資産運用の能力とは何か

資産運用の能力とは何か

森本紀行
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金融庁は、昨年9月に公表した「金融モニタリング基本方針」において、「資産運用の高度化」を重点施策に掲げました。高度化というからには、現状の資産運用の能力が低いとの認識に基づくことは明らかですが、では、資産運用の能力とは何なのか。それがわからなければ、高度化のしようもありません。
 
 資産運用の能力とは何か。資産運用に腕前の良し悪しはあるのか。金融庁は、「資産運用の高度化」といったとき、どのような評価軸を念頭に、高いか低いかを判定しようとしたのか。これらの問いは、そう簡単に答えられるような性質のものではありません。
 
資産運用の腕前の良し悪しは、要は、運用成果そのものではないでしょうか。
 
 能力の差が結果に表れるとしても、逆に、結果の差から能力の実態を突き止めることは、極めて困難だろうと思われます。なぜなら、結果の差は、運というか、偶然のなせる業にすぎないかもしれないからです。
 ところで、資産運用の成果の多くの部分は、市場の動き、即ち、投資対象全体の価格変動や利息配当金等の平均的水準によって規定されており、そこに、資産運用の能力を論じる余地はありません。能力があるとして、それを示すものは、実際の運用の成果のうち、市場の動きでは説明され得ない部分のみです。要は、市場の動きとのずれが、その裏に、運用能力の存在の可能性を示すのです。
 
では、ずれが単なる偶然のものではなくて、運用の能力に起因するものだといえるためには、何が立証されなくてはいけないのでしょうか。
 
 ずれの背後に、一種の法則性が見いだされなくてはなりません。
 運用者は、その能力が問われている限り、市場の動きで説明される収益率よりも、高い収益率を達成しようとしているのです。その目的の達成には、意図、あるいは戦略が必要です。そして、戦略を実行するためには、ある種の手法があるはずです。手法は、客観的に説明されるからこそ、手法なのですから、一定の方法に基づき、実際の運用成果と市場の動きとの差のうち、手法の適用による部分を説明できるはずです。
 今、運用成果の全体のうち、その戦略的な方法で説明できる部分を、戦略効果と呼んでおきましょう。そして、市場の動きで説明される部分を、市場効果と呼ぶことにします。実際の運用成果から、市場効果を引き、更に、そこから戦略効果を引いても、なお、ずれは残るでしょう。もしも運用の能力があるのなら、その残ったずれにあるのです。
 
戦略は、運用の能力ではないのでしょうか。
 
 戦略が、戦略として、客観的に記述される限り、それは複製可能です。故に、能力ではありません。戦略とは、別のいい方をすれば、市場の全体から、ある特定の条件を適用して、その一部を取りだすことです。
 例えば、社債市場の全体に対して、一定の格付よりも下の社債のみに特化して運用するというのは、一つの戦略ですが、その戦略から期待される成果は、社債全体のなかから該当する社債の全てを分離して、その部分についての収益率を計測することで、複製することができます。いうまでもないことですが、この複製された収益率には、運用の能力は一切含まれません。
 現実の運用においては、一定の格付よりも下の社債の全体に投資するわけではありません。運用者の判断で、いくつかの具体的銘柄を選択して、投資するのです。故に、実際の運用の成果は、戦略を複製した収益率とは異なってきます。運用能力があるとしたら、その差のなかにしかないでしょう。
 つまり、運用の能力とは、戦略効果、即ち、客観的に測定される戦略に基づく収益率と、運用者が実際に戦略を適用することによって得られた収益率との差のなかにあるはずなのです。
 
その差を、能力として、特定することはできるのでしょうか。
 
 それは、不可能でしょう。現実に行われているのは、一定期間の過去実績を計測した結果、安定的に戦略効果を上回る実績がでていることをもって、その裏に、運用能力が存在するとみなしているだけです。所詮、この程度のことならば、よく知られているように、運用能力といっても、過去の実績が将来に再現することを保証できないのですから、意味はないのです。
 
では、意味のある運用能力とは、何でしょうか。
 
 過去の実績が再現することを保証する要素です。それは、一言でいえば、熟練です。
 熟練というのは、同じことの繰り返しから生まれるものではありません。実際、資本市場で生起することに、同じものはないのですし、投資対象の株式や社債の銘柄についても、同じものはないのです。しかし、同時に、全く異なることも生起しませんし、全く異なる銘柄もありません。金融事象として、投資対象の属性として、類型化できる要素があるが故に、過去の経験が活きるのです。
 類型化しても、全く同じではない以上、必ず、事案ごとに、少し異なるところ、過去の経験では知られていない要素が含まれます。未知なこと、経験の活きないことについては、その都度、適切に判断しなければなりませんが、その判断の正しさを保証するものは、何もないのです。故に、そこには、必ず、賭けの要素が伴います。
 賭けが可能なのは、賭けの要素が特定されていて、その余については、経験により、熟練しているからです。つまり、賭けは、熟練によって管理可能性のもとにおかれることで、投機ではなく、投資の判断になるのです。また、逆に、賭けの勝率は、賭けの定義により、五割だとしても、賭けによってのみ、未知なるものが既知なるものに転換するのであって、そこに、熟練が生じる契機があるのです。
 つまり、熟練がなければ、過去の実績の再現性は保証されず、また、過去の延長を超えたことについての判断、全く新たなる要素への判断、経験が効かないことへの判断、根拠なき判断、要は一言でいって、賭けを、絶えず繰り返すのでなければ、熟練は生じないのです。
 
そうしますと、運用の能力というのは、熟練を生む賭けの能力ということになるのでしょうか。
 
 賭けの能力というと、誤解を生じるおそれが極めて大きいのですが、それでも、運用の能力は、賭けの能力に帰着するとしか、いいようがありません。ただし、そこには、投資としての賭けを、投機としての賭けから、峻別するものがなくてはなりません。それは、規律です。
 賭けは、賭けである以上、勝率五割にすぎません。その賭けが、熟練を通じて、勝率五割以上の運用の能力となるためには、賭けの失敗と成功は、その都度、事後的に検証されなくてはなりません。検証を通じてのみ、賭けは、熟練となっていくのです。
 検証が可能であるためには、賭けは、場当たり的であってはならず、必ず、一定の統制のもとにおかれていなくてはなりません。つまり、そこには、厳格な規律がなければならないのです。
 
運用の能力とは、熟練につながる賭けを規律に従って行う能力ということですね。では、規律とは、何でしょうか。
 
 賭けは、決断です。決めることです。資産運用のなかでは、常に、決断を求められます。決められないから、決めないのでは、そもそも、資産運用になりません。決めたことは、即座に、決めたとおりに、実行されなくてはなりません。実行しないのならば、そもそも、資産運用になりません。規律とは、決めることであり、決めたことを守ることです。
 
何か、例によって、規律を説明できないでしょうか。
 
 株式投資の基本は、株式の価値の評価から始まります。金融の世界では、投資対象の価値の評価には、一定の確立した手法があります。それは、投資対象が将来的に生み出す純キャッシュフローを現在価値に割り引くことです。株式の価値評価手法も同じです。企業が将来的に生み出す純キャッシュフローの現在価値が、株式の価値です。
 価値分析には、当然のことながら、将来の不確実な状況について、多くの仮定を置かなくてはなりません。不確実な未来への賭けとは、まさに、この仮定の設定にあるのです。この賭けは、いうまでもなく、長い経験に基づくものとして、熟練のうえになされるものです。
 資産運用能力とは、投資対象の価値分析の熟練を前提にしています。その熟練が生じるためには、一つ一つの分析のたび毎に、小さな賭けを繰り返すことが必要なのです。このことは、株式であろうが、不動産であろうが、全ての投資対象について、共通です。
 さて、今、運用者は、自己の価値評価として、ある株式の銘柄に、1000円を付けるとします。しかるに、市場では、それが800円で取引されています。当然に、運用者は、それに投資するでしょう。規律とは、800円で買う、一定期間内(ここでは、1年としておきます)に、期待通り、1000円になったら、売却する、そう決定し、そう行動することです。
 
現実は、期待通りには、動きません。そのとき、運用者は、厳格に規律に従うことができるでしょうか。
 
 買ってすぐに1000円になったら、どうするでしょうか。規律通りに売れるでしょうか。逆に、もっと上がると思って、買い増したりしないでしょうか。
 600円に下がったら、狼狽して、売りはしないでしょうか。そこで売りをこらえても、800円に戻ったら、ああ、良かったと思って、売ってしまわないでしょうか。
 1年後、800円のままだったら、どうするでしょうか。投資判断の誤りを認めて、規律に従って、売却できるでしょうか。漫然と、継続保有にしてしまわないでしょうか。
 少し考えただけでも、規律を守ることが、いかに難しいか、ご理解いただけると思います。また、規律を守らない限り、全く定見のない売買に流れて、資産運用の態をなさないことも、ご理解いただけると思います。
 
結論として、資産運用の能力とは、賭けの規律に帰着しますね。ところで、この能力は、組織内の個人の次元と、組織の次元とに、どのように帰属するのでしょうか。
 
 賭けは、個人の次元でしか、行い得ないものです。組織として賭けることはできません。それは、賭けということの性質上、当然です。賭けに理由はない以上、賭けの根拠を組織的に共有することは、不可能だからです。賭けは、熟練に基づく個人的確信でしかないのです。
 確信は、盲信ではありません。それは、価値分析の熟練からしか生まれません。逆に、確信を得るために、徹底した価値分析を行うからこそ、熟練も生じるのです。調べは尽くしたという思いの先にしか、確信はないのです。
 しかし、人は、心理的に弱いものです。確信にも、揺らぎが生じます。というよりも、資本市場では、予想もしないことが普通に生起するのであって、常に、運用者の確信を揺さぶるのです。その個人の弱さを支えるのは、組織の統制です。規律ある個人の行動は、組織の力によって、確立されるのです。
 
では、日本の資産運用業界の現況をみるとき、「資産運用の高度化」のために、今、何がなされるべきでしょうか。
 
 組織規律の確立こそが、喫緊の課題です。組織規律がないところ、個人の育成もない以上、組織規律の確立が先決なのです。そのためには、少なくとも、次の二つの重要な点について、抜本的な見直しが必要でしょう。
 第一に、合議による決定という不可能な幻想を捨てることです。合議による決定は、多くの場合、無責任な不決定に堕すだけです。決断の責任は、個人しか負えないのです。いうまでもなく、それは、結果責任を負うことではありません。結果責任を個人に負わせたら、決断できなくなります。組織として結果責任を負い、個人として決定責任を負うからこそ、賭けとしての資産運用が成り立つのです。
 第二に、規則の遵守をもって規律と錯誤している現実に、訣別することです。例えば、先程の例でいえば、1000円の価値があるとの確信のもと、800円で購入した銘柄につき、600円に値下がりしたとき、規則によって売却(いわゆるロスカットルール)するのではなく、規律によって保有し続けることが重要なのです。
 要は、資産運用の能力は、決断と規律が核であるわけですが、決断については、組織的無責任から、個人的確信へ、規律については、規則による個人の拘束から、規律による個人の確立へ、という本質的転換が必要なのです。
 
以上


 
 次回更新は6月25日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2015/05/07掲載「金融機関の経営者に資産運用がわかるのか
2015/04/23掲載「みずほの資産運用能力と作文能力
2014/12/25掲載「ルール遵守で馬鹿になった金融機関
2013/08/15掲載「You Can Do Anythingという責任と規律
2010/10/28掲載「資産運用に腕前の良し悪しはあるのか


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2011/04/07掲載「賭けの決断、賭けの責任、賭けの回収
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月当時のワイアットに入社し、日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。