カネにモノをいわせる報酬の払方

カネにモノをいわせる報酬の払方

森本紀行
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • mixiチェック
報酬は、金銭によるとは限りません。現物給付でもいい。雇用契約についても、理屈上は、給与等の報酬の支払い方について、多様な方法があってもいいわけですね、雇用法制の許す範囲内であれば。
 
 手当というものがあります。あるいは、ありました、と過去形にすべきかもしれません。企業人事制度の現在の潮流では、諸手当は整理される方向にあるからです。消え去った諸手当のなかに、家族手当というものもありました。例えば、子供一人につき月額いくら、というような手当の支給です。
 この家族手当を評して、ある人事制度設計の権威である某氏は、「なぜ企業が社員の生殖能力に対して報酬を支払わなければならないのか」、という名言をはかれたものです。心もち品性を損なう感もありますが、家族手当の不合理性を鋭くかつ極めてわかりやすく指摘したものとして、歴史的名言だろうと思われます。歴史的というのは、歴史に残るということではなく、20年も昔の発言だという意味ですが。
 現在の企業経営においては、家族手当を認める余地はなくなっていますが、では、なぜ昭和の時代まで、企業人事制度として、家族手当は存続し得たのか。まさか、社員の生殖能力と企業業績との間に因果関係を認めていたわけもなく、そこには、処遇制度としての何らかの合理性があったと考えないわけにはいきません。それは何か。
 間違いなくいえることは、家族手当は、成果への対価でも、仕事への対価でもないということです。それは、何の対価でもあり得ないのです。ところが、企業統治の論理からいえば、何の対価でもない金銭の支出はできないはずです。そこを、先ほどの某氏は、皮肉たっぷりに、かつ極めて論理的に、ならば家族手当は生殖能力への対価であると結論つけたのでした。
 しかし、金銭の支出は、常に何かの具体的な効用に対する対価でなければならないのか、そう考えることは、一つの偏狭な発想ではないのか。人は、お祝い、お礼など、様々な社交的機会において、金銭の授受を行っています。そのような金銭の支払いは、何らかの気持ちを伝えるのが目的です。ならば、企業においても、気持ちを伝えるための金銭の支給があってもいいのではないか。
 

では、家族手当の支給を通じて、どのような気持ちを伝えようとしたのでしょうか。
 
 さあ、発生の原初における経緯はわかりません。ただし、一つの企業に属する人は、一つの価値なり歴史なり文化なりを共有するということ、一つの共同体的なものの構成要素であること、何か、そのような思想を背景としない限り、企業に関係のない家族構成についてまで、手当を支給することはできないはずです。要は、企業の中の人は企業の外の人とは異なる特別なものであるとする意識があったということでしょう。
 現在では、正規雇用だろうが非正規雇用だろうが、同一の仕事に対しては、原理的に、同一の報酬が提供されなければならないわけですが、以前には、社内の正社員のほうが有利な報酬を受けるのが普通でした。この報酬格差は、やはり、企業内の人の自然な特権としてしか、正当化され得ないでしょう。自然なという意味は、論理を超えた感性(あるいは心性)の次元でということです。
 要は、家族手当の支給を通じて、一体感、あるいは帰属意識、何か、そのようなものの醸成が意図されていたのでしょう。その限りで、確かに、伝えたいものはあったのです。
 

故に、表題の通り、カネはモノをいうのですね。
 
 金銭価値の給付は、金銭の額面だけの意味を果たせば、それで十分なのですが、支払いの名目(諸手当など)、時期(先払い、後払い)、方法(手交など)、形態(環境や現物や自社株など)等、様々に支払方法を工夫することで、額面以上の効果、あるいは付随した効果を期待できるのではないのか、カネはモノをいうのではないか。
 私の大好きなハードボイルド小説では、探偵は、バーテンダーなどから情報を引き出すとき、紙幣をちらつかせながら、上手に心理的な揺さぶりをかけていくわけですが、この技術は、どう考えても、お金を払うという約束だけでは機能しない。現金を見せることを抜きには成り立たないのです。金額が人を動かすのではない。現金という形態が人を動かすのです。まさに、カネがモノをいう代表的事案です。
 諸手当というのも、様々な名目をつけて給付することで、金額の総額以上の何らかの効果を狙ったものだったと思われるのです。例えば、手当の代表的なものである住宅手当などは、かなり複雑な背景をもつものだと思われるのです。


確かに、住宅手当は、現物給付であるところの社宅と関係があるはずなので、込み入っていますね。
 
 私の父は官僚でした。ですから、私はずっと官舎(といっても、今では、わからない方もいるかもしれません。公務員住宅のことです)に住んでおりました。官舎というのは、結構立派で、何よりも、とてもいい立地にあるにもかかわらず、家賃は破格ですから、これは、大変に有利な現物給付であったわけです。
 背景には、全国どこへでも転勤し、しかも転勤の頻度が高いという勤務形態の特殊性があったでしょうし、また当時の住宅事情もあったでしょうが、それよりも、官僚の特権的地位を象徴するものという側面のほうが強かったのではないでしょうか。
 企業の社宅というのも、住宅事情や転勤など、官舎と同様な背景を有していたと思われますし、自社員を特別なものとして処遇する側面も共有していたと思われます。ただし、官舎とは異なって、供給面で、社宅に入居できる人の数は限られるので、その不公平を調整するために、住宅手当が必要になったのでしょう。
 なお、本論の趣旨からは少し逸れますが、住宅のような現物給付に税制面での利益があることは見逃せません。住宅手当は、課税所得ですが、社宅の低廉家賃と実勢家賃の差額は、課税所得ではないからです。そこから、借り上げ社宅のような制度も必要になってきたのです。
 こうして複雑になった制度は、最終的には、社宅の廃止、それに伴って、住宅手当も廃止という方向へ進んでいくのです。


手当のなかには、転勤等で生じる不公平を是正しようとする意図もあったわけでしょうから、そこにも、企業の公正処遇についての思想の表明があったのかもしれませんね。
 
 私は父が北海道へ赴任しているときに生まれたのですが、北海道勤務には、寒冷地手当が出ていました。当初は、暖房用に薪を焚いていたのですが、私が小学校へ入ったころには、石炭になっておりました。故に、石炭手当などといっていたものです。石炭代は、寒冷地勤務にともなって生じた余計な出費ですから、それを補償するのは、当時としては、筋が通るようですが、現在では、そうはならない。
 当時は、冷房はなかったから、寒冷地の暖房費だけが余計な出費として目立ったのですが、今はそうではない。寒冷地には、逆に、冷房代が少なくてすむという利益がある。また、何より、田舎の生活費は安い。官庁のように東京に本部のある全国組織の場合、報酬水準は東京基準なので、地方勤務者の場合、生計費格差によって、大きな利益を得る。それが公平か不公平か、そのような答えの出ない問題について、いちいち斟酌してはいられません。故に、諸手当廃止です。
 なお、こうした手当は、確かに会社都合による不利益は補償すべきという思想を背景にもっていたとは思いますが、それよりも、ご苦労様というような慰労の気持ちのほうを強くもっていたのではないでしょうか。私には、そのように思われますが。
 

慰労の気持ちといえば、退職金にも、そのような側面があったかもしれませんね。
 
 私は、戦後の高度経済成長期に普及した退職金制度に、人事処遇制度の科学としての高度な内容を認めるものです。退職金は、慰労金や功労金として発足した経緯をもつ制度もあるにはあったのですが、主流は、最初から、後払い報酬として設計されていたのです。そのなかにも、慰労的な気持ちは込められていたでしょうが、それは、制度の目的ではなかったと考えています。
 

いずれにしても、諸手当は、衰退に向かいますが、それは、そこに籠められてきた意味が無意味化したからでしょうか。
 
 諸手当に籠められた意味は、基本的に、企業を一つの価値共同体のようなものと見做すなかで、身内の所属員を特別に遇するという企業の姿勢を表明したものが中心であったと思われます。故に、その文化的基盤が崩れれば、諸手当もなくなる運命となるのです。ここで、文化的基盤が崩壊したという意味は、企業という全体のなかの個人という位置づけから、個人の集合としての企業へ転換したということです。
 企業という全体のなかの個人であったからこそ、個人の生活領域までも処遇制度のなかに取り込めたのですが、全体の統合を支えてきた共同体性が失われ、独立した個人と企業との間の関係に分解すれば、個人の生活領域は、完全に企業の埒外の分野になります。
 

では、新たなる別の意味を籠めた制度を作ればいいのではないでしょうか。
 
 まさに、そこが私の論点なのです。家族手当が正当化されていた時代には、企業は、その時代の必要に即した気持ちを伝えたかったのです。むしろ、逆に、伝えたい気持ちが家族手当に化体したと考えるほうが素直でしょう。
 現在においても、企業には、必ず、伝えたい何かの気持ちがあるはずです。しかも、ある人材の層には、あることを、別の人材の層には、別のあることを、というように。人事処遇制度というのは、そもそもが、緻密な人材層の区分の上に立脚した仕組みです。ならば、人材層ごとに報酬の払い方に工夫を凝らせば、多様な思いを、その思いを伝えたい層に的確に伝えることができるはずです。
 手当等の整理に伴い、処遇制度は、事実上、年俸という金額の問題に収斂してきています。しかし、金額が人を動かすだけではなく、金額の払い方の工夫によっては、より有効に人を動かすことができるのです。実際、ストックオプションなどは、この方向の代表例でしょう。
 実は、私は、退職金制度の設計によって、多様な意味の伝達ができると考え、その仕組みを「戦略的ベネフィット」と名付けて、現実に具体化もしました。今改めて、その復興を目指しています。しかし、その話は、また別の機会にしましょう。
 
以上


 次回更新は9月19日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2013/09/02掲載「報酬の払方、先か今か後か
2013/08/29掲載「給料等の報酬は何の対価か
2013/08/22掲載「人を正しく処遇する方法について
2013/08/15掲載「You Can Do Anythingという責任と規律
2013/08/08掲載「You Can Do Anythingという企業文化
2013/08/01掲載「人、創造の場、環境としての企業
2013/07/25掲載「資本人材の資本利潤
2013/07/18掲載「人材の不良債権化
2013/07/11掲載「貢献と処遇、あるいは債務人材と資本人材
2013/07/04掲載「人的資本投資の理論

≪ アーカイブから今週のお奨めは「TPP」  ≫
2012/09/20掲載「TPPに打克つ日本農業の底力
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。