そう旨くない羊羹が寂びた九谷の鉢に盛られるとき

そう旨くない羊羹が寂びた九谷の鉢に盛られるとき

森本紀行
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モノが不足していた貧しい時代には、モノは生産されるだけ売れて、経済は成長し、モノの効率的な供給のための産業構造が確立したのです。時がたち、モノが過剰なほどに満ち足りたとき、産業構造の転換は不可避だったはずですが、さて、本当に転換したのか。単なるモノの消費が付加価値を生まなくなったとき、モノに替わるべきものは何か。
 
 夏目漱石の「草枕」(1906年)の画家である主人公は、「余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好きだ」といいますが、実は、「別段食いたくはない」のであって、「あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ」というわけです。特に、「青磁の皿に盛られた青い練羊羹は、青磁のなかから今生れた様につやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる」と感じられるのです。
 この「草枕」に描かれた羊羹について、漱石以降の文学者で知らぬものはなかったはずです。例えば、谷崎潤一郎は、「陰翳礼讃」(1933年)のなかで、「嘗て漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられた」とし、「あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる」と書き、更に、「人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、恰も室内の暗黒が一個の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う」としています。
 いうまでもなく、文学的感興としては、夏目漱石は、羊羹を青磁の皿に盛り、光のなかに置いたのに対して、谷崎潤一郎は、陰翳を礼讃するという論考の趣旨から、羊羹を塗り物の器に入れて、薄暗がりのなかに置いた対照の妙にあるわけですが、実業を論じようとする本稿の趣旨からは、両者とも、「別段食いたくはない」といい、「そう旨くない羊羹でも」というように、食品としての羊羹には全く関心のなかったことが重要です。
 
羊羹を食べるコトにおいて、食べられたのは羊羹というモノではないということでしょうか。
 
 「草枕」の主人公にとって、羊羹は食品ではなくて美術品であり、モノとして食べる対象なのではなくて、鑑賞というコトの対象ですから、そもそも羊羹を食べたかどうかすら不明ですし、谷崎潤一郎の場合も、食べられたのは、「室内の暗黒が一個の甘い塊」になったものであり、芸術的感興の形象化されたものであって、羊羹自体ではないのです。
 また、両者にとって、羊羹は単独で価値あるものとして存立していたのではなく、夏目漱石の場合には、青磁の皿に盛られたものとして、谷崎潤一郎においては、塗り物の器に容れられたものとして、美的鑑賞の対象となっていたのであって、主役は、むしろ、羊羹によって引き立てられた食器のほうだったかもしれません。ならば、賞味されたのは、羊羹というモノではなく、羊羹が創造する美的感興というコトだったのです。
 
室生犀星の場合には、主役は明らかに陶器ですね。
 
 芥川龍之介は、「野人生計事」(1924年)という小品で、友人の室生犀星について語っています。ある日、この「陶器を愛する病」をもつ友人は、「上品に赤い唐艸の寂びた九谷の鉢」を芥川龍之介に贈与したのですが、その際、「これへは羊羹を入れなさい。(室生は何何し給えと云う代わりに何何しなさいと云うのである。)まん中へちょっと五切ればかり、まっ黒い羊羹を入れなさい。」といったというのです。室生犀星にとって、愛好の対象は陶器であって、羊羹ではなかったでしょうから、真っ黒い羊羹は、食べるモノではなく、赤い九谷の鉢の寂びた感じを引き立たせるコトのために必要だったにすぎなかったのです。
 そして、後日、芥川龍之介は、「都会で」(1927年)という小品において、「夜半の隅田川は何度見ても、詩人S・Mの言葉を超えることは出来ない。-「羊羹のように流れている。」」と書いたのです。S・Mは、いうまでもなく、室生犀星のことです。ここまでくれば、羊羹は食品というモノの領域を超越し、美的事象というコトに昇華しています。
 
しかし、前世紀初頭の日本においては、羊羹は庶民の憧れの食品だったのではないでしょうか。
 
 ここに紹介した作品が書かれた20世紀初頭の日本において、羊羹は、それなりに高価な菓子だったに違いなく、そうでなければ高価な食器に盛られて供されることもなかったはずです。つまり、羊羹はモノとして高い価値をもっていたのです。しかし、これらの創作をなした芸術家は、知識社会の最上層にあるものとして、時代の文化を代表するものとして、名声を有し、経済的にも十分に裕福であって、もはや羊羹を単なるモノとして賞味する段階にはありませんでした。
 つまり、知的にも経済的にも豊かな社会層においては、モノはモノの価値としては消費され得ず、何らかのコトに転換されて、より高次の価値として消費されるわけであって、例えば、羊羹は、様々に異なる状況において、それに適合した器に盛られ、それに相応しい方法で供されるコトを必要とし、そこで創造される美的感興というコトを楽しむものでなければならないのです。
 
経済的に豊かになった百年後の今、モノとしての羊羹の影は薄いようですね。
 
 今の日本で、羊羹を憧れの食べモノとする人は多くはないでしょう。羊羹は、もはや、食べようと思えば、いつでも食べられるモノであって、モノとしての稀少な価値を失ってしまったのです。同時に、羊羹に適合する器の選択に腐心するような知識人、古今の文学に通じ古美術に造詣の深い文化人は絶滅の危機に瀕していて、羊羹を美的に供する趣味的なコトも失われつつありますから、羊羹は存亡の危機にあるといえます。
 
そこに名門虎屋の取り組みがあるのですね。
 
 羊羹といえば虎屋です。虎屋は、室町時代後期の創業とされる菓子の老舗であって、現在でも、その羊羹は贈答品の代表格でしょう。もちろん、本稿は虎屋の宣伝のために書いたのではありませんが、書く過程で、偶然にも、虎屋の文化事業を知りました。実は、虎屋は、和菓子に関する学術雑誌として「和菓子」を定期発行しているほか、虎屋文庫という菓子の資料室を運営していて、そこに、2000年12月から続くウェブ上の連載企画として、「歴史上の人物と和菓子」があり、ここにあげた4人の作家も紹介されているのです。
 つまり、虎屋は、長い歴史をもつ高級和菓子専門店として、文化的事象である菓子の享受というコトに事業基盤を定位させているのです。このことは、虎屋の経営理念が「おいしい和菓子を喜んで召し上がって頂く」コトとされているのにも符合します。「おいしい和菓子」というところに、図らずもモノ作りの矜持が出ているのですが、本稿の趣旨に従って表現を変えれば、真の矜持は「和菓子をおいしく喜んで召し上がって頂く」コトにあるというべきでしょう。
 
羊羹が消費されるコトにおいて、それが虎屋の羊羹でなければならないという必然性がブランドなのですね。
 
 ブランドは、モノに刻印されておらず、この機会に、あの方に差し上げるのは、この虎屋の羊羹でなければならない、この場面で、あの器に盛るのは、この虎屋の羊羹でなければならないというように、モノが消費されるコトに刻印されています。つまり、虎屋のブランドは食文化というコトのなかにあって、羊羹というモノにあるのではないのです。
 そして、モノの品質は食文化というコトによって規定されます。「青磁のなかから今生れた様につやつや」した羊羹、「あの冷たく滑らかなもの」と呼ばれ得る羊羹は、モノを超えて美的事象に昇華しているのですが、その基底にあるモノを作るには、最上等の素材と最高度の技術を必要とするに違いありません。この文化的に規定された品質を備えたモノこそ、真に「おいしい和菓子」なのです。
 
いまや、多くの商品が羊羹と同じ状況にあるわけですね。
 
 モノ作りを自負する日本産業に、貧しき時代の効率的なモノ作りとしての未来はなく、日本文化の未来に、前世紀初頭の高等遊民が形成した社交界の復興はありません。では、いかにして新たな文化的コトに規定されたモノを創造できるのか、ここに日本産業の課題があるのでしょう。

以上


 
次回更新は1月21日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2019/03/14掲載「To the happy few 創造は狂気だ
2019/02/14掲載「資本主義は滅んで遊ぶ人の新コミュニズムになる
2015/01/08掲載「稀少すぎて値もつかない本
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。