会社員である前に人であり街の住人であり子である

会社員である前に人であり街の住人であり子である

森本紀行
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人は、家族をはじめ飲み屋の常連に至るまで、多種多様の人間関係に重層的に属していて、様々に異なる状況において、その場に最も適合した関係を識別し、その関係において適切に行動するのです。企業に働く人は、社内においても、人としての多様な関係を弁えるべきではないか。
 
 かつては、どの社会においても、人は身分をもっていて、身分は、国家、領邦、部族、地域社会、家族、職業集団、宗教組織などの様々な社会関係に応じて、重層的な構造をもっていました。人は、端的に人である以前に、多様な社会的関係に属するものとして、多様に規定され、多様に拘束されていたのです。故に、社会規範に従うとは、ある状況において、どの身分のものとして行動すべきかを適切に知り、その身分に応じた行動をとることでした。
 しかし、西洋の近世において、人から全ての身分を取り去っても、全ての社会的関係を捨象しても、そこに端的な人が残ることに気づかれ、普遍的な理念としての人が誕生しました。更に、理念としての人は平等に人権を保障された独立した人になり、国家等の社会的諸関係は、人が能動的に参画して建設した制度とされることにより、近代市民社会が成立したのです。そして、ここでの社会規範は普遍理性のもとの倫理に昇華します。
 現代社会に至れば、旧来の地縁等の社会関係は一段と希薄化し、家族関係すら、家の実体性の消滅に伴い、一種の契約関係に接近しつつあるようです。しかし、ある関係が消滅すれば、別の関係が生じるわけで、人は常に何らかの社会関係のなかに重層的に所属して生きることに変わりなく、何らかの社会関係に入れば、そこには必ず固有の規範があるのであって、社会関係が一定の実体性をもつことも変わりありません。
 
社会関係というよりも、実体性を強調して、コミュニティといったほうがよくないでしょうか。
 
 人は、日本国、都道府県、市町村、地域の町内会などの居住地に基づく諸関係に重層的に所属していますが、多くの場合、国籍は付与されるもので、居住地の選択は自由だとしても、ひとたび選択すれば諸関係が必然的に付随しますし、家族関係も、婚姻は任意だとしても、その後の諸関係は所与ですし、勤務先の選択は自由だとしても、雇われる立場としての諸制約があり、就職後は勤務先の諸規則に服するのですから、程度の差こそあれ、実体的な社会関係が先にあって、それに人は拘束されるのです。
 むしろ、人に対する拘束力をもつものが意味のある社会関係だといえるわけで、人の集団がコミュニティと呼ばれ得るのは、それが単なる集団ではなくて、内部構造をもち、そこに所属する人を拘束する力をもつからです。しかし、過去のようにコミュニティ自体に自然な拘束力が内在するのではなく、現代社会においては、人が先にあって、その意思によってコミュニティを形成して維持していること、そして、故に、コミュニティの規範に従うのは自分の理性に従うことであり、自律なのだということに拘束力の源泉があるのです。
 もちろん、人が先にあってコミュニティを形成するというのは擬制にすぎず、現代においても、過去と同じように、コミュニティが先にあって人が帰属している側面を否定できないのですが、擬制であり、仮構であり、神話にすぎないとしても、それは、国家をはじめとする全てのコミュニティに共通の基礎理念であって、現代社会を支配する基本原理でなければならないのです。
 
しかし、子供の親に対する関係や、企業等の職場については、その擬制すら成立しないようですが。
 
 成人前の子供の親に対する関係は、確かに現代社会の難問のひとつですが、進むべき方向性においては、親の子供に対する支配関係を完全に否定し、子供の人格の完全な独立を認めて、その主体性を前提としたうえで、家族関係は親の養育義務を軸とした機能的なものに変化していくと考えられます。いうなれば、出生とは、親が子を得ることではなく、子が親という保護者を得て家族というコミュニティを形成することなのです。
 
企業をコミュニティと呼ぶことは困難ではないでしょうか。
 
 遠い昔、企業はカンパニー(company)として生まれました。カンパニーとは仲間のことです。企業創出期の屋号として多くあったのは、創業者の名前の後ろにアンド・カンパニーをつけたもので、現代では廃れつつありますが、未だに古き伝統をとどめた屋号は残っています。
 つまり、カンパニーとしての企業は、擬制ではなくて歴史的事実として、創業者と、その仲間が先にあって形成されたコミュニティだったのです。また、最近まで、パートナーシップ(partnership)形態の企業も少なからず残っていましたが、いうまでもなく、パートナーシップは志を同じくする仲間としてのパートナーが対等の立場で設立した共同企業体であって、コミュニティそのものです。
 しかし、ひとたび企業が成立すれば、創業者グループに属する人やパートナーは、使用者としての特権的な身分を形成し、そのなかでは構成員の対等性を前提とした自治が行われているにしても、被用者とは身分が違うことになります。また、使用者が支配の利便性を追求するとき、多数の被用者のなかに組織が作られ、指揮命令系統が定められますから、そこに階層秩序ができて、被用者の身分の細分化が生じることは不可避です。
 こうして、企業は、昔の王国と同じように、支配と被支配の対立を明確に内部にもつので、そこに入社することが自由な意思に基づいていても、ひとたび入社してしまえば、人は、他律のもとに置かれ、組織内の身分に応じた責務を負うものとして、王国の臣民と本質的な差のない立場になります。
 
そこに企業としての不適切な行為や不祥事を防げない理由があるわけですか。
 
 人は、勤務先の企業に所属するだけではなくて、世界市民社会、国家、地域社会、家族等の多様なコミュニティに同時に帰属しています。そのなかで、人が企業としての不適切な行為や不祥事に加担してしまうとしたら、勤務先の所属員としての立場を絶対的なものとし、他の全ての立場に優先させるからです。故に、企業の改革とは、所属員に対して、それ以外の全ての立場を考慮させることになるのです。
 実際、国民としての立場を優先させれば、企業の所属員としての違法行為はあり得ないのです。故に、企業が社員に対して遵法精神の徹底のための教育を行うということは、実は奇怪なことであって、遵法とは、企業の所属員としての立場を離れ、端的に国民としての立場で行動することなのです。
 環境問題等の人類共通の課題も、企業の所属員としての立場ではなく、世界市民社会の成員の立場で考えられるべきことです。
 
働き方改革とは、勤務先の所属員としての立場を離れた働き方の推進なのでしょうか。
 
 働き方改革の進展は、育児や介護等において、家族の一員としての立場を企業の所属員としての立場よりも優先させるべき状況のあり得ることを明らかにしました。また、専門的な技能をもつ人々のコミュニティへの帰属意識が高まれば、人は特定の企業に所属する立場を離れ、副業を行い、更には自営業としての独立を目指すでしょうし、社会貢献を行うコミュニティへの参画は、勤務先から休暇をとってボランティア活動に励む人を生み出すでしょう。
 
真の顧客本位も、顧客基盤というコミュニティへ帰属した人としての働き方なのですね。
 
 顧客とは、いかに多数であろうとも、不特定多数ではあり得ずに、反復継続取引を前提とした特定されたものであり、故に基盤と呼ばれるべき実体性を備えていなければなりません。つまり、顧客基盤とは、ある企業の提供する製品やサービスに対する必需性を中核として形成されたコミュニティなのです。故に、真の顧客本位とは、企業に働く人に対して、企業に帰属している前に顧客基盤というコミュニティに帰属しているという意識をもたせることになるわけです。
 
地域に帰属するという働き方もあるでしょうか。
 
 例えば、地域金融機関は存亡の危機にありますが、そこに働く人は、この重大な転機に際して、地域金融機関の所属員という立場を相対化し、それ以外に、地域社会、金融の特定分野の専門家集団、顧客基盤、家族などの他の様々なコミュニティに帰属しているなかで、どの立場を優先させるかを決断しなければなりません。
 そして、多くの人が地域社会と顧客基盤への強い帰属意識をもって働く決意をするとき、逆に、地域金融機関は存亡の危機を脱するのです。
 
以上


 
本稿をもって今年の最後とします。次回更新は、新年1月7日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2020/07/30掲載「地域金融機関の地域への貢献とは何か
2015/10/01掲載「「国益への貢献」を掲げた金融庁の英断
2015/07/02掲載「投資のプロフェッショナルとは何か
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。