投資判断を合議で決することは不可能である

投資判断を合議で決することは不可能である

森本紀行
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • mixiチェック
投資判断は、いかに合理性を追求しても、不確実な未来に賭ける要素を払拭し得ないものです。年金基金等の機関投資家は、組織の意思決定機関をもつから機関投資家と呼ばれるのですが、さて、賭けを機関の合議で決めることができるものでしょうか。そもそも、一般に、集団で論じて具体的な結論を得ることができるのか、合議による決定とは何か。
 
 どのような組織にも、組織である以上は意思決定機関があります。組織とは、重要性に応じて責任が階層化された分業体制のことであって、観念的には、全体の枠組みを規定する少数の最重要事項の決定が組織の頂点にある機関でなされ、それらが順次組織の階層を下りながら具体化されると同時に細分化されたものとして決定されていき、末端の専門部署に至って実行されるわけです。
 しかし、観念的な説明はともかくも、現場を遠く離れた組織の頂点における決定から現実に即した企図が始動するとは思えません。実際の組織の動態は、実践の現場に接した下から企図が始まって、順次に階層を上がりながら総合化されていき、最後に頂点の機関で承認されることで組織の責任へと包摂されているのです。
 
では、組織の機関決定とは、手続きの問題にすぎないのでしょうか。
 
 機関の役割は、自明のこととして意思決定にあるとされているのでしょうが、確かに形式的には意思決定だとしても、実質的には単に手続きにすぎないわけです。つまり、組織とは責任の階層化なのであって、組織の頂点にある機関において実質的な議論がなされることは想定されておらず、機関は単に現場の責任を組織の責任に吸収するためにあるのです。
 例えば、代表的な機関である企業の取締役会は、まさか議案の実質を検討する場ではないでしょう。そうならば、社外から取締役を選任することは不適当です。そうではなくて、そこでは、牽制と統制の機能として、経営会議等の執行機関の決定について、社会常識に照らしたときの妥当性や正当性が検証されるにすぎません。
 取締役会にだされる議案は、経営会議等の執行部門の機関において事実上の決定がなされていて、それが取締役会で否決されることは原則として想定されていないはずです。しかも、経営会議等でも細かな議論がなされるとは考えられません。それ以前に執行の現場において議論の尽くされた事案だけが経営会議等に上程されているからです。
 
では、機関には実質的な意味での責任はないのでしょうか。
 
 責任とは何か、この問いは単純ながら、単純には答え難いですから今は措くとして、仮に責任を自己の理性に従った行為の結果を引き受けることだとすれば、責任が執行の現場にあることは当然ではないでしょうか、いうまでもなく結果の経済的側面のみは組織に帰属するにしても。逆に、結果の経済的側面を組織に引き受けさせるために、機関決定がなされるのではないでしょうか。故に、損失を組織が負担したときに、組織内部に人事異動等が生じることは、現場責任の総括の問題として、当然の帰結でしょう。
 
では、具体的に、年金基金等の機関投資家の意思決定のあり方について検討しましょうか。
 
 日本では、公的年金基金にしても、企業年金基金にしても、最低限のものとしてなら、形式的な組織制度の整備がなされています。しかし、実際の運営においては、一部に例外的に優れた取り組みがみられるものの、総じて未熟な状態にあります。
 これは、極めて残念なことであり、社会的な重要性を鑑みるときは、非常に憂慮すべきことです。そうしたことから、金融庁の森信親長官も、所管外の事項であるにもかかわらず、年金基金の資産運用に言及することがあるのでしょう。いずれ遠からず、政策的な対応がなされることは間違いないと思われます。
 そこで、ここでは、米国の年金基金等の機関投資家の例を考えます。まず、組織の頂点には必ず理事会のような最高議決機関が置かれています。そして、その下には、資産運用の専門家で構成され、最高投資責任者が統括する運用組織があります。
 運用組織は企業組織のように大きなものではありませんし、専門家としての知見の統一があるので、そこに委員会等の機関が置かれていても、実際の意思決定は、最高投資責任者のもとに構成員の能力に応じた責任の配賦によって統括されて、業務の運行のなかで自然になされるはずです。
 
問題は、理事会等の最高機関における承認のあり方ですね。
 
 やはり、決定というよりは、実態に即して承認と呼ぶべきでしょう。理事会等の機関は、例えば地方公務員の年金基金であれば、その地方政府の幹部等で構成されていて、専門的知見をもたないわけですから、そこで専門性を要する資産運用の判断を実質的に行うことは不可能であって、むしろ、企業の取締役会と同じような牽制と統制の機能に徹していると考えられます。
 事実上の決定は、下部の運用組織のなかで、専門家の判断として既になされています。しかし、それらの判断は、組織統制の問題として、機関決定を経ない限り、執行できないわけです。逆に、機関決定を執行の条件とすることで統制と牽制の機能を組み込むこと以上には、機関の役割はないと考えられます。
 そもそも機関の合議によって意思決定することなど不可能です。機関にできることは、現場において議論が尽くされて事実上の決定がなされた事案について、承認するか、否決するか、その選択をするだけです。そして、事案に重大な瑕疵でもない限り、否決されることは想定されていないのです。
 
否決事由に該当する重大な瑕疵とは、どのようなことでしょうか。
 
 その判定は、極めて高度で難解な問題であって、手続き上の瑕疵は当然のこととして、実質面の判断について何を不適当とするかは、機関構成員としての地位から自然に要求される知見に照らして決せられることで、その判定は常に微妙であり得ます。しかし、日本でありがちなように、決し得ないがゆえに否決するのでは、全ての革新と創造を排除することになり、機関の責任を果たせなくなるわけですから、それも許されないのです。
 そこで、例えば、米国の年金基金の場合、機関構成員は法律上のフィデューシャリーとしての重い責任を負いますから、外部の弁護士等の助言を求めることが一般化しています。逆にいえば、時間の推移のなかで社会通念上の基準が明確化してくる過程があったからこそ、その知見に基づく第三者の助言が有効に機能していて、基準があるからこそ専門的知見に基づく合理的な機関決定ができているということです。
 
頂点の責任が明確になれば、下部の責任も明確になりますね。
 
 最高投資責任者以下の運用組織は行為責任を負うとしても、投資判断の帰結に関する経済的な結果責任を負うことはあり得ません。機関決定は、組織が結果責任を負担するために、逆にいえば運用組織を結果責任から免責にするために、なされるのです。
 もちろん、結果責任を負わないことと、重い行為責任を負うことは全く別のことです。運用組織の構成員は投資のプロフェッショナルとして、その専門的能力に基づいて採用されているわけですから、それが運用成果に生かされないのならば職を失うこともあるという意味で、極めて重い行為責任を負うわけです。逆に、そのプロフェッショナルとしての責任が自由に十全に果たせるように、結果責任を免責にしているといってもいいでしょう。
 
そうしますと、運用組織のプロフェッショナルとしての能力が高いほど、移譲される権限も大きくなると考えられるでしょうか。
 
 頂点の意思決定機関と現場の運用組織との間の関係については、運用組織への権限移譲の程度を大きくすればするほど、頂点の機関の役割は決定機能が希薄になって統制機能に純化されていくわけですし、権限移譲の程度は運用組織の能力に依存するのですから、機関投資家ごとに大きな濃淡の差があるのではないでしょうか。
 例えば、米国にはエンダウメントと呼ばれる寄付財団が多数あって、なかでも大学の財団は、規模が大きく、また高度な投資技法を用いることで知られていて、業界でも名の通る優秀なプロフェッショナルを高給で集めて運用組織を形成しているものも少なくありません。いわゆるエンダウメント・モデルという資産管理のあり方です。ここでは運用組織へ大胆に権限移譲されていますが、それは、安心して権限委譲できるように一流の人材を集めているわけですから、当然至極のことでしょう。
 
まさに、年金基金等の機関投資家の人材の専門性と能力において、日米の大きな格差があるのですね。
 
 そのため、金融庁は、11月10日に公表した2017事務年度の金融行政方針において、「金融庁の所管にとらわれず」という前提で、「企業年金については、母体企業が自社の企業年金の専門性を高めるための人事面や運営面での取組みを強化することなどが期待されるところであり、このための方策について検討を行う」と述べているわけです。
 また、日本の現状において代表的な機関投資家となっている金融機関についても、地方銀行や信用金庫等を念頭に置いて、「リスクテイクに見合った運用態勢やリスク管理態勢が不十分であり、専門人材の 育成や確保等を含めた態勢の強化を図る必要がある」といった事例を指摘しています。
 資産運用の後進国である日本では、投資運用業界においても専門人材の数と質が全く足りておらず、運用能力の貧困が問題視されるわけですが、顧客たる機関投資家においては、更に深刻な能力不足があって、双方相俟って質の低下の悪循環を招いているのです。そこで、金融庁は、それを質の改善の好循環に転換するべく、上記の施策を打ち出したのです。
 
下部の専門人材を強化しても、頂点の機関決定ができなければ意味がありませんね。
 
 日米の格差において、専門人材の質の差よりも重要なのは、意思決定機関の機能の差です。米国の事例において極めて重要なことは、重い責任の自覚があるからこそ、責任を果たす努力がなされるということです。日本では、機関の一定の形式的な責任は定められていても、実質的な責任内容を規定する基準はないので、無責任な無決定が放置されていたり、社会通念上は許されないような不適切、不公正、非常識な基準による判断が横行したりしているのです。
 そこで、金融庁は、先ほどの地域金融機関について、「経営トップの主体的な関与によるリスクガバナンスを含めた運用態勢の強化」の必要性を指摘しているのです。ここでいわれていることは、先に米国の年金基金等の機関決定の仕組みについて述べたことと理念的には全く同じだろうと思われます。おそらくは、企業年金の資産運用改革についても、専門人材の問題にとどまらず、リスクガバナンス、即ち機関決定のあり方に踏み込んだ対策が検討されるのでしょう。
 日本の資産運用の夜明けも近づいてきているようです。明るい未来を建設するために、資産運用に携わる者は、それぞれの立場において自分にできる改革に真剣に取り組まなくてはなりません。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2014/10/09掲載「金融庁に「高度化」を求められた資産運用の貧困
2014/07/10掲載「資産運用の担い手として、何をなすべき
2016/08/04掲載「賢者のリスクテイク、愚者のリスク管理
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。