金融におけるフィデューシャリー関係の成立

金融におけるフィデューシャリー関係の成立

森本紀行
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人が他人を信じて何かを託することは、人と人をつなぐ絆として、人間社会を成立させる根本的な行為です。他人を信じて何かを託した人は、託したことを、その他人が忠実に執行してくれることを期待します。その期待は、信頼に基づくものです。金融取引は、多くの場合、こうした信頼に基づきますが、さて、その信頼は、どの程度まで、また、どのようにして、保護されるべきでしょうか。
 
 金融取引は、業として行うときは、高度に規制されます。それは、金融の社会的機能の重要性に鑑みて当然のことなのですが、より本質的には、金融取引が信頼に基づくものであり、その信頼は、法律等によって、厳格に保護されるべきだからです。
 例えば、約定に従って、その元本と利息が保証されるのでない限り、誰も預金しないでしょう。預金が集まらなければ、銀行等は、預金を融資として産業界に還流させる金融仲介機能を果たすことができません。それでは、産業金融は成り立たず、経済も機能しないわけです。故に、法律等を通じて、また、金融制度の設計等を通じて、預金者の保護が図られているのです。
 しかし、預金者が保護されなければならないのは、金融の社会的機能の維持という政策的な理由からだけではなく、より本質的に、銀行等を信じて預金したものの信頼は保護されなければならないという社会秩序の根本的理念に基づくと考えられます。
 そもそも、預金者は、金融の社会的機能のために預金しているのではなく、お金の保管と管理を信頼できるものに託するために、数多ある銀行等のなかから、自分にとって信頼できるものを選んで、預金しているのでしょう。この信頼がなければ、預金は成立しません。
 金融の社会的機能は、預金者の銀行等に対する信頼のうえに成立しています。預金者の信頼が保護されるからこそ、金融の社会的機能が成り立つのです。金融の社会的機能の原点にあるべきものは、あくまでも、預金者の信頼の保護です。
 
投資信託の販売もそうですね。顧客と金融機関との間に信頼関係がなければ、投資信託など、成り立たないですね。
 
 貯蓄から投資へ、といわれますが、その具体的意味は、預金から投資信託へ、というのと大差ありません。預金形態で集めた資金(貯蓄)を銀行等の金融仲介機能を介して産業界へ還流させるか、投資信託(まさに投資)形態で集めた資金を投資運用業等の資本市場機能を介して産業界へ還流させるか、形は変わっても、本質的な金融の社会的機能は同じです。
 ならば、金融機能の維持と高度化のためには、預金者の銀行等に対する信頼を確実に守ることを通じて、預金者の利益が守られなければならないのと同じように、投資信託の顧客の利益は、販売会社に対する顧客の信頼を確実に守ることを通じて、守られなければならないということです。
 
販売会社への信頼ですか、実際に運用している投資運用業者への信頼ではなくて。
 
 信頼とは、その端緒においては、顔の見える関係のなかでしか、形成されないのではないでしょうか。投資信託の顧客にとっては、投資運用業者は、商品の製造者であって、遠い存在だと思われます。また、投資信託は、家電製品等のように、目で見て商品の特色や差別性等がわかるものではありません。やはり、顧客の信頼は、商品説明をしてくれる販売会社に対して向けられているのだと思われます。
 
では、投資信託の顧客の販売会社に対する信頼は、どのように、保護されているのでしょうか。
 
 投資信託の顧客は、「金融商品取引法」等を通じて、高度な規制のもとで、保護されています。ただし、規制によって保護されているという意味では、預金者と同じですが、保護のあり方は、預金とは全く異なります。
 預金の場合は、決定的に重要なことは、元本と利息の保全です。銀行等の経営破綻によって預金の元本が毀損すること、その結果、金融にとって決定的に重要な信用の安定性が揺らぐこと、そうした深刻な事態を回避することに、金融規制の力点は置かれているのです。例えば、銀行等に課されている高度な資本規制は、その代表的なものです。
 ところが、投資信託の場合は、金利等の約束された収益の保証もなければ、元本保証もありません。顧客は、完全な自己責任原則のもと、何らの保証もないものに投資をしているのです。顧客の保護とはいっても、預金とは根本的に異なって、経済的な価値の保護ではないのです。
 
では、何が保護されているのでしょうか。
 
 投資信託の顧客が販売会社に対して抱く信頼とは、自分の欲しいもの、自分に相応しいものを案内推薦してくれるはずだという期待でしょう。ならば、保護されるべき信頼とは、簡単にいえば、顧客が求めているものと、販売会社が提供したものとの間に、不一致のないことの保証になります。逆に、保護されるべきは、これだけの簡単なことです。
 しかしながら、実は、この簡単なことが非常に難しいのです。金融庁は、よく、「真の顧客ニーズ」といっていますが、これは、表層的には顧客ニーズとみえるものも、顧客の話を深く突き詰めていくと、実は、本当に顧客が求めているものは、別のところにあったという可能性の存在を前提にしたことです。
 例えば、顧客がAという商品を欲しいといっても、それは、Aについての誤解に基づいているからかもしれず、徹底的に顧客が欲しいものを聞き出していくと、実は、Bという商品のほうが、顧客の真のニーズにかなっていることが発見される、金融庁は、そうした可能性を想定しているのです。
 しかも、顧客がAという商品を欲しいと思ったこと自体について、販売会社の誘導がなかったかどうかも、問題にし得る点です。誘導とは、営業的な推奨はもちろんのこと、販売額のランキングを提示して、事実上、売れ筋へ関心を引くことも含まれます。これでは、Aが欲しいという顧客の需要は、真の顧客ニーズであるかどうか、疑わしいのです。
 実は、特定のAという商品にまで、真の顧客ニーズが絞られていることなど、稀なわけです。多くの場合、顧客は漠然とした抽象的な思いしか抱いておらず、顧客の期待とは、販売会社の側で、自分の真意を汲みとって、それを特定の商品に絞り込んで欲しいということなのであり、顧客の信頼とは、販売会社は、その期待に対して、顧客の利益のために、正しく適切に応えてくれるはずだということです。
 
では、具体的に、その顧客の信頼が保護されるという意味は、何でしょうか。顧客が求めるものと、販売会社が提供したものとの間に、どういう関係が成り立っているときに、顧客の信頼は保護されたことになるのでしょうか。
 
 販売会社の提供したものが顧客の真に求めていたものと一致しているかどうかは、顧客自身にすら判断が難しく、客観的にも判定が困難な問題ですから、結局は、販売会社が法律等のルールを遵守しているかどうかという表層的な論点に帰着せざるを得ないのです。
 つまり、販売会社が法律等のルールを遵守している限り、顧客は、自分の求めている投資信託を、自分の明示的な意思で、投資に付随する損失の可能性等を全て理解したうえで、自己責任原則のもとで、購入したということになるのです。
 もちろん、販売会社が遵守すべき諸ルールは、顧客の真の意思を確認するために作られているのですから、それが完璧なものであるならば、販売会社がルールを遵守する限り、顧客は常に自分の真に求めるものを購入していることになるのですが、現実は、そのような完璧なルールなど作り得ないのです。
 
完璧なルールなどあり得ないことは、今や、当のルールを作ってきた金融庁自身の認識なのですね。
 
 完璧なルールがあり得ないことが問題なのではなく、ルールに従っていることで、顧客の利益が守られていると看做されること、つまり、顧客の利益の保護が擬制されてしまうこと、それが深刻な問題なのです。更にいえば、こうした擬制が成立する限り、販売会社の責任が問われることはないということ、つまり、販売会社のほうが保護されてしまうということ、そこに決定的な問題があるのです。
 預金者の保護ならば、銀行等が厳格にルールを遵守していれば、それで達成できるのですが、投資信託の顧客の保護は、販売会社のルール遵守によっては、達成できないどころか、むしろ、顧客の真の利益に反する事態すら、ルール遵守のもとに正当化されかねないことになっているのです。
 結局、ルール遵守というのは、ミニマムスタンダード、つまり、最低限のことにすぎないわけです。預金者の保護については、銀行等の仕組みの性格上、ミニマムスタンダードの徹底によって実現できるのですが、投資信託の顧客保護は、ミニマムスタンダードの徹底によっては実現できないということです。
 そこで、金融庁は、ルールによらない顧客保護のあり方を工夫することになるわけです。それが、ベストプラクティスの追求、即ち、徹底して顧客の視点でベストを尽くすことなのです。
 顧客の真のニーズが把握されているかどうかについて、客観的に測定判断する基準など、あり得ないと思われます。あり得るのならば、それをルール化すればいいのです。それができないからこそ、ルールに替わるものが工夫されるわけですが、それは、要は、販売会社として、顧客の視点で、ベストを尽くしたということ以上にはなり得ません。
 こういえば、人は問うでしょう、何をしたら、ベストを尽くしたことになるのかと。ところが、この問いには、答えようがありません。答えがあると思うなら、それは、ルール主義への逆行です。ルールは、行為内容にかかわる規範です。ベストを尽くすということは、具体的な行為内容の問題ではなくて、プリンシプル、即ち、行為原則にかかわる規範なのです。
 
そうはいっても、もう少し、そのプリンシプルを具体化する必要がありますね。
 
 もちろん、プリンシプルの具現化は必要です。内容面からいえば、投資信託の販売におけるプリンシプルは、専らに顧客の利益のために、ということであり、これをいいかえれば、真の顧客ニーズの把握のためにベストを尽くしたうえでの商品の提供、ということです。
 ただし、例えば、ベストを尽くす、ということを、少なくとも30分以上は説明に費やすこととか、詳細な質問状への記載を求めることとか、そのようなルールに置き替えれば、その瞬間から、プリンシプルは忘れられ、表層的なルール遵守が一人歩きし始めるでしょう。ルール主義を排するとは、そういう事態を断固として回避することです。
 ベストを尽くすことは、常に新たなるものとして、徹底して顧客の視点にたった現場の創意工夫によってしか、実現し得ないのです。この原点を、表層的なルール遵守のもとで見失うことなく、常に想起しつつ行動すること、これがプリンシプルに基づく規範のあり方です。
 
投資信託における信頼の保護のほうが、預金における信頼の保護よりも、遥かに高度ですね。
 
 金融における顧客との信頼関係には、預金のように、ミニマムスタンダードの徹底で維持できるものもありますが、投資信託の販売のように、ベストプラクティスの追求でなければ維持できないものもあります。このベストプラクティスの追求でなければ維持できない信頼関係は、より高度な信頼関係として、今の金融庁の用語法によれば、フィデューシャリー・デューティーによって守られる関係、つまり、フィデューシャリー関係と呼ばれるものです。敢えて、日本語を当てれば、信認関係です。
 さて、金融取引の全体において、投資信託の販売に加えて、どの分野にフィデューシャリー関係の成立を認めるべきなのか、これこそが今後の金融行政の大きな課題だと思われます。
 
以上

 
 次回更新は11月19日(木)になります。
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2015/10/29掲載「フィデューシャリー・デューティーを規制と考える金融機関に未来はない
2015/10/22掲載「総合型企業年金基金が「フィデューシャリー宣言」をする意義
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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月当時のワイアットに入社し、日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。