投資運用業の君よ、悲しくはないか

投資運用業の君よ、悲しくはないか

森本紀行
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日本の投資運用業の現状について、金融庁は、大いに憂慮するところあって、業界に対して、「資産運用の高度化」を求めるに至りました。高度化という以上、現状の程度の低さが前提されているわけですが、さて、そこまでいわれて、素知らぬ顔の君よ、黙って下を向く君よ、悲しくはないか、誇りあるものなら、心機一転、大奮発して、改革に取り組むべきではないか。
 
 投資運用業は、当然のことながら、資産運用の専門的能力だけで成り立つべきものです。専門的能力は、人間の能力であって、故に、職業人としての個人に帰属します。日本語には、専門的能力を有する職業人を意味する便利な単語がないので、英語そのままで、プロフェッショナルと呼ばれています。
 敢えて、プロフェッショナルに近い日本語を求めると、弁護士、会計士等の士、いわゆるサムライです。しかし、士は、資格をも意味していますので、投資運用業に携わるものやコンサルタントなど、資格に基づく評価ではなく、実績に基づく評価によって活動するものは、含まれません。やはり、プロフェッショナル以外に、適当な日本語がないのです。
 さて、今、金融庁によって根本的に問われていることは、日本の投資運用業は、資産運用の専門的能力だけで成り立っているのか、資産運用のプロフェッショナルによって構成された産業なのか、ということです。かく問われるには、そうではないという金融庁の現状認識を想定しないわけにはいかないので、業界としては、存立の基盤自体を揺るがす危機的事態にあるわけです。
 
しかし、現実として、投資運用業に携わるものは、投資運用業を営む企業に所属する単なる会社員ではないでしょうか。なぜ、プロフェッショナルでなければいけないのでしょうか。
 
 投資運用業は、顧客から資金を預かり、それを運用して、資金の保全を図りつつ増殖を目指す業務ですが、顧客に対しては、成果を約束するものではありません。増殖しないで減少しても、つまり、顧客の損失になっても、運用における過失がない限り、投資運用業者に責任は全くないのです。
 もしも、銀行預金のように、元本と利息が保証されるのならば、保証は、個人には不可能で、銀行という法人によってなされるほかないのですから、顧客の立場からみれば、銀行が先にあり、そこに所属する銀行員という構図になるのですが、投資運用業の場合は、法人としての投資運用業者が保証するわけではないので、実際に資産運用業務に携わる人間の能力だけが担保となるのです。
 これは、弁護士事務所、会計士事務所、コンサルティング会社などでも同じことです。業務は、事務所として、また、企業として行われるのではなく、同じ組織に属する複数の個人の協働があり得るにしても、原理的に、担当した個人が独立した判断によって職務を執行するので、その個人の能力がサービスの質を規定するのです。
 プロフェッショナルというのは、結果の責任は負えないにしても、というよりも、結果の責任を負えないが故に、個人として、専門家としての最善を尽くし、自己の専門的能力の全てを投じ、常に自己研鑽に励み、専らに顧客のために働くことをもって、質を保証するもののことです。ですから、投資運用業に携わるものは、プロフェッショナルでなければならないのです。
 ただし、投資運用業は、対象とすべき領域が広く深いので、個人単独の能力の限界を超えた知見の集積が求められます。そこで、分業と組織化は不可欠になります。しかし、組織を形成しているからといって、構成員個人が独立したプロフェッショナルであることに、変わりはありません。
 投資運用業を営む企業が先にあって、そこに会社員がいる、そして、責任の所在は企業にある、というのは、表層的な形式にすぎません。理念的な実質は、複数のプロフェッショナルが先にあって、それらが組織を形成していて、責任の所在はプロフェッショナルにある、ということでなくてはなりません。
 プロフェッショナルは、あくまでも、原点において個人であり、法人がプロフェッショナルになることはあり得ません。故に、組織の長は、原則として、プロフェッショナルのなかから選出されなくてはならないのです。これは、弁護士事務所と所属弁護士の関係を考えれば、すぐにわかることです。
 
金融庁は、どういう点から、日本の投資運用業者の多くがプロフェッショナル組織ではないと考えるに至ったのでしょうか。
 
 それは、一見して明らかに、資産運用の能力によって、事業が成り立っているのではないとみえるからです。資産運用の能力ではなくて、投資信託ならば、販売会社の販売力によって、企業年金の資産運用ならば、金融グループとしての母体企業との関係によって、成り立っている場合が多いということです。これでは、運用能力の質は問題になり得ません。
 つまり、表面的には、投資運用業が成り立っているようにみえても、実質は、販売会社の利益のために、また金融グループの総合的利益のために、存立し得ているだけで、運用能力によって生きるものにはなり得ていないし、故に、経営も資産運用の経験豊かなプロフェッショナルによってなされているのではない、そのような投資運用業者が多い、あまりにも多いのです。
 にもかかわらず、投資運用業者を標榜し、そこには、多くの資産運用のプロフェッショナルを自称する人が働いているわけです。業界の皆さんよ、いったい、どういう気持ちで働いているのですか、楽しいですか、自称プロフェッショナルでは悲しくないですか、真のプロフェッショナルを目指そうと思わないのですか、要は、金融庁は、そう問いかけているのです。
 
投資運用業の現状は以前から同じはずで、なぜ、今さらに、金融庁は、投資運用業の改革を求めるのでしょうか。
 
 金融庁固有の施策というよりも、安倍政権の経済政策の一環として、資産運用の高度化が掲げられていると考えられます。その論点の第一は、コーポレートガバナンス改革であり、第二は、老後生活資金形成の変革です。
 いうまでもなく、日本のような高度に成熟した国においては、成長戦略の鍵は、産業界の構造改革です。その改革を促すものは、コーポレートガバナンスの高度化であり、コーポレートガバナンスに強い影響を与えるのは、資本市場からの圧力です。その資本市場の力の源泉は、投資運用業者等の投資家の銘柄選択の能力なのです。
 また、高齢化社会において、老後生活資金形成は極めて重要な政策課題ですが、ここでは、もはや、公的保障や企業による保障に負担限界がみえてきているのですから、どうしても、ある程度は、自助努力型の老後貯蓄制度に移行せざるを得ないわけです。老後貯蓄の受け皿の主力が投資信託なのですから、その品質の向上は非常に重要です。
 少なくとも、以上の二点からだけでも、投資運用業者の資産運用能力の高度化、プロフェッショナルとしての厳しい規律のもとでの質の高い資産運用への転換は、政策的に極めて重要な課題になっているのです。
 
しかし、金融庁の今年度の「金融行政方針」をみても、少なくとも直接には、プロフェッショナルという概念はでてきませんね。替わりに、フィデューシャリー・デューティーの徹底がいわれていますが、この二つは同じことでしょうか。
 
 フィデューシャリー・デューティーは、専らに顧客のために働くべしという高度な忠実義務のことです。例えば、弁護士は、専らに依頼人のために職務を遂行しなければならないのですから、典型的に、フィデューシャリー・デューティーを負うものです。
 弁護士は、同時に、典型的なプロフェッショナルですから、依頼人のために、専門的知見の全てを傾けて、最善を尽くす義務を負います。この最善を尽くすプロフェッショナルとしての義務は、フィデューシャリー・デューティーの延長として導けるものですから、基本的に、二つは同じものでしょう。
 ちなみに、フィデューシャリーとは、弁護士のように、他人の信認(信頼よりも厳格に保護されるべき関係)を得て職務を遂行するもののことで、原理的に、個人です。実際、資産運用に関連していえば、米国の法律では、企業年金等の管理者は、個人として、フィデューシャリー・デューティーを負うようになっています。
 金融庁が投資運用業者に対してフィデューシャリー・デューティーの徹底を求めるということは、その当然の帰結として、投資運用業者の組織をプロフェッショナル組織へと改革することを求めることと同じになるはずです。事実、金融庁は、金融機関全体に対して、ベストプラクティスの追求という表現で、顧客の真の利益のために最善を尽くすことを求めているのですが、これを投資運用業に限っていえば、プロフェッショナリズムの追求というのと同じです。
 
どうすれば、投資運用業界において、フィデューシャリー・デューティーの徹底がなされるのでしょうか。金融庁には、何か具体的な施策があるのでしょうか。
 
 「金融行政方針」に流れる理念からいえば、金融庁は、フィデューシャリー・デューティーの徹底のための規制を導入しないで、あくまでも、投資運用業者に対して、資産運用の能力だけで経営を成り立たせるという原理原則(金融庁は、プリンシプルという片仮名を使いますが)の徹底を、対話を通じて、粘り強く求めるだけだと思われます。
 要は、フィデューシャリー・デューティーにしても、プロフェッショナリズムにしても、高度な職業人としての倫理規範の問題なのですから、規制による強制は馴染まないわけで、どこまでいっても、経営者個人、また各所属員個人の次元において、プロフェッショナル意識が覚醒することに期待するほかないわけです。
 
現実として、投資運用業者の経営者の多くは資産運用のプロフェッショナルではないのですから、自主的改革は起き得ないのではないでしょうか。
 
 プロフェッショナルがいないから、プロフェッショナリズムの徹底へ向けた改革が起きないというのなら、日本の投資運用業に、未来は全くありません。ここは、金融庁とともに、未来の可能性を信じるしかありません、プロフェッショナルがいないのではなく、プロフェッショナル意識が麻痺しているだけなのだと。
 自分自身が資産運用のプロフェッショナルでなくとも、問題を正しく理解した経営者ならば、旧弊を根絶して、顧客の真の利益を軸とした事業運営へ向けて、大胆な改革を断行し、社内にプロフェッショナル意識の覚醒をもたらすことは、十分に可能です。要は、やる気の問題です。
 そのような経営者すらいないというのなら、資産運用に携わる各人に対して、プロフェッショナルとしての自覚を求めるほかありません。
 資産運用業界の君よ、今のままでは、悲しくはないか、情けなくはないか。プロフェッショナルとしての誇りと情熱をもって、決起せよ、叫べ、反乱を起こせ、独立せよ。顧客は、会社の屋号ではなく、その君の決意をこそ、高く評価するはずだ。
 
以上

 
 本稿をもちまして、今年の最後とさせていただきます。一年間、ありがとうございました。来年の第一回は、1月7日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2015/07/02掲載「投資のプロフェッショナルとは何か
2015/06/18掲載「資産運用の能力とは何か
2015/05/07掲載「金融機関の経営者に資産運用がわかるのか
2015/04/23掲載「みずほの資産運用能力と作文能力
2010/10/28掲載「資産運用に腕前の良し悪しはあるのか


≪ アーカイブから今週のお奨めは「処遇の科学」≫
2013/08/22掲載「人を正しく処遇する方法について
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。