ディスラプトは破壊ではないぞ

ディスラプトは破壊ではないぞ

森本紀行
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産業構造の変革とは、古いものが長い時間をかけて衰退に向かうなかで、古いものからの収益が新しいものに投資されることにより、新しいものが時間をかけて成長していくことですから、連続性のある世代交代なのです。では、非連続の断絶により、変革は速まるのか。
 
 産業構造は一日にして変わるものではなく、仮に規制等の強制力をもって変革がなされる場合にも、一定の移行期間が設けられます。故に、古いものは直ちに消滅するのではなく、長い時間をかけて衰退に向かうわけですが、その間にも収益を生み続け、その収益が新しいものに投資されることによって、新しいものが成長していくのです。
 こうして、新しいものを創造するためには投資が必要であり、その投資期間中は収益を生まないが故に、投資の原資には古いものからの収益が充当されるほかないのならば、新しいものの創造は古いものの基盤のうえにしか生じ得ないことになって、古いものの延長にあるものは生まれても、真に新しいものは生まれ得ないはずです。
 
どうすれば真に新しいものが創造されるのでしょうか。
 
 最近では、ディスラプトdisrupt)という言葉が使われるようになり、一般には、創造的破壊、即ち、新しいものの創造は古いものの破壊を伴うという意味に解されているようですが、古いものが破壊されてしまったのでは大きな損失なのですから、破壊ではなく、不連続、あるいは非連続、即ち、古いものと新しいものの間に断絶を設けることと解されるべきです。
 つまり、ディスラプトとは、自然な流れにそった連続的推移を乱すこと、あるいは中断することであって、創造の性質について適用すれば、古いものが技術的条件等の環境の変化に合わせて自然に連続的に進化発展していくことではなく、その自然な流れが中絶されたところに全く新しく非連続な展開が始まることを意味するのです。
 
では、古いものは、ディスラプトされて新しい流れから切り離された後、どうなるのでしょうか。
 
 当然のことながら、古いものは直ちに価値を失って消滅するわけではなく、収益を生みながら、長い時間をかけて衰退に向かうだけのことであって、ディスラプトによって古いものが破壊されると考えることは誤りです。しかし、誤解が生じるのにも無理はなく、真に新しいものを創造する企業は世の注目を集めても、そこに古いものはなく、古いものは場所を変えて存続していても、そこには誰も着目しないので、破壊されて消え去ったかのように見えるのです。
 
では、ディスラプトとは、事業主体が交代することでしょうか。
 
 ディスラプトが非連続だとして、何が非連続かといえば、事業構造が非連続である以前に、事業主体が非連続でなければなりません。これは、事業主体の連続性からはディスラプトによる真の創造は生じ得ない、即ち、古い事業を継続しながら、それを自ら否定し、それを超克して、新しい事業を創造することはできないという自明のことです。
 つまり、連続的な進化においては、経験の積み重ねが小さな創造の継起を生むのですから、事業主体の連続性は不可欠であるのに対して、非連続な大きな創造のためには、事業主体の非連続性が不可欠なのであって、新しいものは新しい事業主体によって担われるほかないのです。
 
しかし、新しいものの創造のための資金が古いものから生まれるとしたら、その古いものから切り離されたとき、真の創造を行う企業は、どのようにして資金調達するのでしょうか。
 
 資金調達の面でも、ディスラプトは非連続なのであって、真に新しいものは、真に新しい資金によってしか、創造され得ないのです。しかし、その新しい資金は古いものからしか創出され得ないのですから、それに精気が吹き込まれることで全く異なった性格のものに転換され、真の創造を行う企業に再投資されていく流れを作る必要があります。
 いうまでもなく、その典型例は、起業家の事業売却と、売却によって得られた資金の再投資なのであって、ディスラプトとは、まさに、この事業売却によって生じる事業主体の非連続のことなのです。つまり、社会変革の速度が速くなっていくと、真の創造といえども、短期間のうちに古いものに転じていくわけですから、そのときに適切なる事業主体へ売却され、新規創造とは異なる経営技術のもとで、発展させられる必要があるのです。
 このようにして事業売却代金を得た起業家は、その資金を用いて新たに全く別の事業を創造することも理屈上は可能でしょうが、その成功は、人間の能力の限界として、極めて非現実的であって、実際には、投資家としての立場に身を変えて、創造に挑戦する別の起業家に資金を供給することになります。これが現代の事業創造の金融面における仕組みです。
 
そうした起業家の行動様式は、普通の企業の経営にも適用できるのではないでしょうか。
 
 企業にして、自分が現に営んでいる事業分野において、真に創造的な革新を起こそうとすれば、自己を否定するほかありません。つまり、現存事業を売却して退路を断ち、その売却代金を新規事業に投資するほかないのです。
 事業を売却して得られる金額は、その事業を継続したときに得られる未来の収益の現在価値なのですから、売却代金の再投資とは、古いものから得られる収益を新しいものに投資することなのですが、古い事業を継続しながら、その収益を新しい事業に投資することとは、集中投資による時間の短縮と、退路を断つことによる経営規律とにおいて、決定的に異なります。
 この違いは非常に重要で、退路を断つことは新規創造を速める方向への誘因として働くことに意味があるのですから、要は、時間に帰着するわけですが、時間の速さこそが変革の決定的成功要因であることについては、論を待たないわけです。
 つまり、古いものの収益力に依存し、その衰退速度に合わせて新しいものに投資していたのでは、新しいものの創造はできないのみならず、むしろ逆に、古いものの衰退を遅らせ、新しいものの創造を自ら阻む方向にすら、誘因が働きかねないのです。
 
まさに、そこに日本企業のおかれた深刻な状況があるのですね。
 
 日本企業は、過去において、執念にも近い異常な熱心さをもって、経験知に基づく小さな創造を地道に積み上げることで、一貫性、即ち、連続性のもとで、成長してきました。その成功の背景には、技術進化の速度が十分に追随可能なほどに遅く、そこに連続性があったからですが、今となれば、過去の成功体験は意味を失いつつあり、多方面において、ディスラプトされる、即ち、連続性が断たれるべき必要性が生じています。
 
日本産業をディスラプトするに際し、金融の仕組みを変える必要があるのではないでしょうか。
 
 日本のように、金融機能の中核が銀行等の預金取扱金融機関によって担われていると、預金を原資とした融資には高度な制約が課せられるので、融資先企業を全体としてとらえたときに収益を生んでいることが条件になりますから、収益を生まない新事業は、収益を生む旧事業との抱き合わせでなければ、存続し得ないわけです。
 そこで、政策的に、預金取扱金融機関の役割を大幅に縮小させて、金融の主舞台を資本市場に移転させる必要があります。資本市場では、多様な性格をもつ資金は、多様な手法を通じて、自らに適した性格をもつ事業に直接に投資されるわけですから、成長しないにしても安定している過去の遺産も、成長するにしても不確実な未来の産業も、それぞれに適切な投資家を見出すことができるのです。
 
経営技術の専門化も必要ですね。
 
 新規に事業を創造することと、創造された事業を経営することとは、何の共通性もないほどに全く異なっており、それぞれに固有の経営能力が要求されていて、その間には何の連続性もありません。故に、古いものはディスラプトされて、別の経営の専門性のもとで新しいものを生み、新しく生まれたものは直ちにディスラプトされて、別の経営の専門性に移転されねばならないのです。
 
以上

 

次回更新は、11月26日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2020/10/15掲載「資金調達の必要性が企業経営をよくする
2019/09/12掲載「成長しないものに投資価値はないのか
2019/03/14掲載「To the happy few 創造は狂気だ
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。