商業においては、顧客を理解することが決定的に重要だとされますが、普通の場合、人としての顧客を理解することは必要ではありません。例えば、インターネットで女性向けの衣料品を販売するとき、商人にとっては、買う人の性別や年齢どころか、実在するかどうかさえも知る必要はなく、男性が買おうが、同じ人が複数の異なる口座で買おうが、要は、商品に需要があって、商品が売れさえすれば、それでいいのです。
このことは、インターネット上の商業に限ったことではなくて、商業一般の原理です。店頭に現れた人は、最初は店員の目に映った像にすぎないわけですが、その人が商品を買うとき、その商品を買った限りにおいて、その具体的な商品の顧客に転化するのです。そして、店員は、その人について、商品を買った事実以外の一切を知り得ないのですが、その単純な事実は、需要と商品が適合していることを証明しているのですから、それでいいのです。
顧客があるのではなく、個別具体的な需要だけがあるということですか。
顧客というと、何か具体的な人を想定しやすいのですが、実際には、顧客は具体的な人ではなく、抽象的な顧客像です。つまり、具体的で現実的なものは、特定の商品に対する需要だけであって、その特定の商品に対する需要から、背後にあるものとして構成されるのが顧客像なのです。
事実として、通信販売やインターネット上の商業においては、現実に見えているのは特定の商品に対する需要だけです。そして、実は、その需要の背後に人としての顧客を想定する必要すらなく、敢えて想定するとしても、顧客は、想像上の像としての顧客像にしかなりませんが、だからといって、そこに不都合はないはずです。
ところが、対面の商業においては、特定の商品に対する需要をもった人が見えてしまうので、その像にすぎないものが具体的で現実的な顧客だと錯覚されるわけです。そして、通信販売やインターネット上の商業においても、対面の商業の延長にあるものとして、同様の錯覚が生じてしまうのです。
顧客という概念は捨てられるべきなのでしょうか。
商業において、商品の需要に的確に、速やかに、最小の費用で、最低の価格で応えることが目的なのならば、顧客という概念を捨てて、顧客の個別的で、具体的で、現実的な需要だけに着目し、所詮は像にすぎない顧客像を構成しようとする全ての努力を放棄し、経費を徹底的に削減すべきです。ところが、実際には、こうした革新的な試みがなされるにしても、結局は、顧客という概念を捨てきれずに伝統的な商業に戻ってしまうのです。
例えば、インターネット上の商業は、当初は、商品の需要に受動的に、的確に、速やかに、最小の費用で、最低の価格で応えることを目的として開始されるのですが、開始後直ちに、単なるアカウントにすぎないものを人としての顧客とみなし、その消費行動履歴から顧客像を構成し、構成された顧客像に対して、能動的な営業攻勢をかけるようになり、創業の目的に反した帰結を招くのが普通です。
緻密に構成された顧客像に対して的確な営業攻勢をかけるのは、その顧客像の裏にあるはずの人にとって、有益な情報提供にならないでしょうか。
迷惑な営業とならず、有益な情報提供になるためには、顧客像は極めて具体的に構成されていなければなりませんが、顧客像が具体的に構成できるためには、過去の消費行動の履歴が著しく狭い範囲に集中していなければなりません。範囲が狭ければ、そこに新たに投入された商品や、そこに埋もれて隠されている商品は、顧客像の裏にあるはずの人が求める可能性の高いものになり、それについての情報提供は、その人にとっても、商人にとっても、有益なものとなるでしょう。
例えば、インターネットで本を買う人がいて、その過去の購入履歴の範囲が著しく狭く偏っているときは、その狭い領域での新刊書に関する情報提供は、本を買う人にとって有益であり、高い確率で購入されることにより、商人にとっても有益であるわけです。
顧客を狭く絞り込むのは、商業の鉄則の一つですね。
普通は顧客を絞り込むといいますが、その意味するところは、正確には、需要の類型を絞り込み、それに適合した範囲に商品を絞り込むことにより、商品が需要に出会う確率を高くし、同時に、経費を合理化することですから、人としての顧客が絞り込まれているわけではありません。
実際、ある特定の類型の女性用衣料品に商品を絞り込むとき、様々な理由で、老若男女を問わず、様々な人が購入するとしたら、顧客は少しも絞り込まれていないのですが、だからといって、何ら問題はないはずです。
商人として、その様々に異なる購入動機を知りたいと思うのが自然ではないでしょうか。
顧客を理解するとは、要は、顧客の購入動機を知ることであり、商人が購入動機を知りたいと思うのは、需要の根源にまで遡及できれば、新たな需要を創造できると思うからです。しかし、そうした努力は、多様な需要に応じて多様な商品を揃えることにつながり、需要を絞り込み、それに応じて商品を絞り込むという戦略に反する帰結を生んで、事業戦略が曖昧になることで、営業効率は低下して、経費は増加していくのです。
では、顧客を理解しようとすることは、むしろ、有害だということでしょうか。
商業の基本中の基本は、個別具体的な需要を正確に理解し、それに過不足なく、的確に、最も早く、最も安く応えることに帰着します。需要の背後に顧客と呼ばれる人がいるとしても、顧客を理解するとは、単に顧客の誤解等の可能性を除去するだけのことにすぎず、それを超えて顧客を理解しようとすることは、多くの場合、商人の立場からする需要創造となり、商業の基本からの逸脱を招くのです。
顧客の誤解等の可能性を除去することは、実は、非常に難しいのではないでしょうか。
通常の商業においては、商品内容の適切な説明を表示することで、多くの問題は回避されていますが、それでも顧客の誤解等の可能性は残りますから、そこに販売員等の必要性が生じるのです。逆に、商業の基本において、販売員等は、その必要性のためだけにあるのであって、需要を創造するためにあるのではありません。もちろん、現実には、商業の基本からの逸脱が横行しているのですが。
しかし、普通の商業を超えて考えてみると、例えば、医療においては、患者の誤解等の可能性を除去するのは難しいことです。実際、腰痛で整形外科を受診した患者について、膵臓等の内臓の疾患の可能性を考えることは、医療行為以前の問題ではなく、既に医療行為の一部を形成しているのです。
そもそも、医療には、医療の目的は何かという難問がありませんか。
医療の目的は疾患等の治療なのか、患者の心身両面における健康の維持なのか、換言すれば、医療の対象は患者の疾患等なのか、患者そのものなのか、この難問が先鋭的に現れるのは、末期患者の苦痛を伴う治療行為であって、治療が目的ならば継続すべきですが、心身両面における健康の維持が目的ならば打ち切る選択肢もあるでしょう。
通常の商業においても、需要の背後の目的、目的の背後にある人にまで遡行していけば、医療と同じ難問が生じます。その代表例は、依存症や健康被害の可能性を伴う商品であって、これらを扱う商人には、社会的責務として、消費目的の妥当性についての良識ある判断、需要の背後にいる人への配慮が強く求められるのです。
金融においても、金融機能の利用者に対する配慮が強く求められますね。
住宅ローンが住宅の購入を目的としてのみ成立するように、金融機能は単独では存在し得ず、何らかの他の目的の実現のために利用されますから、金融においては、社会的責務のもとで、金融機能の利用目的へ遡行し、更に、その先にある利用者そのものへの配慮が強く求められるのです。金融庁は、この責務を顧客本位の徹底という名前で施策化しています。
・顧客本位な営業や広告宣伝はあり得るのか (2017.4.6掲載)
→顧客の内在的需要に関して、顧客満足と顧客本位の違いの観点から提言しています。
・投資信託や保険なんてプッシュしなきゃ売れないだろう (2018.3.15掲載)
→商業の基本における販売員の役割について、金融機関を例に営業行為への問題提起と理想の姿を提言しています。
・もう金融庁のいう顧客本位は古い (2020.1.9掲載)
→金融庁が求める顧客本位の徹底について、顧客ではなく、顧客の求めるもの即ち機能本位の徹底について提言しています。
(文責:長澤)
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。