元金融庁長官の森信親氏の掲げた理念が立法化されるとき

元金融庁長官の森信親氏の掲げた理念が立法化されるとき

森本紀行
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<毎週木曜日 11:30更新>

2015年から3年間、金融庁長官であった森信親氏の掲げた理念は、金融行政を根本的に転換させ、今も力強く生き続けて、順次、法律に具現化されていっています。
 
 2016年4月13日、当時の金融庁長官であった森信親氏は、「第31回国際スワップデリバティブ協会(ISDA)年次総会」において、「静的な規制から動的な監督へ」と題された講演を行い、金融界に新鮮な衝撃を与えました。講演内容は、バーゼル銀行監督委員会の国際的な銀行規制の枠組みとの関連において、金融行政の真の目的について再考を促したものです。
 ここで、森氏は、厳格な資本規制に代表される高度な銀行規制を「防護壁」に喩えたうえで、「金融システムの安定と経済成長という二つの目的を目指す上で、こうした防護壁だけで十分でしょうか」と問いかけて、規制は、仮に金融システムの安定という目的を実現するにしても、同時に、経済成長という目的を実現できるとは限らず、逆に経済へ悪影響を及ぼし、結局は金融システムの不安定要因になり得る点について、問題提起したわけです。
 
意図せざる帰結ですか。
 
 講演では、「防護壁」は、「何重もの分厚い防護壁」として、複雑で高度な体系を構成していて、一つ一つの要素が有効に機能し得たとしても、その全体の累積的効果においては、集積による意図せざる矛盾の生じ得ることが指摘されていて、その結果として、規制が実体経済へ悪影響を与えてしまえば、逆に、銀行の経営を不安定にさせ、規制目的に反するとされます。
 こうした事態の背景には、規制が静的で不動のものとして、画一的に、かつ一方的に銀行に適用されている実態があるとされ、故に、規制当局としては、弊害是正のためには、規制が機能すべき生きた具体的な局面において、動的な適用を工夫していくことが必要だとされて、「静的な規制から動的な監督へ」という表題の意味が明らかにされるのです。
 
「動的な監督」とは、金融庁と銀行との対話ですか。
 
 森氏は、「銀行と顧客がどのような共通価値を創造できるのか、銀行との対話を進めていきたい」と述べています。つまり、森氏の掲げる「動的な監督」とは、銀行と顧客との関係を重視し、顧客が銀行機能を利用して行う価値創造、即ち、経済活動の活きた動態において、銀行が能動的な貢献をし、銀行自身の価値創造ができるように、金融庁として、銀行に必要な指導と支援を行うべく、対話を行うことなのです。
 このように、森氏は、規制対象の銀行の先に、銀行の顧客を見据えています。森氏が登場する前の金融庁においては、銀行などの金融機関の視点が優越していたことは否めないわけで、金融機関の視点から顧客の視点への転換こそ、森氏が断行した金融行政改革の本質なのです。この改革路線は、現在の金融庁において、少しも後退することなく、確実に力強く推進されています。
 
ところで、対話と規制の「防護壁」とは、両立しないのでしょうか。
 
 森氏は、講演のなかで、規制当局が「防護壁」を築き、金融機関との対話を避けるのは、「規制の虜」を恐れるからだとの見解を示しています。「規制の虜」とは、被規制側の金融機関のほうに圧倒的に情報、知識、経験が偏在する現実において、規制当局が対話を通じて金融機関に接近することで、力の逆転が生じて、規制の主導権を金融機関に握られてしまう事態です。
 しかし、情報等の金融機関への偏在のもとで、規制当局が「防護壁」を築こうとすれば、安全性を過剰なまでに勘案せざるを得ずに、「何重もの分厚い防護壁」ができて、二つの深刻な弊害を生むわけです。第一は、壁が障害となり、規制当局には、金融機関と顧客との関係の実態が見えなくなり、第二は、金融機関は、往々にして、壁のなかにいる限りは何をやってもいいという倫理的頽廃に転落することです。
 そこで、森氏は、「規制の虜」と「防護壁」との両者の危険性を慎重に秤にかけて、一方で、対話路線によって「防護壁」の危険性を排除し、他方で、金融機関が顧客の視点に立つことで、対話に内在する「規制の虜」の危険性を回避しようとしたのです。
 
金融庁が金融機関と対話をするのなら、金融機関は顧客と対話をするわけですか。
 
 森氏の展開した重要施策は、金融機関に対する二つの要求に集約されます。第一は、金融サービスの提供において、フィデューシャリー・デューティーの徹底を求めることであり、第二は、不動産担保や保証に依存しないものとして、事業性評価に基づく融資の推進を求めることです。ともに、公表されたときには、言葉の斬新さもあって、金融界を大いに驚愕させたものです。
 フィデューシャリー・デューティーの徹底とは、用語の解説を省略して簡単にいえば、顧客の最善の利益に適うことであり、金融機関としては、顧客の視点に立って、顧客と対話する以外に、顧客の最善の利益を勘案する方法はないのですし、事業性評価に基づく融資において、事業性とは、融資の弁済能力を規定する顧客の現金創出能力のことなので、それを評価するためには、顧客の事業構造を深く理解しなければならず、故に、対話が必要になるわけです。
 
規制当局と金融機関との間の「防護壁」のように、金融機関と顧客との間には、対話を阻むものがあるのでしょうか。
 
 森氏がフィデューシャリー・デューティーの徹底を求めた背景として、当時の金融界には、「防護壁」がもたらす深刻な倫理的頽廃がありました。具体的には、表面的には完全に規制が遵守されているなかで、著しく投機的で顧客の利益に反する投資信託が大量に販売されていたのです。つまり、規制遵守は、金融機関を「防護壁」で堅く守ることとなり、そのなかで展開される規制の主旨に反した行動を正当化していたわけです。
 「防護壁」のなかで、金融機関は、顧客を見ずに、規制当局に視線を集中させ、顧客の最善の利益を理解しようとはせずに、「防護壁」のなかで許容される範囲内で、自己の利益を最大化しようとします。金融機関と顧客との対話を阻むものは、表層的な規制遵守であり、規制が正当化する範囲内で、利益を最大化しようとする金融機関の努力なのです。
 
そして、融資については、不動産担保や保証が対話を阻むわけですね。
 
 融資において、不動産担保や保証によって債権保全が十分になされていれば、債権者の金融機関は、債務者との関係において、業況悪化に早期に対応しようとする利益誘因を欠き、経営の現況に常に細かな関心を寄せようとせずに、債務者と緊密な対話をしなくなります。こうした債権者が担保等に安住する構図は、債務者との対話を阻み、その結果、債務者は債権者による適宜適切な支援を受ける機会を逸するわけです。
 
金融機関は、顧客と対話することで、共通価値を創造できるのでしょうか。
 
 金融機関は、金融サービスの提供において、顧客と誠実で真摯な対話をし、顧客の最善の利益を把握しようと努力すれば、必ずしも最善の利益を実現できるとは限らないにしても、必ず何らかの価値を顧客に創造できます。その結果として、金融機関自身の利益が生まれず、共通価値が創造されないのならば、商業の常識に照らして、経営管理態勢に致命的な欠陥があるはずで、その欠陥が直ちに是正されればいいのです。
 また、不動産担保や保証に依存しない事業性評価に基づく融資では、債権者は、債務者の経営破綻時に損失を被る可能性があるために、最悪の事態を回避しようとして、常に債務者と対話し、その業況に注意を払い、債務者と協働して、早期の対策を講じることになります。その協働の結果として、経営破綻を防止できれば、債権者の金融機関と債務者の顧客との共通利益が創造されるわけです。
 
森氏の二つの理念的要求は、最終的には、立法化されたのですね。
 
 フィデューシャリー・デューティーについては、2023年11月に成立した改正法の「金融サービスの提供及び利用環境の整備等に関する法律」において、全ての金融サービス提供事業者に対して、「顧客等の最善の利益を勘案しつつ、顧客等に対して誠実かつ公正に、その業務を遂行しなければならない」との義務が課されることで、立法化されました。
 また、事業性評価に基づく融資についても、3月15日に、「事業性融資の推進等に関する法律案」が国会に提出されていて、特段の障害が生じなければ、会期中に成立するのでしょう。
  ≪ 関連する論考をご紹介いたします ≫
顧客の利益に適っていても最善の利益には反し得ること(2024.2.1掲載)
2023年に改正法として成立した「金融サービスの提供及び利用環境の整備等に関する法律」に新設された「顧客等の最善の利益を勘案しつつ」の意味について論じています。

売るも親切、売らぬも親切の誠実公正義務(2024.1.25掲載)
2023年に改正法として成立した「金融サービスの提供及び利用環境の整備等に関する法律」における金融サービス提供者が負う誠実公正義務について、前原誠司議員による衆議院での審議過程を例に解説しています。

こうすれば金融機関は顧客の最善の利益のために働かざるを得なくなる(2023.9.21掲載)
顧客の最善の利益を追求するために、規制によらず「見える化」による健全な競争で金融業界全体の質の向上を図る金融庁の施策について解説しています。
(文責:翁)

次回更新は、4月25日(木)になります。
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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。