スルガ銀行の無知ゆえに免責された社外取締役は無用ではないか

スルガ銀行の無知ゆえに免責された社外取締役は無用ではないか

森本紀行
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スルガ銀行の組織的不正に関する第三者委員会の調査報告書は、取締役会が全く機能していなかった実態を明らかにしていますが、はたして、機能不全の背後にある事情は同行固有のものなのか。仮に、同行の状況が程度において異常だとしても、取締役会の構造的欠陥は日本の全ての企業に共通しているのではないのか。そして、取締役に機能不全に陥らせた責任はないのか。

 スルガ銀行の第三者委員会の調査報告書の目的は、表向きは確かに組織的不正の実態の検証になっているのですが、究極の要因は同行の取締役会が全く機能していなかったことに帰着してしまうのですから、報告書の実質的意義は、スルガ銀行の事案を材料にして、機能不全に陥っている取締役会における取締役の責任を問うというコーポレートガバナンスの一般論を展開したところにあるといわざるを得ません。
 なぜ取締役会が機能不全に陥っていたかというと、取締役会が十全な機能を果たすために欠くことのできない情報について、執行部門が全く提供してこなかったからですが、執行部門として取締役会に提供すべき必要十分な情報は何かという中核の問いは、スルガ銀行固有の問題ではなくて、容易には答え得ないものとして、全ての企業の取締役会にとっての難しい課題であるわけです。
 そして、この報告書は、一方で、岡野会長、米山社長のほか六名もの取締役について、善管注意義務違反を認定してはいますが、実は他方で、取締役会全体に対する評価としては、適正な判断をなすに足るだけの根拠情報がなければ取締役として適正な行動をとることができない以上、そこに責任を認めることはできないという結論になっているのです。つまり、知り得ないことに責任はないという考え方です。

執行部門は、取締役会に対して、不正事案にかかわる情報だけを隠蔽していたのではないのですか。

 スルガ銀行においては、執行部門が取締役会へ提供していた情報の不十分さは、今回の組織的不正にかかわるものだけではなくて、経営全般に及んでいたのです。
 なにしろ、スルガ銀行の特異で有名なビジネスモデルについてすら、「このように有名になった経営方針であるが、その(特異な)経営方針を採用することについて、正面から経営の基本方針の議案として取締役会等に付議されたことはない。それが是か非か議論されたこともない」というのが実態だったのです。これはもう、情報提供の不十分さというよりも、完全な欠落といったほうがいいくらいです。

では、責任を認定された取締役は、どこに問題があったのでしょうか。

 いうまでもなく、善管注意義務違反を認定された六人の取締役、一定の経営責任を免れないとされた二人の取締役、責任はないとされた社外取締役は、当該特定の不正事案に関する事項についてのみ、法的責任の有無と大きさを問題にされたのであって、スルガ銀行の取締役会が実質的に機能していなかったことの責任が問題にされたのではありません。これは、報告書の目的からして、当然のことです。
 つまり、不正が起き得て、しかも大規模に長期にわたって継続し得たことについては、取締役会の機能不全に究極的な原因を求めるべきなのですが、それは背景の事情にすぎないのですから、報告書は、背景を考慮に入れた検討を進めても、不正事案にかかわる責任の認定という段階になれば、取締役会の機能不全をもたらした責任までをも認定することはできないのです。

しかし、取締役会には、不正を防止し得るだけの内部統制システム構築義務があるのではないでしょうか。それが機能していなかった以上、そこに取締役の法的責任があるのではないでしょうか。

 当然のことながら、報告書は、個別の取締役の責任の検討へと進む前に、その点の検討を最初に行っています。結論は次の通りです。
 「取締役会として関与すべきレベルの制度あるいは組織としては、外形上、「通常想定される不正行為を防止し得る程度の管理体制」が整備されていなかったとはいえないものと思料する。現実にこれらの制度が機能しなかったことは、運用上の問題である。スルガ銀行の場合、大きな特徴は、形式だけはきちんと整っていることが多く、その本質が空洞化しているのである。
 よって、取締役(会)については、内部統制構築上の善管注意義務違反は認められない。」

法律論としては正しいのかもしれませんが、庶民感覚からすれば、著しく違和感がある結論ですね。

 「形式だけはきちんと整っていることが多く、その本質が空洞化している」という表現は、明らかに非難がましい口調です。法律の専門家といえども、本質を空洞化させた責任は、形式をきちんと整えることで免れるという点について、多少の庶民的疑問を感じるのでしょうか。
 しかし、「現実にこれらの制度が機能しなかったことは、運用上の問題である」という表現は、取締役会は制度を実効性のあるものとして適正に運用する責任を負わないという意味だと解するほかなく、それが「内部統制構築上の善管注意義務違反は認められない」という結論に直結するのでしょう。

その結論は、スルガ銀行の事案についてのみ適用があるのでしょうか。

 取締役会は、一定要件を充足した制度を整備してさえおけば、運用上の欠陥で制度が機能していなくとも、内部統制システム構築義務違反に問われないとする結論は、どう考えても、スルガ銀行の事案の検討から導出されたものではなく、第三者委員会を構成している弁護士が最初から抱いているコーポレートガバナンスに関する一般的見解とみなすほかなく、しかも、それは、報告書によれば、「現在裁判所が採用している基準」に準拠したものなのです。
 しかし、これは、法的責任を論じる視点での論理構成であって、法的義務の履行は、いわゆるミニマムスタンダード、即ち最低基準にすぎないものです。まさか、最低限、法律を守ってさえいれば、あとは何をやっても、やらなくても、社会的責任を問われないということではないですから、法律論を超えて、ここから先は、自由に社会規範論を展開することができるでしょう。

特に、スルガ銀行の事案に即していえば、機能不全の度合いが極端に大きいようですから、場合によっては、法的責任に近いところまで、社会的責任を追及し得るかもしれませんね。

 報告書は、上記の論理構成をとって取締役を免責にしているせいか、スルガ銀行の取締役会の機能不全ぶりについて、非常に饒舌に、おもしろおかしく語っています。
 例えば、「実質的な意思決定機関は経営会議までであり、すでに社内的に決定された事項を取締役会に付議し、いくつか社外役員のご意見を承るだけの場に過ぎず、物事を実質的に決定する本来の意味での会議、取締役会ではなかったというべきである」というくだりです。
 これを読むとき、責任を問われることなく「ご意見を承るだけ」の社外取締役というのは、「取締役会ではなかった」と断罪された似非取締役会において、どういう機能を演じていたのかと思わざるを得ず、報告書が砕けた表現を敢えて用いているのも、そうした疑念を呼び起こしたいからではないかと邪推したくなるほどです。

社外取締役の導入には、機能不全を防止する目的もあったはずですよね。

 スルガ銀行のように、代々創業者一族が大株主として支配してきた会社の場合、従業員から選任された取締役だけで構成する取締役会が全く機能していなかったとして、誰も不思議に思わないわけで、だからこそ社外取締役がいたのではないかという疑問こそ、本件の最大の論点ではないかと思われるのです。そして、この論点について、報告書は、饒舌にすぎる論及をしています。長いですが、以下の通りです。
 「また社外取締役にとっては、取締役会はほとんど唯一の情報収集の場であるが、そこで提供される情報は、執行側によって選択された報告議題について、執行側で作成された議案書を説明されるだけであり、社外取締役側から主体的に収集活動をして得られたものではない。このような収集体制だけでは、いかなる報告をされても、それが十分であるのかは、判断がつかない。必要な情報は他にあるかも知れない。執行側からすると、わざわざ自分に不都合なネガティブ情報を報告するとは思われない。またネガティブ情報を社外役員に提供することは同人らを善管注意義務違反にさらす恐れがあるため、それを配慮して提供しないという判断をする恐れも考えられる(余計な忖度である)。実際、サクト破綻のあと、2017年10月まで、シェアハウスに関する報告は全くなされなかった。それ以前の報告事項はいずれも紋切り型で、毎回「問題がない」と斉唱しているような内容であった。取締役会は、適時に情報を得られなかったので、監督機関としては全く機能しない状況であったといわざるを得ない。」

そうしますと、機能不全に関する論点は、取締役の情報収集能力に帰着しますね。

 内部の取締役は、執行部門における業務を管掌しているので、情報収集能力があるわけで、その情報を適宜適切に取締役会に報告する義務を課せられているのです。今回、善管注意義務違反を認定された取締役は、概ね、その報告義務の懈怠を指摘されたものだと考えてよいでしょう。
 それに対して、社外取締役は、情報収集能力をもちませんから、執行部門から報告されない限り問題事象を知り得ない、知り得ないから、責任はない、それが報告書の論理構成です。そこで、次なる論点は、社外取締役には、積極的な情報収集活動を行う義務はないのか、法律上の義務とまではいえないまでも、社会通念上、何らかの努力が求められるのではないのかということです。

経営の基本方針すら取締役会に付議されてこなかったスルガ銀行の実態を考えれば、疑問を抱き、疑問を表明することくらいは、社外取締役として、最低限なすべきだったということですね。

 その経営の基本方針について、最後に、報告書から引用して締め括りましょう。
 「総合的に見て他の金融機関とは大きく異なる経営手法であり、また飛び抜けた高収益を実現していたこと等を考慮すると、いずれかの時点で、「経営の基本方針」としてそのような方向性を採用・継続するかどうか、またそれを採用することのリスクは何であるか、ということは、取締役会で議論すべきであったとも思われる。なぜならば、他行がまったく採用していない経営手法というのは、逆に言えば採用しない理由もあることを示しており、そのリスクについてきちんと情報を収集した上、採否を議論すべきであるからである。また採用するのであれば、そのリスクの制御方法を議論すべきだった。高収益であるということは、素直に評価すればそれだけリスクを取っているはずだということである。」
 ここでは、「べきだった」という表現が使われていて、取締役に緩い義務違反が認定されているのです。「他の金融機関とは大きく異なる経営手法」が採用されていたことを社外取締役は熟知していたわけで、そこに伏在するはずのリスクについて疑問を抱かなかったのか、抱かなかったのなら、抱かなかった責任があり、抱いていたのならば、「そのリスクの制御方法を議論」するべく取締役会において積極的に発議する責任があったのではないでしょうか。

以上


次回更新は、10月11日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2018/01/25掲載「素人のガバナンスと玄人のマネジメント
2016/03/31掲載「素人裁判官が原子力発電所の運転禁止を命じてもいいのか
2015/11/19掲載「ルール遵守は金融機関の自己保身
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。