金融機関の経営者に資産運用がわかるのか

金融機関の経営者に資産運用がわかるのか

森本紀行
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投資運用業は、自己資本を要するわけでもなく、利益相反取引の可能性を考慮すれば、銀行業、証券業、保険業との連携など考え得ないのですから、何故に、銀行や証券会社や保険会社の傘下に、または金融持株会社の下に並列して、投資運用業者があるのか。そもそも、金融機関の経営者は、投資運用業の本質を理解し、正しく経営できているのか。
 
 投資運用業者は、顧客である投資家から、信認を受けて、投資判断を一任されているものですから、信認を受けたものとしての重い責務を負います。英米法の国では、信認を受けるもののことをフィデューシャリーといい、その責務を、フィデューシャリー・デューティーといいます。
 事業としての資産運用が、イギリスとアメリカをはじめとして、英米法の国において高度に発展し、外国籍投資信託の設立地として知られるオフショアの拠点も、多くは英米法に準拠していることは、もちろん、偶然ではありません。投資運用業にとって、フィデューシャリー・デューティーの徹底は、不可欠の要素なのです。
 このフィデューシャリー・デューティーの存在は、金融業のなかで、投資運用業を他の事業とは異なる特別なものにしています。このことを理解せずして、投資運用業を営むことはできないのです。
 大きな金融グループのなかで、銀行業等と並列に、もしくは、その傘下に、投資運用業者をおくとしても、その経営は、他の事業と完全に切り離され、独立したものとして、なされなくてはなりません。もし、そのような完全な独立が保証されないならば、グループ内で投資運用業を営むことは、認められないということです。
 日本の金融グループは、傘下に投資運用業者をもっているのですが、極めて遺憾なことに、その経営者には、この根本的に重要なことが理解できていないのです。
 
それは、歴史的に、英米法の体系を継受していない日本では、フィデューシャリー・デューティーの適用がなかったからではないでしょうか。
 
 日本の法律のもとでは、フィデューシャリー・デューティーに該当するものは、忠実義務ですが、残念ながら、忠実義務に規範としての強制力をもたせることは、現実には、非常に難しく、故に、実効性のあるものとしては、機能してこなかったのです。そこで、金融庁は、履行強制力のある忠実義務として、新たに、フィデューシャリー・デューティーを日本に導入したわけです。
 ただし、フィデューシャリー・デューティーは、立法等により、制定されるのではありません。そうではなくて、投資運用業者の内部統制として、つまり、自己に課す規律として、機能するのです。これは、コーポレートガバナンス・コードなどで用いられている手法と同じです。
 金融機関の場合は、金融庁によるモニタリング(監督と検査を統合したもの)を受けるわけですから、フィデューシャリー・デューティーが実際に果されるように厳格な内部統制の規定がおかれている場合、その規定に反する事実を当局から指摘されることは、重大な事態を意味することとなり、そこに、フィデューシャリー・デューティーに履行強制力が働くことになります。
 また、もしも、内部統制の規定をおかないということならば、コーポレートガバナンス・コードの手法と同じで、金融モニタリングにおいて、その理由を合理的に説明できなくてはなりません。しかしながら、フィデューシャリー・デューティーの性格からして、その履行ができないことを説明することは、顧客の視点に立った場合、不可能でしょう。故に、内部統制規定の制定は不可避となり、規定を制定すれば、そこには、履行強制力が働くというわけです。
 フィデューシャリー・デューティーは、努力目標や、精神や、理想ではなく、確実に実践されなくてはならない厳格な規律です。金融庁は、「金融モニタリング基本方針」において、「商品開発、販売、運用、資産管理それぞれに携わる金融機関がその役割・責任(フィデューシャリー・デューティー)を実際に果たすことが求められる」と述べ、この点を明確にしています。
 
では、大きな金融グループに属する投資運用業者の場合、フィデューシャリー・デューティーの実践において、何が問題になるでしょうか。
 
 フィデューシャリー・デューティーの中核的な内容は、利益相反取引の厳禁です。利益相反が問題になるのは、具体的には、顧客財産の運用において、取引の相手方として、自己もしくは自己の関係者が登場する場合です。
 投資運用業の専業者であって、資産運用に関連する分野に親会社も子会社ももたないものは、役職員以外には、自己もしくは自己関係者に該当し得るものはいませんが、フィデューシャリー・デューティー以前の問題として、役職員が取引の相手方となる事態など、原理的にあり得ないように、内部統制されているので、利益相反取引の可能性はないのです。
 ところが、大きな金融グループに属する投資運用業者の場合には、顧客資産の運用に際して、資本的もしくは人的に緊密な関係にある会社との間で、取引が発生する可能性がある、というよりも、巨大な金融グループでは、不可避的に取引が発生してしまいますが、このような自己関係会社取引では、常に、顧客の利益と相反する可能性があるわけです。
 
フィデューシャリー・デューティーが求めているものは、利益相反の排除を超えて、利益相反の可能性の排除にまで至るものでしょうか。
 
 フィデューシャリー・デューティーというのは、顧客である投資家の利益を実際に守るためのものです。仮に、利益相反取引によって、投資家の利益が損なわれたとしても、その損失が実際に補償され得ないのであれば、フィデューシャリー・デューティーは機能していないことになります。
 ところが、損害賠償の一般原則を適用すれば、損失を受けた投資家は、自らの責任において、利益相反の事実を立証しなければなりません。そのような負担を投資家に課すとき、大きな金融グループと投資家との間の情報能力格差を考えれば、投資家に勝ち目はありませんから、フィデューシャリー・デューティーの履行強制力は、極めて弱いものになります。
 故に、フィデューシャリー・デューティーが実際に果たされるためには、投資家の保護を厚くするような制度的な工夫が必要なのです。そこで使われる技法が、推定規定の導入です。推定規定というのは、ある要件を充足した場合には、利益相反の事実の立証を必要とせずに、直接に利益相反を認定できる制度です。
 この推定規定のもとでは、損害を受けた投資家は、推定を成立させる要件の存在を立証すればいいだけですから、投資運用業者において反対の事実を立証できない限り、容易に、フィデューシャリー・デューティー違反の事実が認定されます。
 つまり、投資家が利益相反の存在を立証するのではなく、投資運用業者が利益相反の不存在を立証するようにすることで、投資家を有利な地位におき、フィデューシャリー・デューティー違反に対する抑止力として、機能させるわけです。
 こうして、フィデューシャリー・デューティーが実際に果たされるためには、利益相反の可能性がある行為を、利益相反を推定させる行為として、定めておくことが必要なのです。
 
利益相反を推定させる行為とは、具体的に、どのようなことでしょうか
 
 それは、もう、自己関係会社取引そのものです。ただし、例えば、投資運用業者が、自己の関係会社の証券会社が引き受けた株式や社債に投資する場合には、公正な引き受けがなされている限り、利益相反の不存在は、明瞭です。
 現実に問題となっているのは、企業年金の運用において、自己の関係会社である銀行が、母体企業との間に融資関係をもっており、また、自己の関係会社である保険会社が、母体企業の大株主であるときに、投資運用業者が、自己の関係会社のもつ優越的地位を濫用して、契約を得ている例です。
 いうまでもなく、企業年金の運用を行う投資運用業者は、専らに、制度の加入員である従業員と受給者の利益のために行動しなくてはなりません。しかし、このような事例では、自己の利益、自己の関係会社の利益、および母体企業の利益のために、行動しているのであって、そこには、重大な利益相反の可能性があります。
 ところが、こうして、運用能力において劣る投資運用業者が採用され、それが年金基金の資産運用に損失を与えたとしても、利益相反の事実を立証することは、不可能です。故に、利益相反の可能性は放置され、いたるところに蔓延しているのです。それが、日本の投資運用業の悲しい現実です。
 
投資信託の販売にも、利益相反の可能性が蔓延していますね。
 
 投資運用業者が、自己の運用する投資信託の販売について、自己の関係会社である銀行や証券会社等の販売会社に大きく依存しているのは、日本では、全くもって、普通の事態です。また、販売会社が得ている手数料等は、その対価としてなされている行為からは、合理的に説明できないほどに高額な場合が多いのも現実です。
 かような事態は、専らに投資家の利益のために行為された結果とは、考え得ないものであって、むしろ、金融グループとしての利益の最大化を目指した結果と考えるほうが、余程、自然です。
 
投資運用業者は、フィデューシャリー・デューティーのもとで、そのような利益相反を推定させる行為を、自己規律として、自らに禁じるということですね。
 
 もちろん、そういうことですが、それにとどまらずに、金融グループ全体として、同様な自己規律を導入しなければなりません。なぜなら、金融庁は、先ほど引用したように、「商品開発、販売、運用、資産管理それぞれに携わる金融機関がその役割・責任(フィデューシャリー・デューティー)を実際に果たすことが求められる」と述べているからです。
 
現状からすれば、金融グループにおいては、経営者の自覚が根本的に欠落しているのでしょうから、フィデューシャリー・デューティーによる自己改革など、不可能ではないでしょうか。
 
 金融庁がフィデューシャリー・デューティーを実際に果たすことを求めているのですから、それができないなら、投資運用業を廃業する、あるいは事業譲渡するしかないでしょう。逆に、事業を継続したいなら、徹底的な自己改革をするほかありません。
 
しかし、フィデューシャリー・デューティーを厳格に実践すれば、投資運用業を金融グループ内にもつことは、事実上、不可能になるか、可能でも、金融グループとしての実益がないことになるのではないでしょうか。
 
 自己の関係会社との取引を原則として禁じることは、完全に禁じることではありません。ただ単に、自己関係会社取引の要件を厳格にすることで、利益相反が起きないようにするだけです。その結果として、自己関係会社取引が事実上できなくなるというのなら、現状が許容し得ないほどに出鱈目であることを証明するだけです。ならば、撤退するほかないでしょう。
 フィデューシャリー・デューティーの徹底は、当然のこととして、金融グループ内で、投資運用業者の経営を完全に独立のものにすることに帰着します。
 つまり、投資運用業者においては、金融グループ内で、役員の兼任も、人事の交流も、営業協力関係も、連携による利益の追求も、原理的に不可能になるということですし、もしも、しようと思えば、高度な条件を満たさなければならないということです。
 そうすることで、金融グループ内に投資運用業をもつことの実益がなくなるというのなら、現状が不公正な利益の追求であることを証明するだけです。ならば、撤退するほかないでしょう。
 
フィデューシャリー・デューティーのもとで、金融グループが投資運用業をもつことの真の意義は、どこにあるのでしょうか。
 
 真のROE経営です。投資運用業は、フィデューシャリー・デューティーを徹底してこそ、はじめて、価値をもつものです。また、投資運用業は、高度な資本規制のもとにある金融グループのなかで、自己資本をほとんど使わない事業としての大きな価値があるのです。
 投資運用業部門において、小さな自己資本の上に、大きな企業価値を作ることで、金融グループとしての連結ROEは高まります。金融グループにおいては、そこに、投資運用業の価値がある、いや、そこにしか、投資運用業の価値はないのです。
 日本の金融グループの経営者は、この根本的な点を理解できていないのです。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2015/04/23掲載「みずほの資産運用能力と作文能力
2015/01/15掲載「金融機関が陥る集団の愚
2014/12/25掲載「ルール遵守で馬鹿になった金融機関
2014/10/23掲載「金融庁のいうフィデューシャリー・デューティーとは何か
2014/10/09掲載「金融庁に「高度化」を求められた資産運用の貧困
2014/10/02掲載「金融モニタリング基本方針の画期的な意義


≪ アーカイブから今週のお奨めは「産業革新機構」≫
2013/03/28掲載「ジャパンディスプレイは産業革新機構なしでもあり得たか
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。