原子力発電所の再稼働か電気の安定供給義務か

原子力発電所の再稼働か電気の安定供給義務か

森本紀行
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関西電力の原子力発電所の再稼働をめぐっては、そもそもが、再稼働させなくても夏の電力需要を賄えるのではないのか、再稼働を目的化することで過大な需要見通しが立てられているのではないか、という議論、もはや完全に政治と化した議論が展開されています。これが今回の話題ですね。
 
 原子力発電問題は、政治に利用されていますね。標的は、東京電力に続いて、関西電力ですか。しかし、電気というのは、人の生活に欠かすことのできないものですから、政治の道具にするのもどうなのかな、と思わずにはいられません。もっとも、生活にかかわるからこそ、国民の関心を引くのであって、ゆえに政治の舞台にすると効果が大きい、という政治家(政治屋というべきか)の計算かもしれませんが。また、原子力の話になると、冷静な議論が難しくなるようです。心理的感情的な問題に政治が絡むと、場合によっては、とんでもなく危ない帰結に至るかもしれず、私は心配です。
 そこで、いきなり脱線しましょう。脱線とはいっても、まさに夏の電力需要予測で焦点になっている問題で、要は限られた期間内に見込まれる一時的な需要の増大に関する供給側の対応のことですが。
 私の家は、実は、茨城県の南部の田舎町にあるのですが、その町には、現在では、中学校が一つしかありません。二つあった中学校が、2007年に合併したのです。古くは一つしか中学校がなかったのに、1984年に新しく学校を作ったので、二つになっていたのです。23年間だけ、中学校が二つあったことになります。いうまでもないですが、背後には、生徒数の大幅な増加と大幅な減少があるのです。
 このような、生徒数の増加に対応した新設校の建設と、その後の統廃合は、地方の小中学校では、ごく普通に起きています。私は考えたものです。わが町が1984年に生徒数の増加に対応して新設校を開いたとき、人口動態的に、その後の生徒数の減少は十分に予測可能だったのではないかと。
 もしも、ある程度予測可能だったとしたら、23年間という短い時間のために大きな施設(学校って大きいですよね、校庭も体育館もプールもあるし)を建設する必要が、本当にあったのかどうか。事実、廃校になったほうの学校の跡地利用は、うまくいっていません。うまくいくはずもありません。うまくいくくらいだったら、そもそも、中学校の統合自体がなかったでしょう。これは、税金の無駄使いではないのか。
 一方で、仮に生徒数の減少が見込まれていて、せいぜい25年程度で廃校になる運命だと承知のうえでも、やはり、新しい学校を作ったのではないか、義務教育の仕組み上、当然にそうなるのではないのか、税金の無駄であるよりも、全く正当な税金の使い方であったのではないのか、とも思うのです。教育の質ということを考えると、まさか、短い期間だから狭い教室にたくさんの生徒を押し込んでおこうとか、校庭に仮設の校舎を建てて済まそうとか、そのようなことは、発想自体として、でてこないでしょう。
 世の中、経済効率性だけでは仕切れない問題が多いのです。生徒数の増加と減少に伴う学校施設の稼働率の非効率性などは、典型的な問題です。義務教育という絶対的な社会的必要の前では、経済計算は成り立たないし、一見、無駄にみえても、誰も無駄だとは非難しない。そのような領域があるのです。
 

子供の服みたいですね。僅かな期間しか着られないことがわかっていても、成長に合わせて新しい服を着せたいのが、親心でしょうから。
 
 服で混ぜ返せば、太って服が着られなくなり、大きいのを買ったところで頑張って体重を減らして、また小さいのを買い替える、そのような無駄なことをしている人は、たくさんいるでしょう。しかし、無駄といえるのかな。人間らしい人間の生活そのものですよね。それが無駄だったら、食べること、着ること、あらかた無駄の塊です。
 

美食してお金使って、ダイエットにもお金使うのは、これは無駄じゃないですか。
 
 微妙ですね。まあ、文明の病という意味で、一つの文化現象ですから、無駄というのもどうか。ところで、そろそろ本題に戻すべきでは。
 

国民が普通に生活して普通に電気を使うことから生まれる電気需要は、何が普通かについての議論はあり得るにしても、社会的に必然の電気需要であり、もはや文化的生活の基礎であるから、供給側の条件で勝手に制限できるものではない、といいたいのでしょう。
 
 義務教育が国民の義務なら、その義務教育の環境を整えて維持するのは、政府の国民に対する義務でしょう。電気の安定供給は、実は、電気事業連合会各社の事実上の地域独占の反対効果として、電力各社に課せられた義務です。
 電気の需要は経済の成長ともに拡大してきた、というよりも、電気需要は経済成長と一体のものとして相互規定的に拡大してきたのであって、電気の供給体制が安定していて需要の伸びに着実に応えてきたからこそ、経済は成長できたのです。東京電力にしても、関西電力にしても、電気事業連合会各社は、確かに、独占の特権に安住してきたとの批判を受けてもしかたない側面をもつかもしれない。しかし、一方で、電気の安定供給義務を立派に果たしてきたことも、事実です。
 好き嫌い、都市政策や環境問題に関連した政治的な視点での賛成反対、色々な立場の違いはあるでしょうが、事実の問題として、今では「オール電化マンション」のようなものすらあって、電気の安定供給を前提とした生活の仕組みができていること、この事実だけは動かすことができない。
 このような仕組みは、電気の安定供給体制を前提にしたことであると同時に、電気の安定需要を作りだすことでもあり、そこに公共事業としての社会的責任があり、また電気事業としての収益基盤があるのです。こうした事業の性格は、電気事業に限らず、医療など何らかの公共性を帯びた産業に共通したものです。
 そこには、必ず安定供給を維持するための規制があります。その規制が、規制という名の参入障壁であり保護である側面は否定できないのですが、一方、だからこその安定供給体制の確保という論理であることに留意がいります。規制の弊害だけを論じるのは片手落ちです。病院は診療を拒否できない。緊急医療体制を維持するには相当な費用を要する。医療サービスの供給責任は、決して安くつくものではない。その費用の国民間での合理的かつ公正公平な負担を決するのは、医業行政であり、政治です。
 電気の安定供給責任についても、同じことがいえるわけです。電気料金というのは、その責任を果たすための費用として合理的に見積もられたものなのです。実際、東京電力の電気料金の値上げ、これだけ批判を受けてはいても、値上げ自体は、現在の著しく非効率な電源構成を反映したものであり、合理的なものです。いわば、原子力発電抜きで、しかも原子力発電施設を維持したままで、供給能力不足を補うために生産性の低い発電施設も稼働させながら、電気の安定供給責任を果たすための社会的費用が問題とされているのです。もはや、東京電力の責任というよりも、政府の電気事業政策の責任が問われているのです。
 

大阪市の橋下市長は、まさに政治の問題として、原子力発電を取り上げましたが、電気の供給責任には全く無頓着のようですね。
 
 もしも関西電力が原子力発電をやめてしまうならば、全ての原子力発電所を予定された耐用期限まで使い切って、順次、自然廃炉にし、その過程で、最適な代替電源構成を構築していくしかありません。もしも、それよりも早期に原子力発電をやめれば、必ず、電源構成は非効率になり、電気料金が上がるか、早期廃炉費用に税金が投入されるか、どちらかしかないので、必ず、国民負担は増加します。もちろん、原子力発電をやめる時期を早くし、あるいは停止している期間を長くすればするほど、国民負担は増加します。
 経済的負担は、供給責任が全うされるという前提でのみ、受け入れることができます。東京電力の電気料金値上げは、当然のこととして、東京電力による安定供給の保証の対価としてのみ、受けいれ可能なものです。一方、関西電力の場合は、供給保証もないままに、いずれ遠からず電気料金の引き上げが避けがたくなるようなことが、橋下大阪市長によって、提案されているのです。
 それで、いいのか。政治家として、そのことに責任をとれるのか。選挙による国民の選択とは、責任を選らんだ国民に押し付けることなのか。本当は、選ばれたものとして、国民に対して責任を負うことなのではないのか。
 

需要が一時的に増大するときは、一定以上の需要について傾斜的に電気料金を引き上げて、需要を抑制するという案を、橋下市長はもっているようですが、これはどうでしょうか。
 
 わが町の中学校の例でいえば、教育の供給能力に応じて、教育需要が多いときは学費を大幅に引き上げて、親の学費負担能力に基づく生徒数の調整を行う、という乱暴な計画と同じことです。このような案は、義務教育なのだから、あり得もしない。ばかばかしくて、検討に値しない。電気供給についても、供給義務のもとでは、全く同じ理由で、あり得ないことになると思います。
 確実に充足されなければならない社会的需要、公共性のある需要を前提にしているから、供給義務が課せられるのです。だから、供給能力に応じて需要を調整するなど、断じてあり得ないのです。そのことは、電気も医療も消防も警察も義務教育も、原理においては変わらない。
 

橋下市長は、電気の公共性を、ひとつ低い次元でとらえているのではないですか。
 
 そのようですね。しかし、電気は生活基盤であり、産業基盤ですよ。軽率な思いつきで、政治の道具として、無責任に、論ずべきものではない。
 

ということは、関西電力は原子力発電所を再稼働させるべきだ、ということですか。
 
 そう聞かれれば、誰しも躊躇します。そのような反論の構造が、まさに橋下市長の得意の戦術なのです。たしかに、政治家、というか政治屋としては、上手だと思います。政治は、所詮、意見の完全一致がないなかで、一種の妥協点を模索することです。橋下市長だって、そこはわかっている。ただ、最初から適当な妥協点を提示するのではなく、安全という絶対価値を提示することで、わかりやすく説得力ある方法で、自分の政治主張に有利な方向で、妥協点に至ろうとする政治手法をとっているだけです。うまいと思います。
 そこで、私も見習って、別の絶対価値を提示してみたのです。それが、電気の安定供給義務です。電気がなければ、命にかかわりますよ。大阪の今年の夏は暑いかもしれない。冷房なしでは死者がでるような酷暑かもしれません。電気の安定供給の価値は決して小さくない。それでも、関西電力は原子力発電所を再稼働させないのですか。
 
以上



 いよいよ連休ですね。コラムもお休みをいただいて、次回更新を連休明けの5月10日(木)にさせていただきます。

≪関西電力原子力発電所再稼働関連≫

2012/04/19掲載原子力発電で上手に政治をする橋下大阪市長
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。