弁護士はフィデューシャリーとして喜んで成仏すべきか

弁護士はフィデューシャリーとして喜んで成仏すべきか

森本紀行
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今、金融界では、フィデューシャリーとしての義務が非常に注目されています。実は、フィデューシャリーの代表は弁護士なのですが、そこでは、専らに社会のために働いて、かろうじて生活が維持でき、最後に成仏できれば、それでいいではないかという成仏理論を唱える人もいます。さて、フィデューシャリーとして生きることは、金融機関としても、弁護士としても、経済的に報われないのか。
 
 金融界では、今、フィデューシャリー・デューティーに注目が集まっています。フィデューシャリー・デューティーは、2014年9月に金融庁が公表した「金融モニタリング基本方針」のなかで、初めて登場したものですから、僅か1年半で、随分と浸透したものです。
 フィデューシャリー・デューティーとは何かというと、一番わかりやすく、かつ最新の解説は、4月8日の麻生大臣の記者会見における冒頭発言です。そこでは、次のように、いわれています。
 「最近の金融環境を踏まえて、国民の安定的な資産形成に資するよう、グローバルな分散投資や資産運用の高度化というものを進めていくことがますます重要となってきているのだと考えています。その際、商品開発、販売、運用、資産管理、それぞれに携わる全ての金融機関において顧客本位の業務運営、そういうのをフィデューシャリー・デューティーと言うのですが、顧客本位の業務運営などの観点からどのような取り組みが求められているかについても検討することが重要です。」
 
フィデューシャリー・デューティーとは、フィデューシャリーが負う義務でしょうが、そもそも、フィデューシャリーとは、何でしょうか。
 
 金融庁の2014年9月の「金融モニタリング基本方針」では、フィデューシャリー・デューティーに、「他者の信認を得て、一定の任務を遂行すべき者が負っている幅広い様々な役割・責任の総称」との注釈が付されています。ここで、信認とは、信頼よりも高度なもので、法律上の忠実義務を負う関係ですが、忠実義務に替えて、敢えてフィデューシャリー・デューティーというからには、忠実義務よりも広く、深く、かつ高度なものです。
 他人に業務を委任するときは、範囲を特定し、他人に裁量を認めないのが普通ですが、そうではなくて、他人に広範囲な裁量を与え、事実上、身を任すような事態にならざるを得ない場合があります。典型的に、医師にかかるとき、弁護士に訴訟等の代理人を委任するとき、金融機関等に財産の管理運用を一任するとき、などです。
 このような特殊な委任を受けた医師、弁護士、金融機関等をフィデューシャリーといい、故に、フィデューシャリーは、他人の信認を得たものとして、専らに委任者、即ち、顧客のために働く義務を負う、煎じ詰めれば、これがフィデューシャリー・デューティーの中核です。
 
弁護士が代表的なフィデューシャリーなのはわかりますが、フィデューシャリーとしての弁護士は、成仏してしまうという主張があるのですか。
 
 成仏理論は、弁護士の世界では、というより、弁護士の世界でのみ、有名、あるいは、悪名高いもののようです。しかし、理論の原典は、随想的な短文にすぎないのです。
 雑誌「法学教室」の2006年4月号の「巻頭言」は、「成仏」という異様な表題のものでした。筆者は、当時、東京大学教授であった高橋宏志氏です。そこには、「食べていけるかどうかを法律家が考えるというのが間違っているのである」と書かれています。
 この「成仏」を理解するためには、掲載当時の法曹界の最大の関心事に触れないわけにはいきません。つまり、これは、司法制度改革がなされ、2004年4月に全国68校の法科大学院が開校し、2006年5月には、最初の新司法試験が実施されるという、まさに、そのときに、発表された論考なのです。
 司法制度改革の一つの柱は、法曹人口の拡大でしたから、「成仏」は、「法律家が増え続けることになっているが、新人法律家の未来はどうなるであろうか」と書き出されていて、「暗い予想」として、「食べていけない新人法律家が一定数出ると予想するのである」としています。
 もちろん、逆に、「明るい見通しもある」のだから、要は、「器量と努力次第でどちらにもなる」としたうえで、先に引用したように、食べていけるかどうかを論じるのが間違いだとなるのです。そこで、「何のために法律家を志したのか」と問い、成仏理論につながるのですが、以下、引用しましょう。
 「人々の役に立つ仕事をしていれば、法律家も飢え死にすることはないであろう。飢え死にさえしなければ、人間、まずはそれでよいのではないか。その上に人々から感謝されることがあるのであれば、人間、喜んで成仏できるというものであろう。」
 
なるほど、飢え死にさえしなければ、それでよかろう、というところが反発を招いているのですね。
 
 法曹人口の拡大といっても、裁判官と検事には定数があるので、多くは弁護士の増大になるのですが、社会の状況は大きく変わっていないのですから、弁護士の仕事が並行して増大したという事実はなく、結局、現状では、「暗い予想」のほうが優勢なのでしょう。そういうなかで、この成仏理論が怨嗟の的になるのも肯けます。
 もっとも、余談ですが、おそらくは、成仏理論が批判される本当の理由は、東京大学教授という立派な身分保障のもとに発言されたことと、高橋宏志氏は、退官後も、中央大学教授、森・濱田松本法律事務所客員弁護士、東京大学名誉教授という輝かしい肩書を保持されていることです。こういう身分の方から、君らは成仏、といわれれば、多少、感情的反発を覚えるのも、やむを得ないでしょう。
 しかし、成仏理論の根本的な問題性は、「人々の役に立つ仕事をしていれば、法律家も飢え死にすることはない」という前提にあります。この「飢え死にすることはない」という経済状態は、全体の論旨からして、かろうじて生計が成り立つ程度の所得しか得られないという意味に解するほかありませんが、この前提は、おかしいでしょう。
 経済原則からいえば、真に「人々の役に立つ仕事」をする限り、そこに社会的価値の創出があるわけですから、「飢え死にすることはない」どころか、実現した価値に応じた所得があってしかるべきです。それが経済の合理性です。
 
フィデューシャリー・デューティーの中核概念である合理的報酬の考え方ですね。
 
 フィデューシャリーは、専らに顧客のために働く義務を負うので、自己の利益を鑑みることはできず、理論を突き詰めれば、無償で働かなくてはならないことになりますが、さずがに、それでは、業務としてなりたたないので、専らに顧客のために働くのに要する原価を基準に、合理的に算出された報酬を受け取ってよいものと理解されています。逆に、合理性を超える報酬は、フィデューシャリー・デューティー違反になるということです。
 金融庁は、金融機関のフィデューシャリー・デューティーについて、この点を問題にして、特に、投資信託の販売手数料等の是正を強く求めているのですが、決して、とるなとか、引き下げろといっているのではありません。あくまでも、提供した役務を基準に、報酬等の料率を定めよといっているだけです。
 金融機関として、フィデューシャリー・デューティーによって報酬が減って困るなどといっているものに、未来は全くありません。金融庁のいうことを素直に聞けば、逆に、顧客の視点に立って、より価値の高い仕事をすれば、提供した価値に応じて増収になると考えるべきです。そこに、フィデューシャリー・デューティーの本質があるのです。
 つまり、フィデューシャリー・デューティーのもと、顧客の視点と合理的報酬の考え方を徹底すれば、顧客に提供する価値の増大こそが経営課題となり、その結果として、顧客の利益も、金融機関自身の利益も、相互に矛盾対立することなく、増大するはずだということです。
 
そうしますと、成仏理論の第二項、「飢え死にさえしなければ、人間、まずはそれでよいのではないか」も間違っていますね。
 
 「飢え死にさえしなければ」程度では、人間、少しもよくはないのです。そのような境遇に甘んじてはいけないのです。そうではなくて、金融庁がいうように、ベストプラクティスを追求しなくてはいけません。フィデューシャリーには、人間存在として、ベストを尽くす倫理的義務があるばかりでなく、フィデューシャリー・デューティーのもとでも、ベストを尽くす義務があるのです。
 弁護士には、依頼人のためにベストを尽くして訴訟遂行する義務があり、医師には、ベストを尽くして患者の健康回復に努める義務があり、資産の運用管理を受任した金融機関には、ベストを尽くして投資収益をあげる義務があります。これは、自明です。
 では、逆に、職務遂行においてベストを尽くしても、「飢え死にさえしなければ」程度の所得にしかならないのかといえば、個々のフィデューシャリーにおいて、そのような不幸な人のあり得ることは否定できませんが、フィデューシャリー業全体が存立し得る限り、あり得ないことです。なぜなら、もし、そうなら、ベストを尽くしても、社会的価値は増大しないということですから、それでは、そもそも、業としての存立基盤がないはずだからです。
 
全ては、「人々の役に立つ仕事」という点に帰着しますね。
 
 社会の役に立たないことにベストを尽くしても、「飢え死にさえしなければ」程度すら、維持できないことは明らかです。逆に、真に「人々の役に立つ仕事」をする限り、そこには、正当な所得があるはずなのです。
 しかし、ここで、注意が必要です。真に「人々の役に立つ仕事」は、単に「人々の役に立つ仕事」とみなされてきたものとは、異なり得るのです。金融庁も、「顧客ニーズ」と真の「顧客ニーズ」を区別していて、表層的に「顧客ニーズ」を擬制することは、必ずしも、真の「顧客ニーズ」に応えることにならないことを問題視しています。
 「人々の役に立つ仕事」をしているつもり(自覚的にしろ、無自覚的にしろ)でも、真に「人々の役に立つ仕事」ではない可能性があります。それでは、「飢え死にさえしなければ」程度も維持できないでしょう。
 
成仏理論の第三項、「人々から感謝されることがあるのであれば、人間、喜んで成仏できる」は、どうでしょうか。
 
 「人々から感謝されることがあるのであれば」というのは、感謝されない場合を普通の事態としているようですが、そもそも、真に「人々の役に立つ仕事」をして、感謝されないことはあり得ないでしょう。また、感謝されて、喜んで成仏するわけにはいきませんし、その必要もありません。
 
成仏するのは、いいことではないですか。
 
 「成仏」の結びは、以下のようになっています。この真意は不明です。
 「私はどうか。不可(F)を付けまくる、役に立たない鬼教授と言われているようであるが、極楽浄土に成仏できることを私は心から願っている。」
 
以上

 
 次回更新は4月28日(木)になります。
アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2016/03/03掲載「みずほの資産運用改革、ここまで徹底したらどうだ
2016/02/18掲載「すごいぞ、みずほ、日本の資産運用改革の旗手になれ
2015/11/12掲載「金融におけるフィデューシャリー関係の成立
2015/11/05掲載「金融機関の「お約束」を厳格に守らせるためには
2015/10/29掲載「フィデューシャリー・デューティーを規制と考える金融機関に未来はない
2015/10/15掲載「フィデューシャリー・デューティーの長く広い射程
2015/09/17掲載「フィデューシャリー・デューティーとベストをつくす義務
2015/08/27掲載「「フィデューシャリー宣言」の意義について
2014/10/23掲載「金融庁のいうフィデューシャリー・デューティーとは何か
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月当時のワイアットに入社し、日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。