20160915 麻生太郎先生の「よほどやばい」発言の含蓄 麻生太郎副総理は、日本国民の意識として、「何となく債券、株に投資するのは危ないという思い込みがある。あれは正しい」としたうえで、「われわれの同期生で証券会社に勤めているのは、よほどやばいやつだった」と述べられたようです。先生特有の乱暴すぎるくらいに明快な発言ですが、実は、意外に、深い含蓄がありはしないでしょうか。 金融の脱構築
20160825 銀行が預金をやめるとき 銀行に限らず、預金取扱金融機関は、預金を受け入れることができるという特権の上になりたっているのですが、同時に、その特権によって、最高度に規制されてもいるわけです。さて、現在の社会経済環境において、預金という特権は、銀行機能にとって、必須のものなのか、預金なくしても、銀行機能は、よりよく実現されるのではないのか、むしろ、特権を放棄することで、経営の自由度を確保するほうが得策なのではないのか。 金融の脱構築
20160818 銀行がなくなる日に、銀行機能は甦る 銀行がなくなっても、銀行が提供している金融機能が残る限り、何ら問題はなく、そのことで金融機能の利用者にとっての利便性が向上するのならば、銀行のない社会のほうが望ましいわけです。要は、銀行でなければ決して提供し得ないような機能、即ち、銀行の絶対的な存在意義はあるのか、あるのなら、その意義を再確認すべきだし、ないのならば、高度規制業としての銀行を廃止し、各金融機能の提供を完全に自由化するべきではないのか。 金融の脱構築
20160602 モノを借りても買っても、費用は同じ 住宅は借りるのが得か、買うのが得か、これは、誰しもが考える難問です。しかし、金融理論的には、住むという機能において、経済効果、あるいは経済価値が同じものは、等価でなければならない以上、借りても、買っても、費用は同じでなければならないはずです。しかし、現実には、等費用になりません。では、理論と現実の差を、どう考えるべきか。 金融の脱構築
20160204 銀行は、ヒトにではなく、モノとコトに貸したらどうだ 銀行等の融資は、法人と個人、つまり、ヒトを対象にしています。これは、利息支払いと元本弁済の裏付けとして、ヒトの経済活動を通じた現金の稼得を前提にしているからです。ならば、一歩を進めて、現金の稼得力があるのなら、ヒトでなくとも、モノでもコトでも、融資の対象になるはずです。さて、伝統的なヒトに対する融資に比べて、何が変わるのか。 金融の脱構築
20160121 いっそ銀行に住宅仲介をやらせるか 住宅ローンは、熾烈な競争の結果、もはや、金融機関として、利益がでる事業なのか、疑わしいところまで、金利が低下しましたが、その裏で、どれだけの住宅が新しく供給されたのか、それも、疑わしいのです。なぜなら、住宅ローン競争とは、多くは、金融機関間の借換え競争だからです。こうして、金融としての社会的機能を失いつつある住宅ローン、抜本的改革は不可避ですが、例えば、住宅仲介との統合はあり得るのか。 金融の脱構築
20160107 銀行は、カネではなくて、モノを貸したらどうだ 資金を調達しようとする企業には、当然に、資金使途があります。それが設備等を購入する目的ならば、資金を借りるのではなくて、モノ自体を借りることによっても、目的は実現します。資金供給側としても、銀行等から資金を融資する以外に、リース会社を通じてモノを貸す方法もあり得ます。さて、カネかモノか、貸す側、借りる側、それぞれの利益と都合は何か。 金融の脱構築
20151217 住宅ローンが欲しいのではない、住宅が欲しいのだ お金を借りるについては、借りる目的があります。お金を借りないでも、目的が実現できるなら、誰も、お金を借りたくないはずです。住宅が欲しいという目的が単に住みたいということなら、賃貸でもよく、ならば、住宅ローンは不要なのです。さて、銀行等の立場として、融資の申し込みに対して、どこまで、資金使途を突き詰めるべきなのか、融資しなくても、目的が実現できるときは、融資を断るべきなのか。 金融の脱構築
20140717 オブジェクトへの金融 オブジェクトとは何か。それは、事物であり、目的です。オブジェクトへの金融とは、企業という法人への金融ではなくて、企業が行う事への金融、企業が保有する物への金融、企業の資金調達の目的そのものへの金融です。そのような金融手法は、可能なのか、必要なのか、どのような利点があるのか。 金融の脱構築