀行の利益のために働いている人は、次第に行き場を失っていくのです。

銀行の利益のために働くといえば、典型的に投資信託の販売業務ですか。

 金融の構造改革のなかでは、投資信託が決定的に重要な役割を担います。改革を図式的に表現すれば、融資から社債と株式へということになり、これを反対側から表現すれば、預金から社債と株式に投資する投資信託へということになるからです。しかし、預金には制度的な元本保証があるのに対して、投資信託には元本保証がない以上、それに替わる品質保証がない限り、金融行政として、軽々に預金から投資信託へといえるわけもありません。
 そこで、金融庁は、投資信託の品質保証の要諦として、銀行にフィデューシャリー・デューティーの徹底を求めたわけです。フィデューシャリー・デューティーというのは、専らに顧客の利益のために働く義務であって、金融庁は顧客本位の業務運営という表現でも呼び変えています。
 つまり、逆にいえば、投資信託の運用も販売も、銀行の利益のためになされてきたとの認識を金融庁がもっているということです。即ち、代表的には、銀行の経営姿勢において、販売手数料の増収のために投資信託の購入と解約を繰り返させる、運用内容の優れた投資信託よりも銀行の立場から売りやすい投資信託ばかりを販売するなど、顧客の利益に反する傾向が強かったということです。

そういう銀行の利益の立場で仕事をしてきた銀行員に、未来はないということですね。

 そもそも投資信託の販売は、銀行の業務である必然性は全くないのです。それを銀行の業務として認めてきたのは、金融行政の立場からいえば、そのほうが顧客の利便性が向上するからです。つまり、個人貯蓄の適正な保有構造を考えたとき、貯蓄手段としての預金は極めて力が弱いわけで、預金のほかに広い投資対象を銀行に扱わせることで、顧客の真の需要にあった資産配分の提案ができるようにすることが真の目的だったはずです。それが目的から乖離して、銀行の利益創造のための道具に堕してしまったというわけです。
 ところが、もはや預金の貯蓄手段としての機能は何も残っていないわけで、預金に付属させて投資信託の販売を行う意味は全くないことがわかります。今後、真の顧客の利益のために投資信託を販売する方法を考えるならば、銀行から完全に独立した業務として構成されるべきでしょう。
 そのとき、真の目的も弁えずに、銀行が定めるノルマをこなすことに専念してきた銀行員は、顧客の利益のために何らの価値をも生んでいなかったのですから、生き残れないでしょう。しかし、投資信託販売の真の目的を理解し、銀行経営との間で矛盾に苦しんできた銀行員には、銀行員ではない投資信託業務の専門家としての明るい未来が開けるはずです。

投資信託に限らず、融資など全ての銀行業務に同じことがいえますね。

 融資業務は、融資業務としての固有の専門性をもち、銀行でなくともできる業務です。銀行が先にあって融資業務があるのではなく、効率的に、適切に、顧客の利益のために融資業務を行うという課題が先にあって、銀行の存在意義があるのです。この理屈に従って仕事をしている人は、銀行員ではなく、融資の専門家と呼ばれるべきです。
 こうして、銀行の全ての業務について、顧客の利益の視点に立って銀行の存在意義を再考し、それぞれの専門分野で顧客の利益のために働く人の集合として銀行を再構成するとき、銀行は蘇りますが、それを特別に銀行と呼ぶ必要はなく、証券会社、保険会社などと同じく、単なる金融事業会社と呼べばいいでしょう。こうして、銀行員は完全に消滅するのです。



以上


次回更新は、5月30日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2018/08/23掲載「銀行で投資信託を買った人の46%が損をしていることについて
2018/05/10掲載「無用になった銀行が消えた後に残る必要なもの
2018/03/01掲載「銀行はカネをやめてモノ、ヒト、チエ、コトを貸したらどうだ
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。