日本にこだわってこそのグローバル

日本にこだわってこそのグローバル

森本紀行
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グローバル化とか、グローバル人材の育成だとか、本当によくグローバルということがいわれますが、グローバルとは何のことでしょうか。英語化というような表層の次元や、企業の多国籍化や自由貿易の拡大というような経済現象の地平を超えて、そこには、何か理念的なものはないのでしょうか。
 
 グローバルは、インターナショナルではありません。インターナショナルは、字義通り、国家と国家の関係です。グローバルは、字義通り、地球という超国家の次元です。
 近代社会の成立は、国民国家の成立によって、画されます。以来、今日に至るまで、同じ国家に属する人同士の関係、即ちドメスティック(国内的)な関係と、異なる国家に属する人同士の関係、即ちインターナショナル(国家間的)な関係とは、本質的に異なるものとなったのです。
 ところが、グローバルは、端的に人と人との関係です。日本企業がアメリカの顧客に商品を売るというのは、インターナショナルな発想です。グローバルな発想では、単に一企業が一顧客に商品を売るだけのことです。グローバル化とは、そうした発想の転換のことでなければなりません。
 私は、常々、グローバルということに、歴史の進歩を、人類の叡智の進展を、理性の創造的な自己展開を感じます。人類の歴史は暴力による支配の歴史です。国民国家の成立は、少なくとも、国内における理性の支配を実現しますが、かえって、戦争という国家間の暴力の行使を正当化させます。
 しかし、グローバル化の進展は、国民国家の限界を超えて、最終的には、一つの世界市民社会としての地球の上に、理性の支配を実現するでしょう。その日がいかに遠かろうとも、人類が歩む方向が決まっている以上、その日は必ずくるのです。
 アメリカ企業が、圧倒的なアメリカ国家の軍事力を背景にして、アメリカ国外の市場へ展開しているとしたら、それは、グローバルではありません。アメリカ企業が、純粋に事業の合理性のみに基づいて、国外展開してこそ、グローバルです。グローバル化とは、そうした力の支配から理性の支配への転換でなければなりません。
 

グローバルとは、社会哲学の地平にあるのですね。
 
 理念として、グローバルは、社会哲学の地平になければなりません。しかし、そういうことは、逆に、現実社会がいかにグローバルでないかを物語ります。代表例がオリンピックでしょう。本当は、真にグローバルなスポーツの祭典でなくてはいけないのでしょうが、競技の仕組みも、開催地の選定も、国家と国家の競争関係になっています。
 オリンピック運営の背後にある哲学は、真にグローバルなものであるはずですが、現実の運営は、著しく錯綜したインターナショナルな利害の対立です。むしろ、グローバル経済活動のほうが、真にグローバルな協調と相互理解に支えられているかもしれません。それは、おそらくは、経済活動のなかに、経済の合理性という普遍性が潜むからではないでしょうか。
 

しかし、それでは、表題はおかしくはないでしょうか。なぜ、日本というナショナルなものを強調することがグローバルなのでしょうか。
 
 それは、日本も地球の上にあるからです。つまり、日本がグローバルの一部を構成するからです。経済分野についていえば、グローバル経済のなかの極めて大きな部分が日本なのです。グローバル経済は、日本をとりまく外部環境なのではないのです。それは、日本を大きな要素として含む一つのものなのです。グローバルは一つです。地球は一つですから。
 

グローバルが日本を含むとしても、どうして、日本的なものを強調することがグローバル化なのでしょうか。
 
 では、逆に、日本的なものを否定することが、特殊日本的なものを払拭していくことが、グローバル化なのでしょうか。
 グローバル化とは、何か一つのものに統合されることではありません。そもそも、理性以外には、人間には共通するものはない。全てが個性的なのです。グローバルは、理性による支配であると同時に、多様なる感性、心性、価値観、言語、食べ物、着るもの、その他何でも個性的なるものの共存です。故に、グローバルと並んで、もう一つの重要概念が多様性(英語のダイバーシティですが、片仮名でいう必要もないような気がします)となるのです。グローバルは、多様性と組み合わさって、初めて意味のあるものになります。
 多様なものが、多様なものとして、相互に尊重しあい、相互に刺激しあい、相互に吸収しあい、相互に働きかけあうことで、新しいものが創造されてくるのです。それが、人類の進歩であり、世界市民文化の創造的革新であり、経済社会の成長です。
 グローバルな理性の支配と、そのもとでの多様性、多様性が作り出す豊かな文化的創造、ああ、理想の世界市民社会・・・。
 

その多様性のなかで、日本的なものが輝かなくてはならないということですね。
 
 そうです。中国やインドの食文化に刺激を受けて、日本でラーメンやカレーライスが創造されたように、浮世絵がフランス印象派に大きな影響を与えたように、伊万里がマイセンに影響を与えたように。
 日本にしかないもの、日本の文化的伝統のなかから生まれてきたもの、日本固有のもの、日本の歴史的体験に根差すもの、日本の個性、日本人各人の個性、要は、日本的なものをグローバルな文化創造の場に提供することによって、日本はグローバル文化の進歩に積極的な貢献ができるのです。
 しかも、日本にこだわることは、日本に閉じ籠ることではないのですから、ありとあらゆる非日本的なものを日本的なものに融合させ、そこに、化学反応、いや、爆発を起してこそ、グローバルなわけです。そういう意味で、ラーメンはすごい。
 正統な日本料理を海外に普及していこうという発想は、グローバルではありません。日本料理の技法を全世界のありとあらゆる食材に適用し、日本固有の食材を世界のありとあらゆる調理方法に適用してこそ、グローバルなのです。
 

そうであれば、正統な英語を学ぶことは、少しもグローバルではありませんね。
 
 英語を生得の言語とし、正統な英語を話す人々は、世界共通言語としての正統な英語の普及を望むかもしれませんし、英語以外の言語を生得の言語としている人は、正統な英語を身につけたいと願うかもしれません。しかし、正統な世界共通言語は、それができるとして、英語を基礎に置いたものかもしれませんが、多様な他言語から新しい表現や単語が取り込まれて、正統な英語とはかけ離れた何ものかになるのではないでしょうか。
 日本でグローバル化がいわれるとき、必ず英語教育の問題になりますが、正しい英語を語学として習得することは目的ではないはずで、社会的行動として英語を使って意思を伝えることが目的ですから、英語教育政策の課題は、英語を教えることではなく、英語を使う機会を作ることになるはずです。
 実際問題、日本固有の価値は、英語に翻訳され得ない場合もあるし、敢えて英語に置き換えない場合もあるので、英語のなかに日本語が外来語として入り込むことになります。英語のワギューは和牛ですが、それは、日本にしかない特別な牛肉なのです。故に、そのまま、英語の単語になってしまったのです。
 和牛は、日本の高度な品質にこだわったが故に、その故にこそ、グローバルな高級食材になったのです。しかし、他方で、牛肉が西洋の代表的な食材であったからこそ、グローバルになり得たわけで、単なる日本の固有性だけでは、グローバルな食材たり得なかったはずです。
 

クールジャパンというのも、日本的なものの魅力を訴えるだけでは、グローバルではないですね。
 
 グローバルな視点でクールジャパンを考えるならば、既にある日本的なものを日本の外へ紹介することではなくて、日本的なものを非日本的なものと組み合わせて新しいものを作り出すことが課題となるはずです。
 日本のマンガ文化を日本の立場から日本の外へ紹介しても、マンガ文化のグローバル文化への創造的成長は起き得ないでしょう。日本のマンガ文化と、日本の外のありとあらゆる現代芸術の領域とが、相互に響きあい、創造的に働きかけあい、何か新しいものが生まれてこそ、日本のマンガ文化がグローバルな貢献をなし得るのです。
 

日本とグローバルの関係は、日本の地域と日本との関係と同じですね。
 
 グローバル経済のなかで日本の相対的地位が低下しているのだとしたら、その根源において、日本のなかにおける地域経済の相対的地位の低下に通底する問題が潜むのです。
 地域経済を支えてきたものは、いわゆる中央からの誘致です。工場、道路、鉄道、その他何でも地方にないものを中央から誘致することが地方の発展だったのです。
 その結果、地方色はなくなり、景観は、どこも同じになりました。地方の旧街区の小売業は壊滅し、主要道路沿いの中央の大資本の店舗に置き換えられました。地方にないものを誘致した結果は、地方の中央への隷属化を招き、地方固有の成長源泉が枯渇してしまったのです。そこで、今、地域経済復興の方策として注目されるのが、地方にしかないものを活かす方向への転換です。
 日本の経済成長は、日本にない西洋文化の成果を積極的に取り込むことで実現されたものです。その結果、未だ西洋文化に革命的衝撃を与えるほどの文化的創造もできないなかで、日本と同様の成長戦略をとってきたエマージング諸国の猛追撃を受け、現状に陥ったわけです。故に、今、日本経済復興の方策として、日本にしかないものを真にグローバル化していく方向へ転換すべきではないでしょうか。
 
以上


 次回更新は9月26日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2013/09/13掲載「カネにモノをいわせる報酬の払方
2013/09/05掲載「報酬の払方、先か今か後か
2013/08/29掲載「給料等の報酬は何の対価か
2013/08/22掲載「人を正しく処遇する方法について
2013/08/15掲載「You Can Do Anythingという責任と規律
2013/08/08掲載「You Can Do Anythingという企業文化
2013/08/01掲載「人、創造の場、環境としての企業
2013/07/25掲載「資本人材の資本利潤
2013/07/18掲載「人材の不良債権化
2013/07/11掲載「貢献と処遇、あるいは債務人材と資本人材
2013/07/04掲載「人的資本投資の理論

≪ アーカイブから今週のお奨めは「グローバルとインターナショナル」  ≫
2012/09/20掲載「グローバルとインターナショナルの本質的な違い
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。