会社員という職業がなくなる日のために

会社員という職業がなくなる日のために

森本紀行
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • mixiチェック
そもそも会社員という職業はあるのでしょうか。もしも職業という言葉が何らかの専門性のある業務に従事することを意味するのなら、会社員は職業ではなく、単に会社に雇われている人の従属的立場を意味するだけです。ならば、働き方改革において、働く人を主語にしていることの意義が真に理解されるとき、会社が人を雇うという会社中心主義は滅び去り、会社員はなくなり、いずれは会社自体もなくなる日が来るのではないでしょうか。

 働くこととは何かといえば、何らかの社会的な付加価値を創造することが先にあり、価値が創出される結果として、その価値に見合った報酬を受け取れるということでしょう。逆に、生活するために働いて報酬を得ることが先にあるとしても、報酬を得られるためには何らかの社会的付加価値を創造しないわけにはいきませんから、どちらが先でも同じことです。同じことなら、生きがい、働きがいは社会的意義を担うはずでもあり、働くこととは社会的付加価値を創造することだといっておいたほうがいいでしょう。
 このことは、例えば、もの作りの職人のように、自分の労働の価値が作品に順次に化体していき、それが完成して販売され、社会の需要を満たすことで金銭価値に転嫁する過程を実感できる場合には、あまりにも明瞭であり、そこに職人の誇りと生きがいを容易に見てとれますが、さて、会社員として働くときには、職務として自分に割り当てられた業務が社会的付加価値を創出する過程を実感することは簡単ではありません。

職人が自然人なら、会社は法人の職人ではないでしょうか。

 靴職人が個人として社会的必需品の靴を作るのであれば、働いて価値を創造する過程は単純で、職人は働きがいを実感できるでしょう。靴製造が企業化しても、靴製造会社は、社会的必需品の靴を製造している限り、法人としての職人であることに変わりはありません。
 しかし、心をもたない法人に働きがいを認めることはできないですし、その意味もありません。また、靴会社で靴製造に従事する職員は、独立した靴職人と同じ働きがいを感じることはないでしょう。なぜなら、会社として創造した社会的付加価値を全職員について各自の貢献寄与度に応じて分解することは、理論的な理想としては観念できるにしても、現実的には至難のことだからです。

しかし、その至難のことを可能にしない限り、働きがいの回復という意味の働き方改革は実現しないのではないでしょうか。

 会社として創造した社会的付加価値の構造を解析して、価値創造過程に従事した各職員の貢献度を測定することは、貢献度に応じて職員の処遇を合理化する努力として、解析の精度の問題こそあれ、どの会社でも理念的には取り組まれてきたことであって、働き方改革とはいっても、要は、その努力に一層の拍車をかけるというだけのことです。
 なにしろ、働きがいの大きな部分を占めるものは、自分の労働に対して正当な対価を得ているという実感です。このことは、靴職人の働きがいは、自分が丹精をこめて作った靴に対して、その価値に相応した価格がつくことにあるだろうことを考えれば、容易に理解できます。
 この際、重要なことは、分析の精度ではなくて、各職員が納得できることです。靴職人は、顧客の要求に合わない靴を作っても値が付かないことを知り、顧客の満足が高いほど高い値がつくことを理解していて、だからこそ、そこに職人の誇りと働きがいが生じるわけですが、職人は顧客の満足を分析測定して値をつけているわけではなく、値がついていることから顧客の満足を推測して納得しているだけなのです。

労働の価値について、正当な対価ではなく、納得できる対価が与えられるべきだということでしょうか。

 経済取引において、正当な対価というのは、市場において形成される価格だといわざるを得ません。実際、靴職人は、靴を市場に出して、そこでついた価格をもって、自分の労働の対価だと納得しているわけです。ところが、会社の内部においては、労働を市場化して価格をつけることはできませんし、また、分析によって理論値を推計することにも実務的困難が伴います。
 さて、市場価格は、多数の人が自由に参加できる市場において事実として形成されたものであって、故に誰もが受け入れざるを得ないものとして、正当であるわけですから、論理を逆転させて、誰もが受け入れざるを得ないものをもって、正当な価格としても差支えないでしょう。それが納得できる対価です。
 例えば、二人の間でケーキを公正公平に分ける方法を考えます。正しい二分割に最も近似するのは、ケーキをミキサーにかけて均質にし、精密な秤で等重量になるように二分割することでしょうが、これでは、ケーキを分けて食べるという目的に反します。そこで、両者の合意により、片方の人が適当に包丁を入れて二つに分け、他方の人が先にとることにすれば、両者が納得できる二分割となり、合目的的な正当性を実現できます。
 同じような合意を形成する工夫によって、会社側の労働の成果に対する評価と職員の自己評価とを突き合わせ、両者の対話を通じて職員の納得を得ようとする努力は、程度の差こそあれ、どの会社でも行われているはずです。貢献の測定の緻密化と並んで、この対話の深化は働き方改革の重要な方法論になることでしょう。

しかし、究極的には、働き方改革においては、労働の市場化を目指すべきではないでしょうか。市場化によって、労働の対価の公正公平な市場価格を形成すべきではないでしょうか。

 労働契約は極めて特殊な経済取引です。つまり、そこでは、雇用者の優越的地位を前提にして、雇われる人、働く人の立場を社会的公正の見地から保護するように、高度に規制されているわけですから、そこに経済取引一般の市場原理を導入しようとすることは、雇用者の利益の立場からする規制緩和のように誤認される恐れがあります。故に、労働の市場化といわずに、働き方改革というのです。
 実際、雇用法制の基本構造は、働く人の会社に対する従属的地位を認めたうえで、働く人の保護を図るようになっているのに対して、働き方改革は、働く人の主体的地位を回復したうえで、働く人と雇う人との関係を新たに規制するものになっていて、例えば同一労働同一賃金というとき、正規雇用か非正規雇用かという地位の差にかかわらず、社会的に創造された付加価値が同じなら、報酬も同じでなければならないとする考えに立脚しているわけですから、これを市場原理の導入と呼んでも間違いではないのです。

市場化とはいっても、同一労働同一賃金というとき、現状では、一つの会社のなかでのことをいっているのではないでしょうか。

 それはそうでしょうが、他方で、雇用の流動化を考えるとき、同一労働同一賃金は、一つの会社を超えて、社会一般の原理になることは間違いないでしょう。逆に、同一労働同一賃金が社会一般の原理になることは社会的公正の実現なのですから、その方向に雇用の流動化を促すことこそ、政策としての働き方改革の目指すべきことです。

もしも社会全体で同一労働同一賃金が実現すれば、その同一労働こそ、職業といえるのではないでしょうか。

 そもそも同一労働といえるためには、労働内容、即ち仕事、あるいは職務が相互に区別できるように十分に明確に定義されていなくてはなりません。そうでなければ、何が同一で、何が不同一なのか判断できないからです。実際、同一労働同一賃金の裏側の意味は不同一労働不同一賃金なのですから、同一性の判断は決定的に重要です。
 おそらくは、少なくとも理屈上は、正規雇用の人と非正規雇用の人との間で同一労働同一賃金が成立していないことについては、同一とは見かけ上の問題で、正規雇用の人は目に見えない固有の付加価値を創造しているのだから不同一なのだと説明するほかないでしょう、仮に、それが詭弁にすぎないとしても。
 さて、同一労働といえるとしたら、その労働は、明確な定義をもった職務なのですから、職業とよばれるべきです。だとすると、その職業に従事する人は、靴職人と同じで、自分が創造した社会的付加価値に見合った報酬を貰うものとして、そこに誇りと働きがいを感じるに違いないのです。
 こうして、会社員という職業はなくなっていき、具体的な内容をもった職業に従事する人が生まれる、そして、会社があって、そこに従属する人がいるという現在の構造は、様々に異なる職業に主体的に従事する人があって、それらの人の集合として会社があるという新たな構造へと変わっていくのでしょう。それが働き方改革の本質的な方向でなければなりません。

その前提として、会社の業務を独立した職務に分解し、新たに職務の有機的連結として再構成しなければならないのでしょうが、それは可能でしょうか。

 働く人の働き方改革を実現するためには、雇う会社の雇い方改革が先行しなければならず、その雇い方改革とは、職務を明確に切り分ける業務構造の抜本的な改革でなければならないでしょう。そして、そうした業務改革を行う人は、それに必要な専門的知見を有するものとして職業人であり、改革を主導する経営者も経営という職業に従事する職業人でなければならないのです。
 働き方改革は、必然的帰結として、その究極においては、会社員という曖昧なものを消滅させ、同時に会社員の延長にすぎない現在の経営者を一掃し、職業としての経営を明確化し、それに専門的に従事する職業人としての経営者を創出し、その経営者をして、様々な専門的知識と経験をもって様々に異なる職業に従事する多種多様な人を統括させて、一つの事業を営む真の会社を経営させることになるのです。

そうした段階においても、なお会社という仕組みは必要でしょうか。

 会社の起源においては、社会の必要から事業が構想され、その事業を遂行するために会社が作られたはずなのに、現在の会社は、会社が自明の存在として先にあって、会社の論理で事業を営むという倒錯に陥っています。
 改めて原点に返り、社会の必要から事業を構想し、その遂行の方法を考えるとき、現在の金融と情報処理の技術環境からすれば、会社は多様な選択肢のなかの古色蒼然たるものの一つにすぎず、より優れた方法を見出すことができるはずであって、おそらくは、働き方改革の最終目標は会社をなくすことになるのです。



以上


次回更新は、5月23日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2016/04/21掲載「弁護士はフィデューシャリーとして喜んで成仏すべきか
2013/08/29掲載「給料等の報酬は何の対価か
2013/05/16掲載「企業は誰のものか
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。